18、ルカによる福音書6章20ー26節
「さいわいなるかな」
今日の箇所は、一般に「平地の説教」と言われています。 同じような言葉が、マタイによる福音書5章の所にもあり、こちらの方は「山上 の説教」と言われています。 そして、どちらかと言うと、マタイの「山上の説教」の方がなじみがあると思い ます。 ルカのテキストが「平地の説教」と言われているのは、6章12節のところで、 イエスは山に上って12弟子を選び、その後17節で、 イエスは彼らと一緒に山を下って平地に立たれた とあるからです。 ただし、ルカのテキストが本来のものか、マタイの方が本来のものかは、いろい ろ論議されていますが、はっきりとは分かりません。 また両テキストで、内容的にも多少異なっています。 ルカの方では、4つの「幸い」と4つの「わざわい」が言われていますが、マタ イの方では9つの「さいわい」が言われ、「わざわい」は言われていません。 そして「さいわい」の言葉も、両テキストで多少異なっています。 20節。 そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、 「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。 神の国はあなたがたのものである。 この祝福の言葉は、原文では、「さいわいだ(マカリオイ)」という語が文の一 番初めに来ています。 文語訳ではそのように訳されています。 讃美歌の後に交読文というのがありますが、その41はマタイ伝の山上の説教で すが、そこには「幸いなるかな心の貧しき者」とあります。 イエスは、平地の説教を始めるに当たって、まず「幸いなるかな」と言って私達 を祝福されるのです。 「あなたがた」というのは、弟子たちを指しているでしょう。 ただこれは、イエスの12弟子だけではありません。 17節には、「おおぜいの弟子たち」とあり、イエスに従っていたすべての人を 指していると思います。 またそれは、私達キリスト者も含まれると思います。 確かに、24節以下には、「わざわいだ」という言葉もありますが、イエス は、基本的に私達を祝福し給うのです。 そしてこれは、聖書に一貫している思想です。 創世記において、神はアブラハムを召した時、彼を通して全人類を祝福すると約 束されました。 すなわち、私達は、神の祝福の下にあるのです。 しかしその祝福は、私達が何かをなして、それに対して与えられるものでしょう か。 20節、21節に言われている「・・・人たちは、さいわいだ」というのは、彼 らが何かを努力して、素晴らしいことをしたので祝福されているというのではあ りません。 「貧しい人たち」とか、「飢えている人たち」とか「泣いている人たち」とある ように、彼らの貧しい状態、飢えている状態、泣いている状態そのものが祝福さ れているのです。 もっと言えば、彼らの現在の状態が、そのまま祝福されているのです。 私達は常に、「さいわい」、「幸せ」な状態を求めます。 親は子の幸せを願います。 結婚したカップルには、「幸せになって下さい」と言います。 「幸せ」を求めるというのは、古今東西を問わず、すべての人間の求めるもので あります。 しかしその幸せは、時代によって人によって異なります。 私達は果たしてどのような幸せを求めているでしょうか。 今の日本の多くの人は、いい学校を出て、いい会社に就職をして、有利な結婚を して、財産を得て、健康で長生きすることが幸せだと考えているのではないでし ょうか。 しかしこれが本当の幸せでしょうか。 聖書ではどのように言われているでしょうか。 旧約聖書以来、聖書では「さいわいなるかな」というのが、非常に沢山出て来ま す。 その中には、世間一般で言われているのと変わらないように見えるものもありま す。 例えば、「シラ書」というのがあります。 これはプロテスタント教会では外典に入れられていますが、新共同訳聖書では続 編に入れられています。 そのシラ書の25章8ー9節には次のようにあります。 思慮深い妻を持つ人、 口を滑らせて失敗することのない人、 自分より劣る者に仕えなくてもよい人、 こういう人々は幸いだ。 分別を身につけた人、 聴く耳を持つ者に語ることのできる人。 こういう人々は幸いだ。 これは一種の格言であって、旧約聖書の箴言の中にも似たようなものがありま す。 このようなことは、世間一般でも言われているものですが、シラ書ではその次の 10節で次のように言われています。 さらに偉大なのは知恵を身につけた人。 だが、主を畏れる人はもっと偉大だ。 ここからも分かるように、聖書における幸いは、単に世間一般で言われているよ うなものではなく、何よりも神との関係において見られています。 すなわち、聖書では、神との正しい関係にあるというのが、最も幸せということ です。 そこでシラ書は、思慮ある妻を持つことも幸せであるが、主を畏れることが最も 幸せである、と言っているのです。 詩篇の中にも「さいわいなるかな」の言葉が多くあります。 そもそも詩篇は、この「さいわいなるかな」で始まっています。 詩篇1篇1節。(P.750) 悪しき者のはかりごとに歩まず、 罪びとの道に立たず、 あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。 そして「このような人は主のおきてをよろこぶ」とあって、詩篇の記者はまず最 初に、神の前に正しくあることが本当の幸せなのだ、と主張しているのです。 今日のテキストに出て来る最初の三つの事柄は、いずれも、世間一般では決し て幸せとは考えないものです。 少なくとも、親が子に願ったり、結婚したカップルに望んだりすることではあり ません。 貧しい人、飢えている人、泣いている人は、私達は普通不幸な人だと考えます。 そして、何とかしてそのような状態になりたくない、と思います。 しかし、主イエスは、そのような貧しい人、飢えている人、泣いている人を神の 祝福へと招いて下さるのです。 マタイによる福音書では「こころの貧しい人たち、さいわいである」と「ここ ろの」という言葉が付け加えられています。 これについては、多くの学者は、ルカのテキストの方が元の形であっただろう、 と言っています。 すなわち、イエスの言われたのは、文字通り「貧しい人」だったというのです。 それをマタイは、「こころの」というのを付け加えて精神化したというのです。 また、「いま飢えている人たち」もマタイの方では、「義に飢えかわいている人 たち」と精神化していますし、「今泣いている人たち」も「悲しんでいる人た ち」と抽象化されています。 このようなことからもルカのテキストの方が元の形であったように思われます。 イエスに従ったガリラヤの人々は、多くは実際に貧しい人たちでした。 そしてそのような貧しい人々が神の祝福に与るというのは、旧約聖書の預言にも あります。 例えば、イザヤ書61章1節(P.1033)。 主なる神の霊がわたしに臨んだ。 これは主がわたしに油を注いで、 貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、 わたしをつかわして心のいためる者をいやし、 捕らわれ人に放免を告げ、 縛られている者に解放を告げ、 社会保障も何もない時代、貧しいということは社会的に本当に弱い存在でした。 人々から重んじられず、それどころか相手にもされませんでした。 物質的に困るだけでなく、人々からも相手にされないという孤独感、精神的な淋 しさも味わわなければなりませんでした。 しかしそういう人は、おのずと神に頼ろうという気持ちを持ちます。 貧しいというのは、自分に何の頼りとするものがありません。 そこでおのずと神により頼むという態度になります。 敗戦後の日本は皆貧乏でした。 しかし、その当時教会にはよく人が集まりました。 しかし、日本も段々豊かになると、教会から人々が離れて行きました。 いろいろな物に満たされますと、人々はそのような物に頼り、段々神を求めなく なって行きました。 しかし、ただ貧しければ神に近いかというと、必ずしもそうではありません。 貧しいが故にかえって貪欲になる場合があります。 貧しい人がかえって物に汚い、ということもあります。 貧しいが故に物を盗んだり、ある場合は人を傷つけたりということもあります。 ここでイエスは、貧しい状態そのものが幸いだ、飢えている状態そのものが幸 いだ、泣いている状態そのものが幸いだ、と言っているのではありません。 彼らに神の国が与えられるから、彼らが飽き足りるようになるから、笑うように なるから、幸いだ、と言っているのです。 「神の国」というのは、神の支配ということです。 神の支配の下にあるということが本当の幸せなのである。 それが人間の本来のあり方であるからです。 人間は本来神の支配の下にある者として造られたのです。 それを他に頼るものがある人は、そちらをより頼んで唯一の支配者である神から 遠ざかっていくのです。 24節にあるように、富んでいる人は、富みによって満足しているので、神の支 配を求めようとしないのです。 今の日本は、富んでいる国です。 しかしその反面精神的には、非常に荒廃し、信仰からは遠いと言えます。 すべてが金だ、という価値観です。 そこから、他の人や他の貧しい国を思いやることが出来ない貧しい心になってい ます。 常に自分さえ良ければ、という自己中心的な思いがあります。 そういう態度は、しかしここにあるように、神の目から見れば「わざわいだ」と いうことになります。 わたしたちは、本当は取るに足りない貧しい者です。 それを自覚することが大切です。 そしてそのように取るに足りない貧しい者を、「さいわいだ」と言って、祝福へ と招いて下さる神の憐れみに目を向けることが大切です。 取るに足りない、何の功のない者を、祝福へと招いて下さる神の恵みに感謝を捧 げたいと思います。 (1991年10月13日)