3つのイフと富山の戦略

 観光客でにぎわう文化都市金沢のイメージは、加賀百万石のたまものである。江戸期、越中のうち四十三万石は加賀藩領であり、富山藩は婦負郡と富山城周辺の十万石を占めるに過ぎなかった。金沢の華やかな文化は越中が支えたのである。
 もし、佐々成政の富山藩が近世を生き残っていれば、五十三万石の文化が富山に花開き、富山県のイメージは全く変わっていたに違いない。

 同じように「もしも」と思うことの中から、今後の富山の戦略を考えるために、広域交流に関連する「イフ」を3つほど選んでみよう。

 一番目、明治初頭、飛騨が富山県に入る可能性があった。もし、入っていれば、飛騨と富山の経済・文化の結びつきはもっと深く、相乗効果も大きかったに違いない。富山市は、人口百三十万以上の県都として金沢と拮抗する都市になっていたかもしれない。
 富山県にとって、南北方向の連携は意外に重要である。このような視点なども踏まえ、現在、県南部地域と飛騨地域が「飛越協議会」を作って連携を図っており、また岐阜、愛知や能登と連携する「日本中央横断軸構想」を推進している。

 二番目は、戦後の電力再編成時に、新潟県が北電管内に入る可能性があったことである。しかし、新潟県は東北電力管内に入り、経済団体も東北経済連合会に入っている。電力再編成が地方の区分に及ぼした影響は意外に大きい。北陸は元々新潟県を含んでいる。新潟県が北電管内に入っていれば、富山は「北陸」の地理的中心として、北経連その他「北陸」の多くの組織の事務局が置かれた可能性が強い。
 いずれにせよ、富山県は新潟県ともっと連携して行くべきだろう。

 三番目は、もし冷戦がなかったら、環日本海の経済・文化交流が活発に行われ、日本海沿岸地域は、もっと発展していたに違いないことである。
 現在、対岸諸国は混乱状態にあるが、長期的に見れば、可能性は大きい。

 環日本海交流や県間の連携交流は、このような長期的な視野の下、目先にとらわれず積極的に進めて行くべきだと考える。




富山市の北陸電力本社ビル(2番目のイフ関連)

 これは、平成8年2月3日の北日本新聞の談論自由席覧に掲載された拙文です。(関係県の皆さん勝手なことを言ってごめんなさい。)

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