閉   鎖   病   棟

(六)


 六月になると、中庭の紫陽花も、花弁の色が日増しに鮮やかになってきているが、空模様は愚図つき、梅雨寒の日が続いている。
 部屋の片隅に置かれた小机で、日誌の整理をしていた和紀が、ふと手を休めて、
 「六月だというのに、この辺りには燕が見えないねえ」
 と、畳に寝そべってA・Aの書物を読んでいた橘さんに話しかけた。
 今日も朝からの雨で、散歩を見合わせて静かな時間を過ごしていた。
 開けてあった窓から、霧雨が風に乗って部屋にまで入り込んできた。
 「そういえば見たことないなあ」
 「こういう大きな建物だから、一羽や二羽いても不思議ではないけどねえ」
 立ち上がって窓を閉め、机に戻ろうとした時、
 「ホラ、燕」
 と橘さんが指差しながら叫んでいた。
 その声に思わず振り向くと、ベランダの手摺りに、雨に濡れて光沢のある翼を持つ燕がいる。
 言った途端に現れるなんてと思って見ていると、煙る雨を断ち切るようにして、もう一羽が飛んできた。
 二羽の燕は身体を震わせ雫を拭い、互いに見つめ合うような素振りをし、病室の中を探るように見回してから、再び霧雨の中へ飛び立って、見えなくなってしまった。時間にして、数十秒のことだった。
 「つばめだー」
 「燕がいたぁー」
 驚嘆な声を出し合ってふざけていると、天井のインターホンが、玲子が面会に来ていることを告げた。
 普段の病棟では、患者にコントロール能力をつけさせるためから、家族の面会には厳しい制限がある。
 和紀が頼んだ訳でもないのに、突然玲子が来るなんて不思議な気がしたが、深くは考えずに面会室に向かった。
 婦長と一緒に待っている玲子は、何時もと違い少し小さくなって見えた。
 ショートカットの髪に、まだ雨滴が光っている。随分急いできたことは察しがついた。
 婦長に促されて、ソファーに腰掛けると、少しためらった後に
 「お義父さんが……」
 それだけ言うと、ハンカチを固く握りしめた手を膝において、俯いたまま、和紀の言葉を待った。
 「死んだか……」
 落胆の色を濃くして、低く呟いた。
 玲子は、和紀に父の死を知らせるには忍びなかった。
 彼は、父を最大の人と思って崇めていたし、愛してもいた。
 その思いは、氏家の家族の誰よりも強いことを、玲子自身が感じていたことでもあるし、彼の父への思いは、主治医からも聞かされている。
 それだけに(死んだ)等とは言えなかった。
 「朝方、洋一お兄さんから電話で……。今朝の三時ごろ亡くなったと……」
 「繙繙そうか。死んだか……」
 和紀も、父が入院したことを聞かされていたので、何時かはこの日が来ることを予期しない訳ではなかったが、こんなに早く訪れるとは、思っても見なかった。

 和紀は、三年前にも母を亡くしている。
 その知らせを受けたときには、依存症の真っ只中で、寝間にまで焼酎を持ち込んで、飲んでは泣き、泣いては飲んで、とうとう一睡もせずに朝を迎えている。
 その日の深夜、(母が亡くなって、俺はこんなにも悲しんでいるのだ)と悲しんでいる自分を楽しんでいる不思議な感情に捕らわれたことを覚えている。
 今、父が亡くなったと聞いても、特別な感情は生まれて来なかった。
 寧ろ、醒めた気持ちでさえあるように思えた。だから、直ぐに涙も出なかった。
 「通夜は、何時だって……」
 髪の雫を婦長に拭ってもらいながら、ハンカチを目に当てた玲子の肩が、小刻みに震えている。
 「通夜は明日で、お葬式は……。次の日」
 しゃくりあげながらそう言うと、額を膝に当てて、声を出して泣いていた。
 玲子は、三才のときに父が他界している。それだけに、義父に寄せる気持ちも大きかったのかも知れないと思うと、和紀の目にも涙が滲んだ。
 患者に厳しい制約のあるなか、主治医は、通夜、葬儀共に外出を許可してくれた。
 しかし、直ぐにとはいかず、明日の朝食の後である。
 玲子が帰ったあと、力が抜けて部屋に戻ると、布団を敷いて横になった。
 白い天井の一点に目を凝らしていると、笑っている父の顔が浮かんでは消えた。
 父は、病床にありながら、和紀の病気を気に掛けていたという。
 寂しさがそこはかとしてきた。
 父が哀れな気もしたが、これも受け入れていかなければならない。
 もっと強く。
 もっと賢く。
 もっと真剣に。
 壁に貼られている言葉を、何度も何度も繰り返した。
 父の笑顔が、涙の粒の上で揺れて見えた。
 夕方になって、煙るような霧雨もあがり、雲の切れ間から帯状に延びた光が、黒ずんだ山陰を射している。
 ぼんやりと窓の外を眺めていると、昼間の燕のことが思い起こされた。
 燕に姿を借りた両親が会いに来てくれたのではないだろうか。
 そう考えると、先に来た一羽が確かに母であるように思われる。
 自由になれない自分が悲しかった。
 アルコール依存症という病気が、思い罪を犯しているようにさえ思えてくる。

 北枕で横になっている父の死顔は、穏やかで今にも話しかけそうな、そんな気がする。
 父に向かって何も言うことはできない。ただ黙って合掌し、深く頭を垂れた。
 湯灌のときがきて、父の顔に剃刀が宛てられると、ジョリジョリという生命の音がした。
 幼いときに父の傍らに寄り添って聞いていた音である。懐かしさがこみ上げた。
 無心で合掌し、目を閉じた。
 瞼の裏に、釣りに出掛ける遠い日の父の姿が浮かんでくる。
 誰しもが、その音に悲しみを深くし、在りし日の父を忍んで涙した。
 その時になって漸く少し、父を愛していたのは自分だけではなかったと思いはじめていた。
 通夜が始まると、酒が振る舞われた。
 手伝いの人達が客のあいだを忙しく縫い回り、酒の香りが部屋に満ちはじめる。
 酔いも手伝って、和紀に酒を勧めるもある。
 素直に杯を差し出し、旨そうに飲み干す啓二兄が、何より羨ましかったが、脇に冷や汗をかきながらも、懸命に断り続けた。
 「酒」は最早、自分にとって「罪」でしかなかった。
 夜が更けて庭に下りると、香の匂いに交じって、密かに紫陽花の甘い匂いが漂った。
 「大変だったな」
 振り向くと、洋一兄が立っていた。
 酒を断る和紀を見てのことだろう。
 和紀と肩を並べ、朧に光る星を見やって静かに言った。
 「父ちゃんはな、死ぬ間際までお前のことしか言わんやった。
 咳をするたんびに噎せ込んでな、そりゃあ、お前。見ているのも忍びなかったさ。
 あんまり苦しいんで、自分で管を外そうとしてもがくもんで、余計咳き込むんさ。
 美由紀(兄嫁)と二人で、必死になって押さえ込んだ。でもな…。お前。
 自分の親があれだけ苦しんでいるのを、無理に押さえ込んでいると可哀相で、
 堪えきれなくなってくるんさ。繙悲しくなってきてなあ…。
 美由紀も一生懸命やってくれたけど、泣きながら頑張る美由紀を見ているとな、
 管、外してやるのも親孝行かも知れん。そう思えてきてなあ……」
 「修羅場だった…。管を外してやると、暫く苦しんだけど、前よりは楽そうにして死んでいったで」
 「管を外してやったから、お前らは怒るかも知らんが、実際。その場にいないと
  わからんもんやで。親が死ぬということが、どういうことか……」
 植え込みの中から、ゆるい風が湧き立ち、灯明の明かりで翳りの見える紫陽花の花頭を鈍く揺らした。
 和紀は、返す言葉が見つからず、うなだれたまま足元の湿った苔を見つめていた。
 「父ちゃんも死んでしまったし、これからは誰も頼れる者はおらんのや。
 冷たいかも知らんが兄弟にしても、皆、自分のことで一杯や。玲ちゃんを大事にして、
 二人で千明をみていかんとなっ」
 「はい」
 「それから……、美由紀が父ちゃんを嫌って家を出たと思っていただろうけど、
  俺にしてみれば、父ちゃんと母ちゃん、二人だけの方が気楽にできるやろうと
  思ってのことや。お前らも随分勝手やで…。思い上がったらいかん」
 洋一兄の語尾には幾分怒りが含まれていたが、それを聞き入れることができていた。
 「済みませんでした…」
 深々と洋一兄に頭を下げた。
 頭を下げながら、もう一度やり直すしかないのだと肝に命じていた。
 赤い煉瓦で組まれた釜に、馬蹄形の鉄の扉が六つ並んでいる。
 湿りけを帯びた冷気が漂い、その冷気が彼岸へと旅立つ境目を成しているように思えた。
 柩の蓋が外されると、高い天井の明かり取りから射し込む弱々しい光が、父の窶けた顔を、一層白く浮かび上がらせた。
 最後の読経が流れるなか、次々と花が添えられる。
 もう、自分を愛してくれる人はいないのだ。
 もう、安心して帰れる家は無いのだ。
 悲しさと寂しさに堪え、花に埋もれていく父をじっと見つめていた。
 「父ちゃん。永い間本当にありがとう」
 小さく呟きながら、和紀は父の額に手をやった。
 冷たい……。
 無機質な冷たさが、合掌したあとも彼の指先に残っていた。