宮沢賢治の一生(30さいから死ぬまで)もどる

大正15年 30才 1月から3月にかけて、尾形亀之助編集『月曜』に          NHK設立

(1926年)  「オツベルと象」「ざしき童子のはなし」「寓話猫の事務所」を発表。

          3月末まで岩手国民高等学校で農民芸術論を講義。

          3月31日、花巻農学校を依願退職。(いらいたいしょく)

          4月1日より花巻町下根子桜で独居生活を開始。

          5月、開墾や音楽の練習、レコードコンサートを始める。

          この頃より町内や近郊に「肥料設計事務所を設け、

          肥料相談や設計を始める。

          8月、土曜日に近所の子供に童話を読み聞かせる。

          妹クニらと八戸旅行。

          羅須地人協会を設立し、11月頃から定期的に集会をもつ。

          12月、チェロを持って上京。上野図書館やタイピスト学校で勉強。

          オルガン、チェロの練習、エスぺラント語を学習。

          18日、本郷区駒込に高村光太郎を訪ねる。29日、帰郷。

昭和 2年 31才 1月、『無名作家』4号に詩「陸中国挿秧之図」を発表。                      (1927年)  10日、羅須地人協会で講義。

          2月、1日、『岩手日報』に羅須地人協会の記事が出

          て、社会主義運動との関係を疑われ、警察の事情聴取を受ける。

          『銅鑼』に「冬と銀河ステーション」を発表。

          9月、『銅鑼』に「イーハトーブの氷霧」を発表。

          12月、盛岡中学『校友会雑誌』に詩を発表。

          花巻温泉南斜花壇を作る。この頃までに肥料設計図2千枚を書く。

昭和 3年 32才 2月、『銅鑼』に「氷質のジョウ談」を発表。

(1928年)  3月、『聖燈』に「稲作挿話」(未定稿)を発表。

          稗貫郡石鳥谷で肥料相談に応じる。

          6月、東京で浮世絵や演劇鑑賞。伊豆大島旅行、

          「三原三部」を書く。

          日照りで稲作指導に奔走。

          12月、急性肺炎になる。

昭和 4年 33才 病臥続く。

(1929年)  4月、東北砕石工場主、鈴木東蔵が来訪、以後交際が

          始まる。

          病床に中国の詩人で、陸軍士官学校生が訪問。高等数

          学を勉強。

昭和 5年 34才 病状やや回復し、園芸に熱中。                    世界経済恐慌

(1930年)   9月、陸中松川の砕石工場を訪問。

          10月、「まなづるとダァリヤ」校訂終わる。

          11月、『文芸プランニング』に詩「遠足許可」等4編を発表。

昭和 6年 35才 2月、東北砕石工場技師となり、宣伝販売を受持つ。           昭和恐慌

(1931年)   7月、『児童文学』第1冊に童話                    軍部勢力強化

          「北守将軍と三人兄弟の医者」を発表。

          8月頃、「風の又三郎」の執筆進む。

          9月、教え子の沢里武治に「風の又三郎」<どつどどどどう>の歌の作曲を依頼。20日、石灰宣伝

          で上京中に発熱、遺書を書く。28日、帰郷、自宅で病臥。

          11月3日、手帳に「雨ニモマケズ」を書き留める。

昭和 7年 36才  3月、『児童文学』第2冊に「グスコーブドリの伝記」

(1932年)   を発表。挿絵は棟方志功。                   満州国建国 5.15事件

          4月、仙台在住の民俗学者、佐々木喜善が来訪。

          8月、『女性岩手』創刊号に文語詩「民間薬」「選挙 」を発表。

          11月、『女性岩手』に「祭日」「母」、『詩人時代』

                に「客を停める」を発表。

昭和 8年 37才  3月、『天才人』に童話「朝に就きての童話的構図」   

(1933年)   を発表。                          ドイツ、ヒットラー内閣成立

          4月、『現代日本詩集』に「郊外」「県道」を発表。         日本国連脱退

          7月、『女性岩手』に「花鳥図譜7月」を発表。

          8月、童話「ひのきとひなげし」に最終手入れ。

                  病状悪化にもかかわらず農民の肥料相談に応じる。

          9月21日、法華経1千部を印刷して知人に配布する

          よう父に遺言して、午後1時半死去。

          9月23日、安浄寺(浄土真宗大谷派)で葬儀。法名「真金院三不日賢善男子」。

          昭和26日7月、身照寺に改宗。


羅須地人協会とは・・・・

賢治は、質屋(しちや)の長男として生まれました。 家業は、農民たちに金を貸し、質草(しちぐさ)にとった古着をさらに別の農民に売るというものでした。この家業がの後、賢治の心に重苦しい負担になって残りました。 高等農林学校を、卒業後しばらくて花巻農林学校の教師になったときから農民との直接の関わりが始まりました。 その花巻農学校内に開設(かいせつ)された岩手国民高等学校で、民芸術という科目担当したことから、自ら農民芸術の講義(こうぎ)の内容がほぼそのまま「農民芸術概論綱要(のうみんげいじゅつがいろんこうよう)」となりました。概論(がいろん)の初めのほうで賢治は「おれたちはみな農民である ずいぶん忙しく仕事もつらい。もっと明るく生き生きと生活する道を見つけたい」と言っています。 賢治は農学校の職をやめ、下根子桜(しもねこざくら)(現花巻市桜町)の別荘で一人きりの自炊生活を始めるとともに、「本とうの百姓」になるため自ら畑を耕しはじめました。その賢治のまわりに近くの農家の青年やかつての教え子が集まってきて、レコードコンサートを開いたり、器楽合奏をしたりしました。 この集まりが「羅須地人協会」(らすちじんきょうかい)のはじまりです。賢治は、農事講演や肥料相談のため、近くの村々をまわったり、協会の建物で農業や芸術の講義をしました。 賢治は「農民芸術概論綱要(のうみんげいじゅつがいろんこうよう)」を通じて、農民の日常生活を芸術の高みへ上昇させようと試みたのです。しかし集まってくる若者を除いて、一般の農民の反応は冷やかだったと言われています。 この「羅須地人協会」の活動は、昭和3年賢治が「西側肺浸潤」の診断を受け、豊沢の実家で療養生活を余儀なくされた時に終わりをげました。


賢治の死とは・・・・

 賢治は三十二歳の時に日照りで、稲作指導に奔走。 十二月に、急性肺炎になる。

三十四歳の時に病状やや回復し、園芸に熱中した。

三十五歳の九月二十日、石灰宣伝で上京中に発熱した。

三十七歳の八月に病状悪化にもかかわらず農民の肥料相談に応じる。

三十七歳の九月二十一日、法華経一千部を印刷して知人に配布するよう父に遺言して、 午後一時半死亡。 9月23日、安浄寺(浄土真宗大谷派)で葬儀。法名「真金院三不日賢善男子」。

昭和26年7月、身照寺に改宗。


感想

板井勇樹 病状悪化にもかかわらず農民の肥料相談に応じるなんて優しい人何だ。

松居慶太 調べていくうちに賢治さんは、作家としてすごい人と言うことがわかった。

北井宏和 賢治はいろいろな優しい心を持っているとわかった。


意味調べ

質屋(しちや)

・品物預かって、お金を貸す仕事をする人。

療養生活(りょうようせいかつ)

・病気やけがを直すために、体を休めて手当をする生活。

肺炎(はいえん)

肺の炎症。細菌・ウイルス・マイコプラスマなどの感染、またアレルギー・放射線・化学物質などによるものもある。小葉性肺炎・大葉性肺炎・間 質性肺炎に分ける。発熱・胸部痛・咳・痰・呼吸困難を来す。

自炊(じすい) 

自分で食事をこしらえること。

概論(がいろん) 

全体にわたって大要を述べたもの。

綱要(こうよう)

綱領となる大切な点。骨子。 文章などの主要なところ。〓文章・談話のはじめ。 〓広く一般に、物事のはじめ。