さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデでの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか。地上の王たちはこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して、主とそのメシアに逆らう。』事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。
では、彼らがそのような危機の中で神に何を祈ったのでしょうか?自分たちは大変な目にあいそうだから、どうか悲惨なことにならないように守って下さいと神の慈悲を祈り求めたのでしょうか。当然、そう祈ってもよいような環境にありながら、彼らはそのようには祈りませんでした。二九節後半の言葉は特に印象的です。「あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」。神の言葉を大胆に語ることができるようにと求めたのです。そして、祈りを終えると彼らは、「皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」と三一節は記しています。
「大胆に」という言葉は原語のギリシア語ではパレーシア(parrhsia)と言いますが、このパレーシアという言葉が使徒言行録では非常に頻繁に使われています。使徒言行録の一番最後の節、二八章三〇節ではローマでのパウロの生活について「全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」という文章で締めくくられています。この「全く自由に何の妨げもなく」というのもパレーシアという言葉です。使徒言行録はまさに、神の言葉を大胆に語ることの難しさや喜びを書き記した書物であると言うことができるでしょう。
しかし、聖書の中で語られる「大胆さ」というのは、私たちが日常使い、イメージする大胆さと必ずしも同じではありません。普通、日本語で「大胆に語る」という言葉を聞くと社交的な人が何かをずばりと言ってのけるようなイメージを持ちます。いい意味でも悪い意味でもそれは使われるでしょう。また、大胆という言葉について言えば、「最近の若者は大胆だ」という使い方もされます。しかし、聖書の言う大胆さというのは傍若無人であることや、社交的であること、また、流暢に雄弁に語ることではありません。今日の聖書箇所の前でペトロとヨハネが取り調べにあっている場面がありますが、一三節にはこのように記されています。「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、…」。二人とも元漁師です。正式な教育など全く受けていませんから何かを知ったふりをして雄弁に語ることは到底できません。だからこそ、議員たちが知らないような大胆さをペトロたちが持っているのを見て驚いたわけです。ともかく、聖書は二人の態度に対して「大胆」という言葉を与えています。
問題は何でしょうか。問題を突きつけられた時に私たちは自分の言葉で何を語ることができるか、それが問われています。自分の言葉で語ることのできる何を持っているのか、それを聖書は問題にしています。ペトロたちは何か神がかり的な恍惚状態になって、超自然的な力によって語らせてもらっているわけではありません。腹話術の人形のようにただ体があって、話すのは人形を操っている人がやってくれるというわけにはいかないのです。自分自身の腹の底から出てくるような確信に満ちた言葉に対して聖書は「大胆さ」という表現を用いています。そしてさらに、その大胆さは語るその人に根拠付けられるのではなく、神から来たものであることを聖書は語るのです。
自分自身の言葉で語る、あるいは、自分自身を表現するということが日本人は一般的に苦手だと言われます。そもそも、日本の国語教育では自己表現のための訓練はほとんどしません。おしゃべりすることはできます。感情をあらわにして相手にぶつけることもできます。しかし、それらと自分の言葉を持つということとは明らかに違います。聖書的な大胆さとは、借り物の言葉ではなく自分自身の言葉で真実を語ることのできる創造力を内に秘めています。
私たちはもうすぐペンテコステを迎えようとしています。ペンテコステは使徒言行録の二章に記されているように聖霊が教会に臨んだ日です。しかし、ペンテコステの出来事は一回限りで終わってしまったのではありません。三一節にあるように教会は新たなペンテコステを経験します。イースターの日が過ぎ去っても教会が日曜ごとに礼拝をして主イエス・キリストの復活をおぼえます。同じ様に、私たちは日曜ごとにペンテコステの出来事にも心を向けるのです。聖書は、孤独を愛する人に社交的になれとか、寡黙な人におしゃべりになれという人格改造を要求してはいません。ただ、こじんまりとまとまった宗教的教養人としておさまってしまうのではなく、神の前に開かれ、神の言葉に聞き、そして神の言葉を語るあの大胆さを知るように呼び掛けているのです。
(一九九三年五月九日、札幌北光教会、小原克博)