大動脈瘤(りゅう)闘病記

お星様になり損なった男の物語 
                                                                H21年(2009)7月

事の始まり

 早いもので、もう神奈川県の川崎幸病院を退院し羽咋に帰ってきて2年が経ちました。
今年2月(H21年)に川崎の病院に検診に行き、術後の経過はもう大丈夫との感触を得、もう”あの世”に行くことも無いだろうと思ったので、ここに私が遭遇した困難な病気と不思議な因縁の顛末を忘れないうちに書きしるしておきたいと思います。

 事の起こりはH19年の暮れ、12月初旬だったと思いますが、ひょんな事から市内の先端医学薬学研究センターでCT・MRI・PETの検査を受けるハメになってしまいました。

実はその約1年くらい前に、市役所に勤めている星の会のSさんが「松島さんタダで色んな検査が出来るから受けたら・・」と言われたのですが、私「いいよ、俺健康だしどこも悪くないし」と断ったのですが、Sさん「私松島さんの生年月日や住所知ってるから申し込んでおくね!」とやり取りしたのは覚えてましたが、いつしかそれも忘れてしまいその約1年後の12月に検査の案内が来たと言う訳。
Sさんはその時市役所からそのセンターに出向していたのです。

それで50歳代、60歳代の一番危ない世代の研究用に、色んなサンプルが必要なので無料の検査と引き替えに、多くの人々の検査(研究の資料用の、いわばモルモット代わりなのかな?)を必要としているそうです。
PETなどこれらの検査を病院で受けようとすると10万円はオーバーするとかで、市民にとても人気があるそうで、申し込んで受診まで1年以上も掛かるのだそうです


羽咋市にある先端医学薬学研究センター

 約半日がかりの検査も終わり、そこのドクターから一応説明があると言うので待合室のような所で待ってましたが、1時間経っても説明が始まりません、どこも悪くないハズの私の説明なんて数分で終わるのに遅いな〜、と思い待ってました。
12月の夕方5時半ころの外はもう真っ暗です、やっと女の先生が出てきて説明をしてくれました。

 曰く「松島さんの体には大変なことが起こってます、出きるだけ早く資料をお渡ししますから”大きな病院”に行って診察を受けて下さい、出来るだけ早いほうがいいですよ、出来たら年内に必ず行ってください」
とのこと、その時に初めて体に大動脈瘤があって、しかも相当大きくなりとても危険な状態だと知りました。

 それでも金沢の大学病院など大病院に行けば少し入院するにしても、手術して治るものだと信じこんでいました。
とにかく早いほうが良いそうなので、その数日後にセンターから頂いた資料などを持って、金沢のいわゆる大病院に行きました。

 事前にそこのN先生がとても良い(妻の指名でした)と聞いていたので指名して診察を受けました。
CTとMRIやそのほか色々と検査を受け、いよいよ診察室でN先生(院長先生でした!)の説明です、説明が始まるまで待合室で待ってたのですが、その間「いよいよこの病院に入院し手術をするんだな・・」など行き交う看護婦さんの顔を見たり、院内の施設などに目をやったり、もうすっかりこの病院の患者になりきってましたが、先生の説明が始まったらそんな考えなんてどこかに吹っ飛んでしまいました。

先生:パソコンの画像を示しながら「松島さんこれは大動脈乖離(かいり)で相当進行してますね、大動脈が心臓出てからスグに大きく膨らんで腹部の下の方まで進んでますよ」との話。
私は大動脈がおかしい、との認識はセンターで聞いてたのですでにあったので特に心配もしてませんでした。
(手術すれば治る簡単なモノと思ってました・・・)

私:「じゃ先生手術して直してもらえるんですよね」と話すと先生は難しそうな顔をして、色々とこの病気の困難さや手術の危険性、障害の可能性などを説明し始めました。
最終的に手術は不可能、との結論を聞くまでにはそんなに長い時間は掛かりませんでした。

私:「じゃこれから私は毎日どうしたらいいんでしょうか?」

先生:「大動脈乖離は皮一枚で破裂を防いでますが、もし破裂したらスゴク危険です(死を意味すると言う事)。
「ですからこれからは破裂しないように降圧剤を今までより少し強めにして飲み、重い物を持つとか急激な運動を避け、冬も出来るだけ暖かくして過ごしてください」「それから激論でカッとなったりするのも血圧が上がりますから良く無いです」とも話されました。
その頃には私も事の重大さに気付き初めておりました。
内心「こりゃ困った事になったぞ!」と思ってました。


何しろ大動脈瘤は自覚症状が全く無くて、診察で判るまでは普通に食べたり飲んだり運動したりと全く健康体そのものなのです。

でも大動脈が破裂して胸のあたりが痛くなり救急車を呼んでも、クルマが到着するまでに普通は死んでしまうそうです。
そう言えば”百武彗星”の百武さんも確か大動脈瘤破裂でお亡くなりになったと記憶してます・・

 息子の嫁の父親(私と同年で60才の時)が3年ほど前の3月に突然亡くなったのですが、私が退院して程なく嫁から聞いた話が「実はお父さんが死んだのは大動脈破裂だった」と言う話。驚きました!
その時も私の運命(生に対する見えざる力)を感じ、また嫁のオヤジさんは私の命と引き替えに自分があの世に行ってくれた、との思いも感じました・・・

そう言えばあの年は大雪で亡くなった数日前から、家の前に積もった春先の重い雪をスコップで除雪していたそうです、腰をかがめ重い雪を持つなんて、大動脈瘤持ちに取ったら正に自殺行為だったのです。
でも自覚症状もないし、普通に健康体ですから分からなかったのでしょうね、ほとんどの大動脈破裂で亡くなった方々は自分が大動脈に危険を抱えているなんて知らないのでしょう、それが一番危険なのです。

 私は何らかの偶然で「自分が大動脈瘤の患者」だと分かったので、今もこの世に生きているのだと思っています!。

家での出来事

 家に帰り晩ご飯の時に病院で言われた事を妻や嫁に話したら、その時は大人しく聞いていたのですが、翌日だったか数日後だったか、晩ご飯の時に妻が急に大声でワ〜ンと泣き出してしまいました!

横にいた息子は私の詳しい事情を知らなかったので、何が起こったのかほとんどパニックみたいになって「どーした、どーした・・・」と聞いてましたが、嫁が事情を話したら状況を理解したようでした。

多分妻は私の顔を見ながら(私の前に座ってました)ご飯を食べてる最中に「このお父ちゃんはもしかしたら明日にも死んでしまう、明後日にも死んでしまう」と思ったら急に悲しくなって泣き出してしまったのでしょう。
まあ、無理も無いかも知れません・・・


 それからと言うもの、暮れも押し迫って何となく家庭内の言葉も少なくなって毎日が過ぎて行きましたがある夜、日頃は見ない時間帯に余り見ないチャンネルを入れてソファーに座ってボケ〜っとしてたら、画面から「大動脈瘤・・・手術・・・神の手・・・」アナウンサーのこんな声が聞こえて来たのです。
エッ?と思い画面を見たら、私の命を救ってくれた石川テレビ(フジテレビ)で山本先生と川崎幸病院の番組が始まってました。
全くの偶然です、最初に大動脈瘤を見つけてくれたセンターでの診察も偶然の結果でしたし、このテレビを見たのも偶然だったのです、日頃夜の9時過ぎに民放のチャンネルはほとんで見てませんでしたが、この夜は特別でした。
私の回りには何か特別な事が起こり始めていたような気がしてなりません。


と言うより”何か見えざる手が私を生き延びる方へ導いている”こんな感覚が生まれておりました。

で翌日にはもうパソコンで川崎幸病院を検索し電話番号を探し出して診察の事を電話してました!



手術の説明書より

初診の予約と初診

 あの頃の手帳を開いて見ると初診から入院までのスケジュールが書き込まれています。

川崎幸病院に初めて電話したのは12月の半ば頃だったでしょうか、とにかく大動脈瘤が治るのかどうなのか話が聞きたい一心で電話しました、オペレーターから受付へ、そこからコーディネーターと言う人に、そして色々とやり取りがあってついに初めての診察日が決まりました!

「2月3日の午後2時半までに病院に来てください」と言うものでした、この日が私の誕生日だったことにも驚きましたが、初診に何方か親族の方同伴で来てください、と言うのにも驚きました。
やっぱ危険な病気なのでいきなり親族も来て色々と込み入った話があるんだろうな、と気持ちが引き締まりました。

病院の場所が川崎でしたが、その頃結婚した娘が横浜のマンションに住んでいた事が後々いろいろと助かりました。
これも私の強運の一つだったのかも知れません・・
で2月3日に東京に住んでいる弟に来て貰い、診察を受けましたがその日に3月31日の次回診察日と何と5月1日入院、5月8日手術、との日程まで決まってしまいました!

2回目の診察には横浜へ息子と孫と一緒に行ったので病院へは娘・息子・孫と娘のダンナも一緒に行ってきました。
経過は順調?と言うか、大動脈瘤はやっぱ存在し、危険な状態に変わりない、とのことでした。
具体的に言うと、心臓から出ている大動脈(直径3pほどで水道のホースぐらいの太さ)が胸から下腹部にかけて膨らんだ危険な状態で、死亡率が一番高い”胸腹部大動脈瘤”と言うらしいです

横浜からの帰りは新幹線でしたのでマゴが喜んでいたのが印象的でした、富士山も見えましたから。


この説明書を見たら決して楽な手術ではないと覚悟を決めました!

いよいよ入院


 4月30日(月)午前いよいよ入院の為横浜の娘の所に出発です、前日にお墓参りと神棚・仏壇のお参りは済ませていたのですが、家を出る前にもう一度墓参りをしました、やっぱとっさに一度より二度お参りする方が効き目があるように感じたからです。
ほんとは墓参りは年に一度お盆だけ、仏壇なんて親の葬式以来お参りしてなかったのですが(何と言うバチ当たりな!)、やっぱ人間ここ一番、命が欲しいとなると最後に頼るのは”神仏”だと痛感しました、でもお参りしながら「こんなわがままなお願い」が通じるのかはチョット心配にはなりましたが・・

 横浜へは金沢より高速バスを予定していたので、羽咋駅からは電車です、入院用の荷物は先にスーツケースに入れて送ってあったのでホームでの待ち時間中駅の回りの景色を眺めながら、もう一度この駅に帰って来られるのかな、などと寂しい事を考えていたのを思い出します。
昼の高速バスにしたのも何となく高速沿いの景色が無性に見たかったからなのです、あの時は何かしらこれが最後かも知れない、と悪い方悪い方と考えていたようです、本当は強運の持ち主だと自分で言ってたくせに・・・

 実は家に設置してある望遠鏡など多くの天文機材についても、万が一の時は市に寄付せよとか、他の機材などもヤフオク名人のタクさんに売って貰い、売上金はお母ちゃんに渡してくれ、との遺言みたいな事も言ってたような気がします・・・
他にも保険の事やこれからの事なども色々とお母ちゃんに話してたと記憶してますが、最後には面倒くさくなって「あそこの机の引き出し、あそこの棚の中・・・」など言ってたようなです。

 5月1日(火)11時、娘の付き添いで入院です、川崎駅は横浜から確かJRで一駅だったかも知れません?
部屋は大動脈瘤の手術待ち専用みたいでした、3〜4人いたような気がします、二階の部屋からは公園が見えました。
看護婦さんや栄養士さんなどが今後の説明に来られましたが、あまり良く覚えていません、やっぱ緊張してたのかも知れませんね。
この時は連休の真っ最中でしたので、早速外泊許可が出ました!


石井さん、ウトちゃん、山田さん、大石さん、佐々木さん、ありがとう楽しかったよ

3日4日と娘の所に帰りました、3日には関東に住んでる天文仲間と横浜で昼飯を食べる約束をして楽しんできました。
ガジュマルでのランチ美味しかったし楽しかったですね〜
(ホントは結構複雑な気持ちもあったのですが、そんな事は顔には出せませんよね、きっとみんなも同じだったのかも!)
来てくれた皆さん有り難う。
4日は娘達とご飯を食べたり、赤レンガへ行ったりと、結構外泊を楽しみました。

5日には病院に帰りいよいよ臨戦モード全開です。
この日は夕食に子供の日なので赤飯が出ました、なぜか嬉しくホッとしました。

6日
娘がベッドにいる写真を撮ってくれました。



ここは最初の病室です、手術の少し前か?

この日イソジン浴とかで風呂で臭い薬品で体を洗うように指示されました。
麻酔の先生がやってきて色々と説明をしてくれたのもこの頃でした。
夜隣のベッドでは明日手術を受ける女の人が、おそらく数珠をもって1時間程もお経を唱えてる様子がカーテン越に伝わって来ました。
やっぱ誰でも最後に頼るのは神様仏様なんだなと改めて思いました。

7日
ドレナージ手術とかを受けました、なんでも脊髄に管を入れて障害が出ないようにするのだそうです、本当は怖い事のようですが、本番の手術を控えていたので余り痛いとか怖いとか感じる余裕が無いうちに終わりました。
その前に心臓カテーテル検査というのもありました、これも今から思うと結構怖い検査でした。
この日は流動食だったかも?

8日
いよいよ手術本番の日です。
朝から絶食です(もしかしたら昨日からかも知れませんが忘れました)
看護婦さんが来て浣腸しますよ。と言ってトイレに連れてかれました、浣腸されて出来るだけ我慢してから出して下さい、と言われたのですが我慢出来ませんでした、スグに出てしまいました!
日頃は強がりばっか言ってるのに何と言う我慢出来ない子!とつくづく自分がイヤになっちゃいました・・・
(果たして胃や腸が空になったのか心配でした)

朝8時前にはお母ちゃんと娘が病院に来ました。
手術は9時からと聞いてたのですが10時からになったようです、家族の顔を見たら少し余裕が出ました。
10時少し前に先生との最後の面談がありました。
この時になって手術を諦める患者がいるそうです(だって手術を受けなかったら死亡率はゼロなんだもん!)

最後の面談で今まで思ってはいたのですが怖くて言い出せなかった、この手術での”死亡率”の事を聞きました。
先生は確か数週間に一人ぐらいですよ、と言った気がしますが定かではありません。
もうその時にはそんな数字は何も意味を持たないものになっていました。
でも入院を決めてからは、もしかしたら「死ぬかもしれない」、手術の「死亡率は?」、こんな事ばかり考えていました、ホントにこんな事ばかり考えておりました。


病院からの大動脈手術説明書によると「胸部大動脈瘤手術の死亡率は5%ー20%」と書かれており、もし手術を受けない場合の破裂(ほとんど死亡か?)する確率は「15%ー20%」と出ております。
つまりどちらを選ぶにしても死に直面する極めて危険な病気なのですね。
(最初に見たテレビではアナウンサーは死亡率が30%以上の危険な手術だと言ってましたが・・)


手術の説明書より

手術室へ

 お母ちゃんと娘に見送られ車椅子に乗り手術室に入りましたが直前に「じゃーね」「がんばってね」と言う声がしましたが、振り返らず手を振ったのを覚えてます。
とっさに、もし振り返ったらそれが最後になるような気がしたので・・・朝10時少し前でした。

2つある手術室の大きい方でした、スグに手術台に寝かされ麻酔医の先生や看護婦さん達の姿が見えました。
入院の前に全身麻酔の経験者から「ひとつ、ふたつ・・・と5を数えるまでに意識が無くなった」と聞かされていたので、よし幾つぐらいで麻酔が効いてくるんだろう?と密かに思っていたのですが、何やら点滴か呼吸器かゴチャゴチャしてるウチに眠ってしまったようです・・・麻酔の事は全く覚えていません、瞬間的に眠ったのでしょうか?

手術中はお母ちゃんと娘は病院から渡された携帯を持って、専用待合室や近くのショッピングセンターなどで待ち時間(約7時間)を過ごしていたそうです。
でも後で聞いたら、手術中に危険な状態になったらスグに携帯で知らせるから、と言われていたそうで中途半端な時間に携帯が鳴ったら大変だ、とお互い思っていたそうです。
でも携帯が鳴ったのは夕方5時頃だったので、多分手術が終わった知らせだと安心したそうです、とは言うものの「終わりました」と聞くまでは心配だったと思います。


手術直後、多分集中治療室かも、体からチューブが何本も出ていました。
こんな状態をスパゲッティ人間?とか言うと後で聞きましたが・・
成功したから言えるジョークですね!


 目が覚めたのは翌朝7時頃だったと思いますが、どこか遠い所から看護婦さんが「松島さん、松島さ〜ん」と呼ぶ声がかすかに聞こえてきました、でも意識はもうろうとしてます、ノドには人工呼吸器がついているので答える事は出来ません、「手を動かしてください」「足を動かしてください」と聞こえたので、手か足かどちらか忘れましたが少し動かしました。
看護婦さんは「動いてますよ」「大丈夫ですよ」と言ってるのが聞こえてきました、それからも色々と検査をし今のところ障害やマヒが無いと言ってくれました。

麻酔から覚めて間もなく娘とお母ちゃんが集中治療室に来てくれました、面会制限があったハズですがどうしたのかは分かりません。
私の口の人工呼吸器が取れていたのか、まだ付いていたのか思い出せませんが、HPの掲示板に手術が成功したようだ、と娘が書いたら多くの人達から、良かった、おめでとう、などの書き込みがあったそうです。
翌日娘が掲示板をプリントアウトして持ってきてくれて、枕元で読んでくれました、埼玉の富田さんが「嬉しくて涙が出ました・・」と書かれていたと聞いたら私も涙が出て止まりませんでした・・・

掲示板の過去ログNo.1 2007年4月〜に皆様の温かい書き込みがあります、私の宝物です)

入院中は娘がほとんど毎日来てくれたし、お母ちゃんの店”聖蔵”の定休日が月曜なので日曜の横浜行き高速夜行バスで毎週来てくれました。
それがとても待ち遠しく感じられました。

この頃は痰(タン)が出にくく苦しくてとても困りました、ある時看護婦さんがベッドを少し起こして背中を丸めるとタンが出やすいですよと教えてもらい助かりましたがとても苦しい日が続きました。
ティシュの箱が見る見るうちに空になり、ゴミ箱が見る見るうちに一杯になっていきました!

隣のベッドの人がタンが出にくくもがいて、看護婦さんに機械で吸引してもらってる姿も何度か見ました。
実際タンが詰まって死亡する事もあるそうです・・・



しばらくは車椅子での生活。
体からチューブが何本も出て、それをぶら下げながら
歩いてました。

リハビリ病棟へ転院


5月16日(水)
この日手術を受けた川崎幸病院からクルマで15分程のところにある”中原分院”に転院しました。
朝9時半頃娘とマゴの3人で病院の救急車に乗り新しい病院へと移動です。
分院は以前の「川崎胃腸病院」だと言うことでした、大きくもないこざっぱりした病院です、幸病院より新しい感じの病院でした。

18日の手帳には「本日血のオシッコ出る、体調悪い、切った所痛い、苦しい」と書いてあります、今読み返してみると何となく思いだします。あの頃は日に2〜3度ぐらい鎮痛剤を飲んでました、傷口が痛くなり始めたら飲むのですが効くまでに1時間上かかるのでその間が大変でした。
鎮痛剤は出来るだけ飲まない方がいいと聞いてたので(余り飲むと効きが弱まってくるとか?)スレスレまで我慢してました、その分痛みも我慢してました、そんな日が続いてました。

でもそんな中でも娘が毎日来てくれる事がとても癒され、苦しいことも忘れるような気がしてました。
お母ちゃんも仕事の合間(定休日)に夜行バスで毎週来てくれ、月曜日の昼過ぎに娘達と一緒に来る日はナゼか痛いことも苦しい事も忘れるひと時でした。
でも娘もさすが毎日子供をだっこして病院に来るのが大変だったのか、来るのが1日おきになったら来ない日の味気ない事!
その日はとても長く感じられました。


娘には夜メールで励まされたり、これから病院に向かうとのメールが来たら嬉しかったね!
最初の頃は後遺症で声が出なかったのでお母ちゃんと初めてメールしました。


体調が少し良くなってきたら、娘達が来るときに駅近くのスタバーだかドトールかでアイスコーヒーを買ってきて貰うのが密かな楽しみになってました。
そして、時には病院の近くのコンビニで”アロエヨーグルト”も買ってきてもらいそれを食べることも”至福の喜び”になってました。
まあ、つまるところ「食べることに卑しい性格」がさらけ出たと言うことか・・・

病院での生活は単調で、昼に寝ると夜寝られなくなるし、かと言って朝食食べるとスグに眠くなるし、お昼食べると又スグに眠くなるし、晩ご飯食べると眠くなるし、毎日が眠気と出来るだけ起きていることの葛藤でした。

夜は9時消灯なのですが、9時まで寝ないでいることがとても辛く感じました、日曜は夜8時からNHK大河ドラマがあったので8時45分までは何とかなりましたが、消灯までのその後の15分がスゴク長いと思ってたことが懐かしい思い出です。

それでも昼に寝るので夜中に起きてしまいます、ほとんど毎晩夜中の12時頃に目が覚めてベッドの縁に腰掛けて1時間以上もボケ〜っとしていたら、見回りの看護婦さんがビックリして「眠れないんですね」と声を掛けてくれました、ほとんどそんな毎日でした。

夜寝ている時は早く夜が明けないか、と言うことばかり考えてました、朝未だ薄暗い時にまず最初に鳥達が鳴き出します、この声を聞いたらやっと苦しい夜が終わったとホットします、そして「もうすぐご飯だぞ!」と嬉しくなってきます。
何しろ入院中、一番の楽しみは3度のご飯でした!
変化と言ったらそれしか無いんですから・・・


リハビリで歩く練習が始まりました、最初は手すりや歩行器のお世話になってましたが、リハビリの先生や娘に付き添ってもらい病院の廊下での歩行練習も出来るようになってきました。


リハビリ室で

きれいなお花も届きました

この頃になるとお見舞いの方々が来てくれるようになってきました、単調な生活の中でそれはとても楽しく待ち遠しい事でもありました。

6月に入ると退院の話も出てきました。
ホントは前半にも退院の話があったのですが、さすがその頃は未だ歩くのも困難でしたので1週間延ばしてもらったハズです、何しろ川崎幸病院は優秀な大動脈瘤手術専門チームを持ってるので、全国から患者が集まって来るようです、その患者に応える為にも手術が終わった患者には早く退院して欲しい、その気持ちも分からないではありませんが・・・

でもこのリハビリ病棟にも慣れて来た頃にはいよいよ退院です。

退院して横浜へ

 退院した当日、娘のマンションから綺麗な富士山が見えました、何かしら私の退院を祝福しているかのようでした!
そしてしばらくは娘のマンションでリハビリと社会復帰の練習です!

見えますか?青空の左下に白い雪を頂いた富士山です。

マンションから横浜駅西口の手前にダイエーや東急ハンズがあり、歩く練習を兼ねて毎日のように買い物に出掛けました。
ある時、交差点を渡っている最中に信号が赤に変わってしまいました!
そうなんです、歩く速度が極端に遅かったのです、その時から交差点では歩行者用の信号機が青になったらスグに渡るようにしましたが、それでも渡り終わると同時に赤に変わってました・・

又マゴの乳母車(カートって言うの?)を押して歩くととても楽だと言うことも新たな発見でした。
もちろんスーパーでは買い物カートを押して歩きました!


横浜でのリハビリも終盤にさしかかり、いよいよ羽咋へ帰る日が近づいてきました。
帰りはお母ちゃんが迎えに来てくれるので、新横浜からの新幹線を予約しました


いよいよ羽咋へ

 横浜駅まで娘達が見送りにきてくれました。
荷物はスーツケースに入れて宅急便で送ってあるので、帰りは大きなショルダー1個です。

色々あった横浜での事、不思議なご縁で入院した川崎幸病院での事、いろんな事が走馬燈のように思い出され何か寂しい気持ちもしてきました。
本当は目出度く手術も成功し、喜んで家に帰るハズなのにチョット寂しいセンチメンタルな気分にもなった娘達とのお別れでした。
新幹線に乗ってしばらくそんな事を考えていたら娘からメールが来て「長い間私の荷物などが置いてあった部屋が空になり、私もいなくなった事が少し寂しい・・・」こんな中身を読んだら急に涙が出てしまいました。
今回の病気・入院・手術で一番変わった事と言ったら何故か”涙もろくなった”ことに尽きます、何でだろう?



娘からこんなメール来たらウルウルするよね!

まあ、こんな感じで私の大動脈瘤手術はひとまず成功致しました。
家に帰ってからも後遺症は無い訳でもありませんが贅沢は言えません、右足太股のしびれ、声がおかしい、血のオシッコ、鎮痛剤のお世話、など色々とありましたが地元の病院で徐々に治していきました。
でも右足のしびれや咳をしたら傷跡のホネが痛む、などは未だ少し続いています。

今回の手術は外科医も難しい大手術だと言ってた”袈裟切り”の方法だったそうです。
これはお坊さんが着ている袈裟のように体を斜めに切る方法から来ているようで、そう言えば時代劇などで辻斬りが人を切る時もこんな感じで切ってたような・・・


傷跡は糸で縫うのかと思ってたら違うようですね、他の何カ所かはホッチキスみたいなので
留めてありました。


帰ってから友人が傷跡を見て「ヤクザが出入りでやられたみたい!」と言ったのが忘れられません。

でも何と言われようと最初はダメと言われていた病気を克服し、無事家に帰って来られ、しかも諦めていた”皆既日食”にももうすぐ出発です、お星様にならなかった私、何と強運の私なんでしょうか!


ここら辺でひとまず終了致します。

H21年7月16日夜

 もう一つ大切なことを忘れていました。
入院が決まってから県内外の人から「病気平癒のお札」「お守り」励ましの言葉のしおり」など頂き入院中はずっーと枕元に置いてありました、又イエス様にお祈りしました、との言葉やメールも頂きました。
家に無事帰って来られたのはこのように「神様。仏様、キリスト様」のご加護があったからに他なりません、言葉に言い尽くせないほど感謝しております。
それらは今も手術の時に被っていた紙の帽子(キャップ?)や手に付けていたバーコード、呼吸の練習用の器具、などと私の手元にあります。イヒンにならなくて良かったと思ってます。