26、ルカによる福音書8章26−39節
「悪霊をからの解放」
今日の話は、相当長い話しですが、1まとまりになっているので途中で切 る訳にはいきません。 ルカによる福音書8章には、イエスによって行われた4つの奇跡物語が納め られています。 すなわち、前の所では、嵐の海を静めた話しでしたし、今日の話は悪霊につ かれた人を癒した話し、そしてその次は、12年間長血を患っていた女を癒 した話し、そして最後は、会堂司ヤイロの娘を生き返らせた話しです。 このような奇跡物語りは、当時の素朴な信仰の持主が伝えていたものと思わ れます。 そしてルカは、そのような民衆の素朴な物語をここに集めたのだと思われま す。 今日の話は、イエスが悪霊につかれた人を癒した、という話です。 これも素朴な民衆の伝えていた話しであると思われます。 26節。 それから、彼らはガリラヤの対岸、ゲラサ人の地に渡った。 前の物語では、イエスと弟子たちが、多分ガリラヤ湖のカペナウムから舟に 乗り、途中で嵐にあった、という話しでした。 そしてその後、イエスは、ガリラヤ地方とは反対側の東に渡られたのです。 その間、突然嵐がやって来たことは、前に話をしました。 そのような危険な目にあって、対岸に渡りましたが、そこで大勢の人に福音 を伝えたのでなく、たった一人の人にでした。 しかもその人は、悪霊につかれた人で、他の人からは全く相手にされていな かった人でした。 このゲラサ人の地というのは、ガリラヤ湖の東側の地方で、異邦人の町々で あり、イスラエルの神は信じられておらず、異教の偶像が崇拝されていた所 です。 ですから、当時のユダヤ人は、めったにこの地方には行きませんでした。 イエスがこの地方に行った記事も、ここだけです。 27節。 陸にあがられると、その町の人で、悪霊につかれて長いあいだ着物も着 ず、家にいつかないで墓場にばかりいた人に、出会われた。 さて、ここでは、イエスは、ただ一人の人と相対されます。 今までガリラヤ地方では、夥しい群衆がイエスのそばに集まった、とありま す。 しかし、この湖の反対側では、大勢の人がイエスの回りに集まる、というこ とはなかったのです。 ただ一人の人がイエスの前に現れるだけでした。 しかもこの男は、汚れた霊につかれたとされた人でした。 社会からは見捨てられた人でした。 しかし、イエスは、この人に出会うためにわざわざ船に乗って対岸までやっ て来たのです。 イエスは、一人の人を大事にされます。 イエスは、私達一人ひとりを大事にされるのです。 決してじっぱひとからげに取り扱うのではありません。 苦しみを負っている一人の人、悩んでいる一人の人を大事にされます。 この人は墓場にばかりいた、と記されています。 そして、鎖でもつなぎとめておくことが出来なかった、と言われています。 どういう症状であったのかは、分かりません。 また、何故そうなったのかも、分かりません。 昔の人は、このような状態になった人を、悪霊にとりつかれたのだ、と言い ました。 30節を見ると、イエスが彼に名を尋ねると「レギオンです」と答えていま す。 レギオンというのは、ローマの1軍団のことです。 約六千人から成っていたそうです。 当時このガリラヤ湖の東の地方も、ローマの支配下にありました。 そして、このレギオンと言われるローマの軍団が駐留していました。 想像を逞しくする人は、この男は、このローマの軍団にひどい目にあったの だ、例えば、彼の家族のだれかがこの軍団によって虐殺されたとか、それが 原因で彼は気が狂ったのだ、そして総ての希望を失って墓場に住んだのだ、 といった想像です。 これは、全くの推測ですが、あるいは、そういうこがあったということも考 えられます。 それで、レギオンということを常に口に出していたのかも知れません。 とにかく、墓場に住む、ということは、この世の希望を全く捨ててしまっ たことを表しています。 社会からも家族からも捨てられてしまったのでしょう。 彼を理解する人は一人もなく、全くの孤独でありました。 しかし、ただ一人、彼を憐れみ、彼を愛し、彼を救おうとされた方がい ました。 イエスは、既に湖の反対側でこの男の苦しみを見、この男を救おうとされた のです。 湖を船で渡ったのは、この男に会うためでした。 イエスは、この男を深く憐れみ、この男にとりついている悪霊を追い出そう とされました。 これは夥しい群衆に福音を説くのにも劣らない重要なことでした。 しかし、この男には、イエスの憐れみが分からないのです。 28節。 この人がイエスを見て叫び出し、みまえにひれ伏して大声で言った、 「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるので す。お願いです。わたしを苦しめないでください」。 この男は、愛に飢えていました。 イエスが、この男に近寄り、愛を示そうとしても、それを素直に受け取れな いのです。 人が、自分に近付いて来る時、それは自分を苦しめるために来ているとしか 思えないのです。 すっかり人間不信になっていました。 そして、他の人に対して不信であるだけでなく、自分自身をも愛することが 出来なくなっていたのです。 着物も着ず、墓場に住んだというのは、そういうことを表しています。 このような男にだれも近寄ろうとはしなかったでしょう。 しかし、イエスだけは、この人に近寄りました。 この人を憐れに思い、この人の煩いを身に受け、この人の病を負おうとされ たのです。 この人は、今まで、本当の愛、本当の隣人を経験しなかったのかも知れませ ん。 イエスとの人格的な出会いにより、本当の愛、本当の隣人を経験して、病気 が癒され、正気にかえったのではないでしょうか。 奇跡が起こったとすれば、それはイエスが魔術を行ったからではなく、本当 にこの人を憐れみ、愛されたからです。 そのことにより、失われていた本来の人間の姿が回復されたのです。 病気が癒された話は、この人にとりついていた悪霊が沢山の豚に移ったか らだというように、民衆は説話風にこの話を伝えました。 勿論、イエスは悪霊をも支配し給う、という民衆の信仰に基づいた話しで す。 この男は鎖と足かせでつながれて監視されていました。 しかし、この男は鎖を引き千切ったのです。 力でおさえようとすれば、それにかならず抵抗しようとする力が生じます。 イエスは、最も手ごわい敵である悪霊を支配しました。 そして、それによって、この男は癒されたのです。 さて、この一人の男が癒された出来事を見ていたその地方の人々は、イエ スに立ち去ってもらいたい、と頼んだ、というのです。 37節。 それから、ゲラサの地方の民衆はこぞって、自分たちの所から立ち去っ てくださるようにとイエスに頼んだ。彼らが非常な恐怖に襲われていた からである。そこで、イエスは舟に乗って帰りかけられた。 彼らは、一人の人が癒されたことの大きな出来事に目を向けずに、沢山の豚 が水に溺れたことのみを見ているのです。 確かに、その村にとっては大損害であったでしょう。 しかし、それよりももっと価値のある一人の人が生かされた、その事実には 目を向けないのです。 ここに、いつの時代にもある、経済優先の志向があります。 今の日本もそうでしょう。 経済優先で、老人や弱い立場の人たちに対する配慮にかけています。 もうけるためには、たとえ人を犠牲にしても、公害を撒き散らしても、平気 なのである。 聖書においては、あくまで一人の人間を大切にします。 それは、神の与えし生命であるので、どんな小さな人、どんな弱い立場の 人、あるいは社会にとって何の価値もないと思われるような人であっても、 どんな物とも比較出来ないほど貴重なのです。 さて、この癒された人は、イエスについて行きたいと申し出ました。 38節。 悪霊を追い出してもらった人は、お供をしたいと、しきりに願ったが、 イエスはこう言って彼をお帰しになった。 彼は、今まで自分に冷たくした家族や、社会には帰りたくなかったのでしょ う。 しかし、イエスは敢えてそこに帰りなさい、と言います。 それは、そこにおいて彼のなすべき務めがあるからです。 彼は、神の憐れみによって癒されたのです。 そうならば、その神を他の人にも伝える、ということが、神の恵みを受けた 者の務めです。 だれにでも、その場その場において、神を証する場があります。 神を証する場所は、特定の場所ではありません。 それぞれの属している所、それが神を証する場所です。 私達も、神の憐れみを受けていることを思い、私達の場でキリストを証して いく者でありたいと思います。 (1992年3月29日)