やすら樹 No.74 2002 JULY.

【 医療と内観 −愛語−

  吉 本 博 昭  
富山市民病院精神科部長


 「愛が少なかった人の精神療法は難しい」と精神科の医師同士で囁かれる事がある。日常の治療に内観療法を取り入れている私にもこの言葉は当てはまる。患者さんの回復や精神療法を行う際に愛の重要性を気づかされる日々である。
 内観は、他者からの愛をじっくりみつめ、噛みしめる愛の再体験の方法だとも言われている。私の場合、小さい時の母に対する自分を調べていた時、暖房もなかった昔、いつもあかぎれに悩まされていた母が、北陸の寒い屋外で私の下着を洗濯してくれた光景が浮かんできた。優しい言葉をかける事を知らなかった私、あたりまえの日常生活の光景としか見ていなかった私、母によってそんな自分に無償の愛で接してもらえた私が発見できた。内観をすれば大抵の人は、私のような愛の再体験に出会うでしょう。ところが、愛の再体験が簡単にできない人もいるが、ここでは触れない。

 では、私たちはその愛を日々の営みの中でどのようにして行う事により生ずるのだろうか。仏典の中に、インドの王妃シュリーマーラが仏陀の前で十の誓いをたて、その一つの誓いの実践として愛語、布施、利行(りぎょう)、同時(どうじ)を行ったと書かれている。「愛語」とは、思いやりのある優しい言葉をかける事、「布施」は、物でも心でも施しを与える事、「利行」は、他者のためになる行動をする事、「同時」は、心を一にして協調し働く事を意味する。身近には、母親が赤子を育てる姿にその実践と愛の原点を見る想いがする。

 愛語についてもう少し触れてみると、愛語は単に優しい言葉をかけるだけでなく、文字通り「愛」ある言葉の意味である。その中に、語らない愛語もある。

 こんな江戸後期の禅僧、良寛さんにまつわる話がある。ある時、良寛さんの甥の馬之助が仕事をせずに遊んでばかりいました。母親は心配して良寛さんに意見をしてもらおうと考え家に来てもらいました。ところが、良寛さんは人に意見をすることは大の苦手で、意見せずに五日が過ぎました。良寛さんがとうとう帰り支度を始め、あわてた母親より良寛さんに意見をするように強く請われてしまいました。良寛さんは馬之助を目の前にしましたが、最後まで意見ができず、馬之助にわらじを結んでくれるよう頼みました。馬之助は言われるままに良寛さんのわらじを結びましたが、すると、馬之助の首筋に冷たいものが落ちてきたのに気づき、上を見上げると、涙を一杯ためた良寛さんがいました。それを見た馬之助は、以後すっかりまじめな人間になりました。良寛さんの馬之助に対する慈愛の心が馬之助をして変革させたのである。この話を知った時、内観面接者の態度に良寛さんの態度を重ね合わせました。自分を調べるという厳しさの中に、言葉少ない面接者の態度に愛語を感じ取ったのです。

 最後に、私が学生だった頃、近くの鳥取砂丘の一部が緑化されていました。防風林とスプリンクラーによる水の撒布により、広漠とした砂丘が肥沃な大地に変わっていったのです。子供は親とその愛により、患者さんは治療者や家族の愛により、防風林や水によって緑の大地に変わったように、人間として成長していくと思うのです。日本曹洞宗の開祖、道元禅師は,愛語に込められた愛はそれを口にする人の心に,自らの愛を育んでくれると述べていますが、愛語を大事にしていきたいものです。