「ええい、やあ。くそっ、逃げやがった」
「ジロリンタン、丸めた新聞紙で机をどついて、何してるのん?」
「よお、関西弁の下手な速河出版の女性編集者か。まだ蠅がしつこく飛んでやがるから、新聞紙でたたき潰そうとしてるんだよ。それで、きょうは何の用で来たんだい?」
「うちの雑誌が創刊六〇一号を迎えるさかいに、“ジャンル別ベスト短篇を読む”っちゅう特集を組むことになったんや」
「また特別増大号で儲けようって魂胆だな」
「それで、ジロリンタンには得意分野のハードボイルド/私立探偵小説のベスト短篇セレクトと解説執筆をお願いしたいんや」
「おいおい、おれよりも年長で、もっと真面目な専門家がいるんだから、その人たちに頼んでくれよ。おれは頭の上の蠅を追うのに忙しいんだから」
「どうせ断わられると思て、話だけを聞きに来たんや。あとはうちがまとめて、解説もどきを書くさかいに。それで、ジロリンタン、“ハードボイルド”って何やのん?」
「おいおい、これは四年ほど前に説明しただろ。だから、こんな仕事は嫌なんだよ。どうせ誰も覚えてないし、理解してないからな」
「ええ年して、すねんといてえな」
「『ミステリマガジン』二〇〇二年二月号の“ハードボイルドって本当は何なの?”をもう一度読み返してくれ。持ってない人は、インターネットでそのタイトルに検索をかけてくれ。四年たっても、日本人の意識がまったく変わってないことに気づくだろうよ」
「とにかく、歴史とか魅力を説明してえな」
「ハードボイルド小説と私立探偵小説は別物だということにはガッテン承知をしてくれているよね。初めて私立探偵小説を書いたのは……」
「それなら知ってるわ。ダシール・ハメットやろ?」
「残念ながら、違うんだな。キャロル・ジョン・デイリーという元映画館主のパルプ作家だ。《ブラック・マスク》(以下、BM)一九二三年五月十五日号に三挺拳銃を持つ私立探偵テリー・マックが登場する短篇 Three Gun Terry を発表した。この探偵はあまり人気がなく、そのすぐあとのBM二三年六月一日号に掲載されたデイリーの「クー・クラックス・クランの街」(HMM八五年十一月号↓「KKKの町に来た男」『ブラック・マスクの英雄たちI』国書刊行会)で、自分はハードボイルドだと主張する私立探偵レイス・ウィリアムズがデビューした。そして、デイリーとウィリアムズがBMの売り上げを左右する看板作家と看板探偵になったわけだ。それから、六ヵ月遅れて、BM二三年十月一日号掲載の「放火罪および……」に登場したのがダシール・ハメットのコンティネンタル・オプなのだ」
「わあ、ハードボイルド小説の始祖鳥の登場やわ。パチパチパチ」
「ハメットの経歴は省くが、元ピンカートン探偵社のオペラティヴだったので、推測や自分の考えをほとんど書かずに、報告書のように、言葉と動作だけを描写している。これが本当のハードボイルド文体なのだよ」
「わあ、カッチョええ。そやけど、オペラティヴって何やのん?」
「ハメットはオペレイティヴと発音していた。もともとオペレイターと同じような職業も指していたが、そのあと工作員とか、部下、探偵社の雇われ調査員のことを指すようになった。つまり、主人公のコンティネンタル・オプは独立した探偵でもないし、法律事務所の下請け調査員でもなく、探偵社の社員なのだ。とにかく、ハメットが簡潔な文体で強固な主人公を描くハードボイルド私立探偵小説を創造したと言っても過言ではない」
「そやけど、このオプさん、名前もないし、デブで髪の薄い中年男やな。ちょっとカッチョ悪いんやけど」
「ハメットは中学もろくに出ていないほど学歴はないが、図書館でミステリを含む多くの本を読んだ。それで、現実の探偵がハンサムでもなければ、金持ちでもなく、頭脳が極端に明晰でもないことを経験から知っていた。だから、こつこつ探偵業に専念している名もないプロを主人公にすえたんだ」
「それから、どうなったんや?」
「史上最初の長篇私立探偵小説は、デイリーが一九二七年に発表したレイス・ウィリアムズものの The Snarl of the Beast だが、これは歴史的な価値しかない。ハメットが二九年に発表したコンティネンタル・オプものの『赤い収穫』は、ハメットがBMに二七年から二八年にかけて連載した小説を単行本にまとめたものだ。『赤い収穫』を初めての純粋な長篇ハードボイルド私立探偵小説としたいね。ちなみに、二九年はエラリイ・クイーンが処女長篇小説『ローマ帽子の秘密』を発表した年でもある」
「わあ、クイーンとハメットの共通点は意外なところにあるんやな」
「そして、同じく二九年にオプもの長篇第二作『デイン家の呪』を発表した。そして、三〇年にハードボイルド私立探偵小説としてだけでなく、アメリカ文学としても不朽の名作である『マルタの鷹』を発表したわけだ」
「わあい、ついにハンフリー・ボガートの登場やわ」
「おいおい、ボガートは映画で主人公の探偵サム・スペイドを演じた俳優だぞ。ボガートは金髪の悪魔らしくなかったが、それでもあれはボガートの当たり役だったな。ここで注目してほしいのは、一人称記述のオプものと違って、『マルタの鷹』ではスペイドの三人称一視点で記述されていることだ。つまり、私立探偵小説の名作は三人称で描かれているのだ。だから、戯曲的でもあり、原作とジョン・ヒューストン版の映画とはほとんど違わない。アメリカの映倫委員会がセックス関係の場面で訂正と削除を要求したがね」
「さっきハードボイルド小説と私立探偵小説はちゃうと言うてたけど、どういうこと?」
「ハメットの次作、三一年刊の『ガラスの鍵』がいい例だ。主人公のネッド・ボーモントはギャンブラーで、政治家の子分だ。私立探偵ではない。しかし、文体はハードボイルドの見本である。三人称一視点で、登場人物の言動だけでストーリーが進行していく。登場人物が何を考えているのかは、言動から推測するしかない。つまり、現実世界と似ている。現実世界では、自分以外の人物の考えや感情は、言動で推測するしかないからね」
「ほんなら、レイモンド・チャンドラーはどうやのん?」
「皆さんの大好きなチャンドラーか。チャンドラーはBM掲載のハメット作品を読んで、BMに処女短篇「脅迫者は射たない」を寄稿した。三人称一視点で書かれたハードボイルド文体で、あとで彼の特徴となるセンティメンタリズムやロマンティシズムはほとんどないと言ってもよい。そのあと、チャンドラーは一人称一視点の記述でフィリップ・マーロウの登場する私立探偵小説を書き、日本やイギリスで絶大な人気を得るのだよ」
「じゃあ、ロス・マクドナルドはどうなんや?」
「ロスマクおじさんはハメットとチャンドラーに大きな影響を受けた。図書館に侵入して、禁書だった『マルタの鷹』を読んだほどだ。初めはチャンドラーの真似に近かったが、だんだん自分のスタイルを確立していき、どちらかと言うとソフトボイルド私立探偵になっていった」
「とこで、いったいハードボイルド/私立探偵小説の魅力は何やのん?」
「難しいことを訊くなあ。ハードボイルド小説の無駄がない簡潔な文章を好む人もいれば、味も素っ気もない文章を好まない人もいる。これは好みの問題で、好きな人は好き、嫌いな人は嫌いということだよね。私立探偵小説のほうは、いちおう私立探偵が主役として登場すればいいのだから、ハードボイルド文体で書いてもいいし、犯人捜しの謎解きものでも、失踪人捜しものでも、追跡ものでも、心理サスペンスでも、ノワールでもいいわけだ。私立探偵さえ主役なら、ほかのジャンルにも挑戦できるという可能性を秘めている。でも、結局は主人公の探偵が魅力的でなければ、面白くはないよな」
「そやけど、二十一世紀のハードボイルド/私立探偵小説はどうなんや?」
「まず、誤解を恐れずに言うと、純粋なハードボイルド小説は皆無だ。現在、純粋なハードボイルド文体で書いている作家はほとんどいない。それに、ハードボイルド探偵は時代遅れなのだ。ソフト帽子をかぶり、トレンチコートを着て、バーボンを飲み、キャメルかラッキー・ストライクをくゆらす探偵なんて、一昔前のハードボイルド探偵のパロディーでしかない。独創性がないんだよな」
「きっついなあ。ほんなら、私立探偵小説はどうなんや?」
「うん、それなんだよな、問題は。スー・グラフトンやサラ・パレツキー、ロバート・B・パーカー、ローレンス・ブロックなどの人気私立探偵作家はまだ作品を発表しているし、アメリカ私立探偵作家クラブは最近独自のアンソロジーを刊行していないものの、まだシェイマス賞を授けているし、新人はどんどん登場している」
「ほんなら、問題はないやん」
「それが、問題なんだ。よし、思い切って言ってしまおう。二十一世紀初頭の私立探偵小説は低迷しているのだ。何か、そのう、八〇年代の女性探偵の登場のような新しい流れがないんだよな。まあ、これは私立探偵小説だけに限らないけどね」
「えっ、そんな大胆なことを言うてええんかいな、ジロリンタン。いつか誰かに暗い道でしばかれるで」