賢治の農学校教諭時代  もどる

 賢治は1921年から26年の5年間、花巻農学校で教職についている。賢治は生徒から見ると、風変わりな教師であるとともに、実際の経験を通じて生徒たちの興味を育てようとする点では恐ろしく熱心な教師であった。「イギリス海岸」などに描かれているように、生徒たちと実習に出かけるだけでなく、山歩きなどにもよく生徒を連れてでかけた。学校で生徒たちに自作の演劇を演じさせたりもしている。「学校には入らないで勉強するしかたを教える」という「グスコーブドリの伝記」のクーボー博士は賢治があってほしいと願っていた理想の姿であると思われる。 クーボー博士は、知識を教えることより、考える視点や姿勢、学ぶことの面白さを伝えることを重視する教育者である。

 賢治が教員として、勤務した学校は花巻農学校、現在の花巻農業高等学校である。雨が降ると外での実習をやめて生徒たちに自作の演劇をやらせたのは、生徒のエピソード。また生徒とともに田んぼをあるいていると、突然「ホッホー」などと変な声をあげてとびあがり、生徒をほったらかしで、夢中でノートに何かを書き留めていたと当時の教え子(今は、おじいちゃん)が伝えている。現在の花巻農業高校の体育館の屋根には、空から見えるように大きく「イーハトーブ」と書かれている。

 花巻農学校に勤務した時期、賢治は実にのびのびとふるまいました。農学校の校歌にあたる精神歌を始め、次々に作詩作曲をおこない、いくつかの劇の台本を書いて生徒たちに上演させたりしました。この時期は、賢治にとって、精神的にもっとも心豊かな時間でした。

賢治は、31歳の春、考えることがあって、農学校の先生をやめました。

考えることとは、賢治は「本当の百姓」になりたかったいうことです。


感想

南   宮沢賢治さんは、じゅぎょうを休み時間にしている時もあるから変わった先生だと思った。

森田  宮沢賢治さんは、とっても風変わりな先生だったということがわかった。

若宮  宮沢賢治さんは、変わった人だと思った。