58、ルカによる福音書20章27−40節
「生きている者の神」
ルカによる福音書において現在学んでいる所は、主イエスがエルサレムに 入られてから1週間の出来事です。 その1週間の間に実にいろいろなことが起こりました。 エルサレムの神殿から商人たちを追い出したという事件もありました。 そして、ユダヤ教の指導者たちと何度か論争をしました。 前の箇所の、「皇帝への税金」の問題もそうでした。 今日の箇所は、サドカイ派の人と「復活について」論争した記事です。 サドカイ派というのは、ルカによる福音書ではここにしか出てきません。 当時のユダヤ教には、三つの派がありました。 ここに出てくるサドカイ派は、聖書には余り出てきませんが、大祭司の家系 を中心とする貴族階級であり、権力者の側でした。 この時代は、ローマの為政者と妥協し、そのことの故に民衆からは支持され ていませんでした。 もう一つは聖書に一番多く出てくるファリサイ派です。 このファリサイ派は、聖書では律法主義者とか偽善者として出、主イエスと もしばしば対立し、私達も余りいい印象をもっていないのではないでしょう か。 しかし、元々は非常に敬虔なグループでした。 紀元前2世紀にシリアの王によって偶像礼拝が強要された時、それに抵抗し て、戦ったグループにハシディームというのがあります。 これは、敬虔な者という意味です。 彼らは、偶像礼拝によって神の名を汚すよりは、神の律法に従い、死を選ぶ 方がましだと言って、喜んで殉教していったのです。 非常に純粋に信仰を貫いた人たちです。 ファリサイ派は、この敬虔な者の流れを汲むものです。 新約聖書では余りいい印象では伝えられていませんが、当時のユダヤ教では 最も信仰的だと思われていました。 もう一つの派は、エッセネ派というグループです。 ただこれは、聖書にはその名は出てきません。 このグループの実態は、余り知られていませんでしたが、1948年に死海 の西の荒野の洞窟から「死海文書」が発見されてから、徐々にその実態が分 かってきました。 すなわち、エッセネ派は、都会の生活から遊離して、荒野で共同体を形成し ていたのです。 私達も先年のイスラエル旅行において、彼らが生活していたというクムラン の遺跡を見てきました。 死海の西側の全くの荒野の丘にあるクムランの遺跡には、昔のエッセネ派が生 活をしていた跡が残っていました。 彼らは、他の社会と全く遊離して、非常に禁欲的に暮らしていたのです。 主イエスも最初このエッセネ派と関係していたという説もあります。 さて、今日出てくるサドカイ派は、このエッセネ派とは、対照的です。 華やかな都会で、権力者と手を結んで、優雅な生活をしていたのです。 そして彼らは、復活を否定していた、というのです。 サドカイ派は、モーセ五書を重んじました。 そしてモーセ五書には、復活思想はないのです。 そこで、彼らは復活を否定していた、というのです。 ファリサイ派は復活を信じていました。 ですからここでの論争は、主イエスに対してというよりは、ファリサイ派に 対してのような気もします。 とにかく、サドカイ派の人々は、イエスが復活についてどういう意見をもっ ていたのか知りたかったのでしょう。 イエスに対する質問は、前の「皇帝への税金」のこともそうでしたが、いず れも非常に難問です。 28節。 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻 をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継 ぎをもうけねばならない』と。 これは申命記に記されている規定で、レヴィラート婚と言われています。 古代イスラエルは、家族制度を大切にし、跡継ぎが必要でした。 そしてこの風習は、現在もアラブの一部の部族に残っているということで す。 すなわち、ある家族に跡継ぎの子を残すために、長男が子を残さずに死んだ 場合、その次男が長男の嫁と結婚しなければならない、という規定です。 そして、ここでサドカイ派の人が問題にしたのは、次々と男の兄弟が子を残 さずに死んだ結果、その女は7人の兄弟と結婚した、というのです。 そしてそのような場合、死後は天国において、その女はだれの妻になるの か、ということです。 そして、このサドカイ派の人の言いたいことは、復活など信じれば、このよ うなややこしいことになる、ということです。 それに対する主イエスの答えは、34−36節です。 イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の 世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めと ることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使 に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。 ここで主イエスが言っておられるのは、復活はあるが、復活後のことは、こ の世のあり方とは全く違うのだ、ということです。 復活ということは事実です。 現に主イエスは、復活されました。 そして毎年イースター礼拝においては、私達はそのことを記念しています。 また、私達もキリストと同じように復活することが約束されています。 私達はこのことを信ずるものです。 しかし、復活後どのようになるのかは分からないのです。 少なくとも、主イエスが言われているように、この世のあり方とは違うので す。 復活後どうなるのか、ということは、初代教会においても関心の的であっ たようです。 コリントの教会においても、復活のことが問題になっていたようです。 一方では復活などない、と言っていた人もいました。 そして一方では、復活後どうなるのか、ということを問題にしていた人もい たようです。 コリントの信徒への手紙一15章12節を見ますと(P.320) キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなた がたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういう わけですか。 とあります。 コリントの教会の中にも、サドカイ派の人と同じように復活を否定する人た ちがいたのです。 しかしパウロは、復活を堅く信じ、この人達を非難しているのです。 また35節を見ますと、 しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞 く者がいるかもしれません。 とあります。 ここには、復活後はどのようになるのかといって詮索していた人達がいたと いうことです。 そしてパウロの答えは、42−43節です。 死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちな いものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活 し、蒔かれる時には弱いものでも、力強いものに復活するのです。 すなわち、私達のやがては朽ちてしまう体が朽ちないものに甦えらされると いうのです。 すなわち、この世のあり方とは全く違うのです。 そしてこれだけなのです。 ですから、死後のことをあれこれ詮索するのは、私達人間には許されていな いのです。 これは神のみぞ知る領域なのです。 パウロはこれを奥義と言っています。 宗教によっては、死後のことを非常にリアルに言うものもあります。 あやしげな新興宗教は、特にそのような傾向があります。 「あなたの先祖が霊界において苦しんでいる、だから供養しなければならな い」などと。 そして揚げ句の果てに非常に高額の物を買わされるというようなこともあり ます。 しかし、お金でもってあの世のことを操作できることは決してないのです。 また、もうすぐ世の終わりが来るというようなこともそうです。 確かに、聖書においても世の終わりのことが記されています。 しかしそれがいつ来るとか、どのようにして来るかは、私達人間には分から ないのです。 これは神のみぞ知ることです。 それをあたかも知ることができるように思ったりして、何年何月に来ると か、このようにすれば天国に入れるというようなことは、人間には許されて いないのです。 それはただの詮索であって、人間には分からないのです。 ただ、私達はキリストと同じ復活に与ることが許されている、ということを 信じるだけです。 ただ、それだけです。 そしてその後のことは、全く神に委ねるのです。 私達にとって大切なのは、死後の世界のことをあれこれ詮索することでは なく、現在の生を大切にするということです。 神は、今生きている私達に働きかけるのです。 イエスは今日のテキストの38節において、 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、 神によって生きているからである。 と言っています。 そうです。 聖書の神は、生きて働き給うお方です。 ですから、私達はあの世のことを詮索するのではなく、生きている今を神と の関係でどのように生きるかということが大切なのです。 神は、現在の私達の苦しみを知り、私達の祈りを聞き、救いの手を差し延べ て下さるのです。 また時には、私達に試練をお与えになります。 しかしこれは、私達を愛するがためです。 また、喜びをも与えて下さいます。 神は私達に命を与え、またこの命を支え、育み、また時至れば命を取り去 る、そのような生きて私達に働きかけ給うのです。 そして私達と人格的な関係をもたれるのです。 まさに、主イエスが言われるように「すべての人は、神によって生きてい る」のです。 否生かされていると言った方がいいかもしれません。 私達はこの私達を生かし、私達を導き給う神に、常に依り頼む者でありたい と思います。 (1994年3月13日)