48、ルカによる福音書16章19−31節

  「御言に聞くとは」



 今日の話は、イエスの譬話です。
新共同訳聖書では「金持ちとラザロ」という題がつけらています。
19−21節。

  ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らし
  ていた。ところが、ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、
  この金持の玄関の前にすわり、その食卓から落ちるもので飢えをしのご
  うと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。

ここに二人の人が登場します。
明らかに非常に対照的な二人です。
一方は、金持ちで、豪華な衣装を着、毎日ぜいたくに暮らしていました。
一方は、貧しい人で、しかも全身でき物におおわれていた、というのです。
おまけに犬がそのでき物ををなめていたとあり、何とも惨めな姿です。
明らかに、この二人のこの世での生は、はなはだ不公平です。
だれしも、金持ちの方の生活をしたいと思うでしょう。
ところが、この譬では、貧しい者の方はラザロという名前がしるされていま
すが、金持の方は記されていません。
この地方の人々の間では、金持ちの方が有名であって、多くの人に名前が知
られていたことでしょう。
名前が記されるというのは、重要な人物であって、この譬では、明らかに貧
しい人の方が重要人物とされているのです。
ここに聖書の価値観と人間の価値観の違いがあります。
 ところがある時、この二人は死んだのです。
22節。

  この貧しい人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふとこ
  ろに送られた。金持も死んで葬られた。

死というものは、すべての人間に平等にやってきます。
いくら金持ちでも、いくら立派な人でも、いくら地位があっても、いくら頭
脳がよくても、死を免れる人はいません。
すべての人は死ぬのです。
この点においては、すべての人は平等です。
ただ、金持ちは「死んで葬られた」とあります。
この葬りは、当時の習慣に従ってなされたもので、恐らく盛大な葬儀が行わ
れたことでしょう。
そしてこの葬儀は、この金持ちが自分の富でなすことのできた最後の華々し
い事であったでしょう。
私達の社会でも、葬儀はその人の生前の力を示すという要素があります。
 ところが、この二人が死んで、ラザロはアブラハムのふところに送られた
が、金持ちは黄泉にいた、とあります。
アブラハムは、彼らユダヤ人の先祖であり、正にラザロはその先祖のふとこ
ろに抱かれたのです。
一方黄泉(ハデス)は、死んだ者が行く所とされ、神の力も及ばない真っ暗
な所とされていました。
 この二人の生前の生活は、不平等でしたが、死後は逆の形に不平等になり
ました。
生前、この金持ちが特に悪いことをしたとか、罪を犯したというふうには言
われていません。
また、ラザロが生前特別いいことをしたとかいうことも言われていません。
それでは、彼らの信仰として、金持ちは裁かれ、貧しい人は救われるという
事実があったのでしょうか。
決してそうではありません。
金持ちだという理由だけで救われない、というのではありません。
ただ、金のある者は、すべてのことを金に頼ろうとする傾向はあります。
金ですべてのことができるというおごりがあります。
政治の世界でもそうではないでしょうか。
まず、金だ、という傾向があります。
そのために、政治家の汚職は後を断ちません。
政治改革が叫ばれていますが、果たしてどこまでできるかは疑問です。
金のある者が金に頼り、何でも金で解決しようとする態度は、確かに信仰か
らは遠いです。
信仰とは、富の力にではなく、神の力に頼ろうとする態度です。
 14節を見ますと、この譬をイエスは、「欲の深いパリサイ人たち」に語
ったようです。
13節で、イエスが

  あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。

と言ったところ、「欲の深いパリサイ人たちがイエスをあざ笑った」とあり
ます。
パリサイ人たちは、神と富とに兼ね仕えることができる、と考えていまし
た。
むしろ富は、神よりの祝福のしるしだとして、自慢していたのです。
この譬えに出てくる金持ちは、別に悪いことをしていたとは言われていませ
んが、19節から想像するに、恐らく自分の財産を誇り、自分の楽しみしか
考えていなかったようです。
そして、周りの人々からは、尊ばれていたでしょう。
しかし彼は、その豊かな財産を、神から与えられた恵みであることを忘れて
いたのです。
それゆえ、自分の家の玄関の前に座っていた貧しい人には、目を向けなかっ
たのです。
恐らく、自分とは関係のないものとして、無視していたのでしょう。
この貧しい人は、大声で何かを訴えたり、求めたりしたのではありません。
しかし、彼は何かを求め、問いかけていたのです。
しかしこの金持ちは、その問いかけに何も関心を示さなかったのです。
この金持ちは、その富のゆえに人々から尊敬されていましたが、神の目から
見ればそうではなかったのです。
 この貧しい人は、ラザロという名前でしたが、このラザロというのは「神
が助けて下さる」という意味です。
金のない者は、金の力に頼ることができません。
自分の力で何事でもできるというおごりがありません。
ここで、貧しい人がラザロという名前であったということは、この人が貧し
さゆえに自らの力に頼ることなく、神に寄り頼んだので、神が助けて下さ
る、ということを表しているのかも知れません。
 救いは神の一方的な行為です。
私達の価値判断で決めるものではありません。
とにかくここでは、神は貧しいラザロをアブラハムのふところに送り、金持
ちを陰府に送った、というのです。
陰府は、神の手も届かない所とされていました。
26節に、

  そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあ
  って、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そち
  らからわたしたちの方へ越えて来ることもできない。

とあります。
 さて、この金持ちは、陰府に行って、こんな苦しい所に兄弟が来ないよう
に警告してくれ、と言います。
玄関先の物乞いは無視していても、自分の肉親のことはよく考えています。
麗しい兄弟愛とも言えます。
これはしかし、人間の心理とも言えます。
これに対してアブラハムは言います。
29節。

  アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞く
  がよかろう』。

このモーセと預言者というのは、当時の旧約聖書全体のことです。
旧約聖書は、3部に分かれていて、第一部が律法(創世記→申命記)で、こ
れがモーセの書です。
そして第2部が預言者で、これには預言者の書だけでなく、ヨシュア記から
列王紀までの書も含まれています。
第3部は、詩篇などの諸書ですが、イエスの当時はまだ聖書として成立して
おらず、聖書として成立していたのは、第一部の律法(モーセ)と第2部の
預言者だけでした。
従って、ここで「モーセと預言者」と言われているのは、聖書全体というこ
とです。
ユダヤ人は、この旧約聖書には毎日接し、よく読んでいました。
しかし、知的に知るという事と、信仰とは違います。
正に、この金持ちの生き方は、そうでした。
この金持ちが貧しいラザロに注目して、彼に何かをしてやったということ
は、記されていません。
旧約聖書には、こういう弱い立場にある人の親切に保護しなければならな
い、という事が書かれています。
例えば、レビ記19章9−10節。(P.163)

  あなたがたの地の実のりを刈り入れるときは、畑のすみずみまで刈りつ
  くしてはならない。またあなたの刈り入れの落ち穂を拾ってはならな
  い。あなたのぶどう畑の実を取りつくしてはならない。またあなたのぶ
  どう畑に落ちた実を拾ってはならない。貧しい者と寄留者とのために、
  これを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主であ
  る。

この金持ちもユダヤ人であったので、この聖書の言葉はよく知っていたでし
ょう。
「隣人を愛せよ」という言葉もよく知っていたでしょう。
しかし、それらの言葉は、知的に知っているにすぎなかったのです。
それらの者への責任という事は、果たしていなかったのです。
 この金持ちは、それがアブラハムとか神とかだったら、もっと親切にした
だろうと考えたかも知れません。
しかし、神を愛するということは、すなわち身近にいる人を愛することなの
です。
ヨハネの第一の手紙4章20節。(P.380)

  「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に
  見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできな
  い。

 そしてラザロ(ヘブル名は「エレアザル」)というのは、「神が助けてく
れる」と言いましたが、イエスはヘブル名は「ヨシュア」で「神は助け」と
いう意味です。
実は、ラザロは、イエスを表しているのかも知れません。
そして私達の周りにも、形を変えた貧しいイエス、悲しんでいるイエスがい
るかも知れません。
「まだひとりも神を見た者はいない」と言われていますが、しかし最も近い
所のいるラザロを通して神に接することができます。
貧しいラザロは、大声で訴えてはいませんが、私達のごく身近で、私達に問
いかけているかも知れません。
そして私達は、その問いかけに気付いていないだけかも知れません。
そしてそれに気付くのは、やはり、ここで「モーセと預言者に耳を傾ける」
と言われているように、御言に真に耳を傾けることではないでしょうか。
私達も、常に御言に耳を傾けたいと思います。

(1993年8月22日)