52、ルカによる福音書18章9−14節

  「へりくだる者」



 今日の話もイエスのされた譬話です。
10節。

  二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう
  一人は徴税人だった。

ここに、全く対照的な二人の人物が登場します。
一人はファリサイ派の人で、他の一人は徴税人です。
この二人は、福音書において、しばしば登場します。
そしてイエスはしばしば、ファリサイ派の人とはぶつかりますが、徴税人に
は親しく接しられました。
徴税人と食事をされたという記事もあります。
当時のユダヤの社会では、ファリサイ派の人は、非常に尊敬されていまし
た。
しかし、徴税人は、非常に蔑まれていました。
それは、徴税人は、支配国ローマの手先になって、ローマ帝国に収めるため
の税金を同胞のユダヤ人から取り立てていたからです。
ユダヤは、ローマ帝国に支配され、エルサレムの神殿に収める神殿税の他
に、ローマ帝国に収める税も取られており、一般の庶民は経済的に非常に苦
しい生活を強いられていたのです。
さらに徴税人は、規定以上の額を貧しい人々から取り立てて私腹を肥やして
いたので、同じユダヤ人から憎まれていました。
さらに、常日ごろ異教の人達と接触していたので、ユダヤ教の律法も余り重
んじていませんでした。
当然ユダヤ人の社会においては、人々から嫌われ、軽蔑されていました。
 一方、ファリサイ派の人は、神の戒めを守り、敬虔な生活を送っていまし
た。
そして人々に尊敬され、その生活態度は、人々の模範でした。
徴税人とファリサイ派の人とを比べるなら、誰しもファリサイ派の人を評価
し、徴税人を軽蔑したのです。
イエスも決して、ファリサイ派の人の生活態度を批判し、徴税人の生き方を
評価していたのではありません。
ところが、14節を見ますと、

  義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人で
  はない。

とあります。
生活態度の正しいファリサイ派の人が神に義とされずに、うしろめたいよう
な生活を送っていた徴税人が義とされた、というのです。
非常に矛盾しているようにも思えます。
イエスはしかし、ファリサイ派の人をすべて批判し、徴税人ならだれでも神
に義とされる、と言っているのではありません。
 9節に次のようにあります。

  自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人に対しても、
  イエスは次のたとえを話された。

ファリサイ派の人は、常日頃聖書によく親しんでいたので、非常に敬虔な人
もいました。
しかし中には、非常に傲慢な人もいたのです。
彼らは確かに、徴税人のようにうしろめたい生活をしていたのでなく、律法
に従った非常に謹厳な生活を送っていました。
11節において、このファリサイ派の人は、

  奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、

と言っていますが、彼らはきっとその通り、何ら恥じるところのない真面目
な生活をしていたと思います。
また、「この徴税人のような者でもない」と言っていますが、当時の徴税人
は不正なことをして、貧しい人からお金を騙し取るということが日常茶飯で
あったようです。
さらに12節を見ますと、

  わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。

と言っています。
旧約聖書の規定には、週に二度断食をしなければならないというのはありま
せん。
ですから、このファリサイ派の人は、規定されている以上のことを自分に課
していた訳です。
この断食というのは、元々は罪の悔い改めの表現でした。
ユダヤには、年一度贖罪の日というのがあって、この日には断食をしなけれ
ばならなかったのです。
そして、ファリサイ派の人が週に二度断食をしたのは、他の人の罪まで贖お
うとしたからです。
自らの善行でもって、他の罪に汚れた人をも救おうとしたのです。
ですから、週に二度断食をするというのは、元々は非常に信仰的で、また純
粋な動機であったのです。
ところがイエスさまの時代のファリサイ派の人の断食は、そのような精神は
消え、むしろ自分達を誇るためのものとなっていたのです。
そして断食していることを人に見せていた、というのです。
イエスは、そのような人に誇るための断食を批判されました。
マタイによる福音書6章16節。(P.10)

  断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしては
  ならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦
  しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。

また、ファリサイ派の人は、「全収入の十分の一を献げています」と言って
いますが、これは旧約聖書の規定にあります。
そして、これをきちんと守っていた人は、非常に信仰深い人と思われたでし
ょう。
 とにかく、このファリサイ派の人は、律法に規定されている神の戒めを忠
実に守っていただけでなく、それ以上のことも進んでしていたのです。
そしてそういう生活態度は、評価されるものであって、決して非難されるも
のではありません。
イエスも、このようなファリサイ派の人の生き方自体を決して非難している
のではありません。
 しかし問題は、11節後半です。

  また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。

ここには、明らかに、このファリサイ派の人は、自分を誇ると同時に、自分
と同じ行為のできない者を見下げています。
「感謝します」と言っていますが、これは神への感謝というよりは、自分の
自慢です。
そもそも、自分を誇り、他を見下げるのは、祈りではありません。
祈りとは、神の前に自らをむなしくすることです。
祈りとは、自分を誇るのでなく、神を讃美し、自らの罪の赦しを乞い、神の
み心を求めることです。
このファリサイ派の人は、神の戒めをよく知り、それを忠実に行っていたに
もかかわらず、神のみ心からは遠かったのです。
 もう一方の徴税人の祈りを見てみましょう。13節。

  ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打
  ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」

この徴税人の祈りは、ただ一言「罪人のわたしを憐れんでください」という
ことでした。
しかし、これは神の喜び給う祈りです。
これは悔い改めの祈りです。
詩編は、祈りの書と言うことができます。
詩人がいろいろな場に遭遇した時に、神に祈ったものです。
そして、詩編の祈りにおいては、神を讃美するもの、神に感謝を献げるも
の、そして神に罪を悔い改めるものが大半です。
自らを自慢する祈りはありません。
詩編51編は、ダビデが大きな罪を犯した時に、祈ったものと言われていま
す。
その19節に、次のようにあります。

  しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。
  打ち砕かれた悔いる心を
  神よ、あなたは侮られません。

ダビデもここで、神の喜び給うのは、多くのいけにえではなく、悔い改めの
心だ、と言っています。
イエスも有名な「迷い出た羊のたとえ」において、

  このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない
  九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。

と言っています。
 さて、今日のたとえにおいて、徴税人は、自分の生活に何の誇るところも
ありませんでした。
そして、今までは不正なことをして、私腹を肥やしていたとしても、平気で
あったかもしれません。
しかし、どういうきっかっけがあったのかは分かりませんが、今そのような
自分の罪の赦しを神に乞うために神殿にやって来たのです。
これは、あの放蕩息子が父親の所に戻って来たのと似ています。
放蕩息子も父の所に帰って来たとき、「お父さん、わたしは天に対しても、
またお父さんに対しても罪を犯しました」と言っています。
今日の話のファリサイ派の人と放蕩息子の兄とも似ています。
放蕩息子の兄も、放蕩息子が戻って来たのを全然喜ばず、自分と弟を比較し
て、「こんなくだらん奴はない」と軽蔑したのです。
 しかしイエスは、放蕩息子もまたこの徴税人も、「自分は罪人だ」と言っ
て、神の憐れみを乞うているその求めを大切にされます。
祈りにおける最も大切な求めは、「神のみ心を求める」ものです。
この徴税人は、「胸を打ちながら言った」とあります。
これは熱心な求め、心からの悔い改めを表しています。
自分の罪を自覚し、その赦しを求めているのです。
そして、この求めは、神のみ心に叶うのです。
神の喜び給う求めなのです。
 14節後半は、イエスのされた譬話にルカが付け加えたものであると思わ
れます。
もっともこの言葉自体は、イエスの言葉でしょうが。
ルカはここで、徴税人の態度を、「へりくだる者」と理解したのでしょう。
二人は、祈るために神殿に上りました。
神の前に祈るときの私達の態度は、決して自分を高ぶるものではなく、へり
くだるものです。
 私達は、常に、自分にプライドをもち、他人と比較して、自分の方がまし
だと思いながら生きている場合が多いのではないでしょうか。
もっとも、私達は何らかのプライドをもつゆえに、元気に生きられるという
も面もあります。
しかし、聖なる神の前に出るならば、どんなにプライドのある人でも、自分
を低くせざるをえません。
預言者イザヤは、神殿において神の臨在に接したとき、「わたしは汚れた唇
の者」と言いました。
私達は、神の前に出るとき、どんなプライドも打ち砕かれて、ただ自分の罪
を告白せざるを得ません。
 しかし神は、憐れみ深い神であって、私達が自らを低くして、へりくだる
とき、必ずその罪を赦してくださいます。
この徴税人も、それを信じ、それを求めたのです。
私達も、神の前に自分を自慢するのでなく、私達の真実の姿を見詰めて、私
達の罪を神に赦しを乞うことが大切です。
私達も、他人と比較して、自分のましな所を数え上げて行くのでなく、神の
前に自分を低くし、へりくだって、罪の赦しを乞うものでありたいと思いま
す。
そして、神は、そのようなへりくだる私達の罪を必ず赦し給うことを信じる
者でありたいと思います。

(1993年11月14日)