連載小説
加州探偵事務所2





メモリー

木村二郎

第一回
行方不明の中年作家


〈はじめに〉
 おれは寺田幸之輔。四十五歳の独身探偵である。四年半前に東京から金沢に移ってきて、加州探偵事務所に勤めている。その探偵事務所は、六枚町交差点近くにあり、昭和大通りに面している。「空白のララバイ」(木村仁良名義で『月刊北國アクタス』一九九一年一月号から十二月号まで連載)以来、久々の登場である。




 気がつくと、薄汚れた天井板と蛍光灯が見えた。

 ベッドの上に横たわっているようだ。右手で誰かがくすくす笑っている。おれはそっちを向いた。笑っていたのは、山森かよ子と世川三代子だった。

「水をくれ」

 おれはなんとかかすれ声を出した。

「あらっ、気がついたのね」 

 かよ子がりんごの皮を剥いていた手をとめて、ほほえみを見せた。

「わたし、所長を呼んでくるわ」

 三代子が立ち上がって、病室から出ていった。

 かよ子はベッドの横の台の上から吸い飲みを取って、その長い口をおれの口に近づけた。おれは口を少しあけて、水を飲んだ。湯ざましではなく、ミネラル・ウォーターだった。

「ここはどこの病院だい?」

「加能大学病院よ」

 国立金沢病院、すみれ台病院、松原病院、金沢大学附属病院と同じく、小立野通りに建っている病院だ。

 きょうのかよ子は、ピンク色のブラウスに空色のスラックスをはいていた。長い髪をうしろで束ねて、色白の顔に薄化粧を施している。年齢は四十代前半で、片町にあるショッピング・ビルディングの〈加賀書店〉で働いている。

「何か食べる? りんごは?」

 かよ子が尋ねた。おれはうなずいた。かよ子は皮をむいた一切れのりんごをおれの口に入れてくれた。おれはゆっくりとりんごをかんだ。

「おいしい?」

「うん。ちょっと酸っぱいけどね」

「いつも一言多いのよ、サッチモは」

 サッチモとは、おれの大学時代の渾名である。おれの名前の幸之輔からきている。

 おれがそのりんごを呑み込むのを見届けてから、かよ子はもう一切れのりんごをおれの口に入れてくれた。

 かよ子とは、おれが東京の早稲田大学に通っている時に付き合っていた。大学を卒業し、おれが京浜新聞の記者として不規則な生活を送り始めると、会う機会も少なくなった。そして、かよ子は大学時代におれの親友だった山森正伸と結婚した。しかし、広告会社に勤める山森が部下の若い女性と関係を持ったことを知ると、かよ子は山森と離婚し、一人娘のさよ子をつれて、東京から故郷の金沢に戻った。

「痛い?」

「ちょっとね」

 おれの左腕が上腕部から手首のほうまで包帯で巻いてあった。おれがいるのは個室で、隅に洗面台が付いていた。

「顔を怪我しなくてよかったわね」

「ああ。怪我でもしていたら、ブロマイドの売れ行きがガタ落ちだ」

 かよ子が山森と離婚したのを、かよ子の友人の京子が教えてくれた。その頃、おれは東京の江戸川探偵社で働いていたが、かよ子のあとを追って、金沢にやってきた。ここに加州探偵事務所に勤めるようになって、もう四年半が経つ。かよ子の娘さよ子がおれの娘ではないかと思っていたのだが、かよ子は絶対にそうではないと断言した。さよ子は現在、西宮市の関西学院大学英文学科に通っていて、大学近くの学生用アパートメントに住んでいる。そして、山森がさよ子の教育費を払っているのだ。

「もっと食べる?」

「いや、水がほしい」

 かよ子はおれをさよ子から遠ざけているし、さよ子もなぜかおれを避けているようだった。かよ子と交際を再開した頃、まだ泉丘高校に通っていたさよ子と顔を合わせても、さよ子は「こんにちわ」とか「さようなら」と生半可にあいさつをするだけで、すぐに外出するか、自分の部屋に引っ込んだものだ。

 三代子がドアを三回ノックしてから、ドアをあけた。三代子のあとから、加州探偵事務所の所長である加山信明が病室にはいってきた。

「大丈夫かい、寺田くん?」

「ええ、どうやら死ななかったようですね。きっと悪運が強いんでしょう」

「いや、悪運のせいじゃない。きみが賢明な手段を取ったからだよ」

「寺田さんに死んでもらっちゃ困るのよ、うちの事務所ではね」

 加山のうしろで三代子が言って、ずり落ちそうな大きめの眼鏡を指で押し上げた。三代子は赤い水玉模様のついた白いブラウスを着て、赤いリーヴァイス・ジーンズをはいていた。髪は短くスポーティーで、年齢は二十代後半。アメリカのミステリー小説に登場するキンジー・ミルホーンやヴィク・ウォーショースキーにあこがれ、父親の友人である加山に頼んで、加州探偵事務所に勤めている。事務所では、受付、電話応対、報告書作成、ちょっとした調査を担当している。

「それで、犯人はどうしました?」

「うん、自供したよ」

 おれが尋ねると、加山は答えた。彼の息から煙草のにおいが漂ってきた。三代子が呼びに行くまで、病棟の喫煙所にいたのだろう。無表情で角張った顔には「五時の影」と呼ばれるひげがうっすらと目立ち始めている。クリーム色のボタンダウン・シャツの上にリネン地の空色のスーツを羽織り、赤と黒のストライプ・タイをしめていた。額には汗の粒が出ていたが、気づいていないようだ。六十代前半で、白髪が七割程度を占めている。

「それはよかったですね」

「どういうことなのか話してくれないかね、寺田くん」

 おれはこの中年作家失踪事件の発端を思い出して、話し始めた……

         *       *

「四万六千日。お暑い盛りでございます」

 そう言ったのは先代桂文楽だが、一九九四年の四万六千日には久しぶりに雨が降って、いつもよりは涼しかった。瞬時的な小雨だが、雨に変わりはない。

 目を覚ますと、東山にある長谷山観音院からお経が聞こえてきた。おれは遅い朝食を終えると、東山一丁目の〈イーストヴィラ〉のアパートメントを出て、近くの観音院にお参りをした。その日に参詣すると、四万六千日分のご利益がいただけるという身勝手な理由である。百円の賽銭で四百六十万円分のご利益があるのだろうか? 境内で奉書巻きされたトウモロコシ(金沢では「トウキビ」という)を買ってきて、文楽の『船徳』がはいったテープの横に「供えた」。

 その依頼人は、約束どおり午後二時に加州探偵事務所にやってきた。名前は月谷みどりといった。三十代前半の女性で、東京の大手出版社、〈魅惑書房〉の編集者である。ほっそりした長身で、髪は肩の上で丸く内側にふんわりとカールしている。真っ赤な口紅を塗った唇には、妖しげな笑みをたたえていた。オレンジ色のポロシャツの上にリネン地の白いジャケットを羽織り、リネン地の薄茶色のショート・スカートをはいている。ジャケットの襟には、蝶々のブローチがついていた。蝶々の輝く目はダイアモンドかもしれない。その依頼人は所長室の来客用の椅子に腰かけ、少し挑発的に脚を組みながら、ヴァージニア・スリムを喫っている。

「どなたの紹介でこの事務所にいらっしゃったのですか?」

 デスクのうしろにすわった加山は、ラッキー・ストライクを口にくわえて、よく使い込んだジッポのライターで火をつけた。

「じつは娘さんの加山恵さんはうちの出版社の先輩でして、加山さん、つまり、恵さんが金沢の出身だと聞いたので、相談してみたんです。すると、お父さんが探偵事務所を構えていらっしゃるということだったので、うかがったわけです」

「すると、恵の紹介ですか? 恵は元気でやってますか?」

「ええ、元気で雑誌の取材をばりばりなさってますわ。表向きは副編集長ですけど、実際には編集長と同じです。女性雑誌なのに、表向きは男性を編集長にしていますのでね」

 依頼人は歪んだ笑みを見せた。

「そうですか」

 加山は意に反して浮かべた笑みを大きな湯飲み茶碗で隠すように、目の前の茶を飲んだ。

 おれは加山のデスクの横にすわったまま、黙って二人の会話を聞きながら、三代子の淹れてくれた美味な煎茶を飲んだ。甘い茶菓子がほしいところだ。

「それで、どういうご用件ですか?」

「じつは、巻田三蔵という作家が行方不明なんです」

 依頼人はバガジェリーの白いバスケット・バッグからA5版の黒白写真を一枚取り出し、デスクのむこう側にすわっている加山のほうに差し出した。

「作家の巻田三蔵先生です。ご存じですか?」

「いいえ、わたしは知りません。寺田くんは?」

 写真をしばらく見ていた加山は、それをおれに手渡した。

「いいえ、知りません」

 おれは首を横に振った。

「私立探偵小説とか犯罪小説を得意としておられます。一般読者にはあまり馴染み深くはありませんけれど、ミステリー・ファンのあいだでは高く評価されているんですよ。日本のエルモア・レナードと呼ぶ評論家もいます」

 おれは煎茶を飲んで、巻田の顔を脳に焼き付けた。白髪が目立ち始めた髪を七三に分け、手入れの整った口ひげと顎ひげを生やしている。面長で、編集者に頼まれて、わざと恐持てのする表情をしているのかもしれない。しかし、目の表情にわずかな優しさが感じられた。

「その巻田三蔵氏が失踪したとおっしゃるのですか?」

 加山が依頼人に尋ねた。

「ええ、十日前に東京を出て、金沢とか能登をまわって、次作の構想をゆっくり練るとかおっしゃってました」

「じゃあ、まだ取材旅行の最中じゃないんですか?」

「二日前に先生の事務所で会う約束をしていました。その次作の構想について、話し合うことになっていたのです」

「もちろん、巻田さんに連絡を取ろうとなさったんですね」

「ええ、自宅にも何度も電話をかけました。いつも留守番電話が応えました。ちなみに、自宅も事務所も同じビルディングの中にあるんです。事務所は二階で、自宅は五階にありますけれど、自宅のほうには誰もいませんでした。新聞が二日分ほどたまっていました。新聞配達の人に尋ねると、一週間ほど配達を控えていたそうですが、二日前から配達を始めたそうですわ」

「巻田さんはなぜ取材先に金沢を選ばれたのですか?」

「巻田先生は先々月の末、六月の下旬に奥さんを亡くされました。自宅の近くで刺し殺されたのです。通り魔か変質者の犯行だと警察は考えています。まだ犯人はつかまっていません。四十九日がすんでから、巻田先生は奥さんの生まれ故郷とか、自分が小学生時代に住んでいた金沢を訪ねることにしたんです」

「奥さんの故郷は?」

「押水町です。宝達山のふもとにあるということですわ」

「奥さんの名前は?」

「小百合さんです。旧姓までは知りません」

「巻田さんは金沢のどこに住んでおられたのですか?」

「それも知りません。名古屋に四つ年下の妹さんがいますわ。その杉木頼子さんならご存じだと思います。お父さんが国鉄の職員だったのでよく転勤したそうです。金沢には小学校五年と六年の二年間住んでいたということです」

「ほかに家族は?」

「いません。お子さんはいませんでしたし、ご両親とも横浜で亡くなっています」

「じゃあ、親戚は? 伯父さんとか、伯母さんとか、いとことか?」

「それも知りません。巻田さんは四十九歳です。奥さんが亡くなってから、意気消沈して、生きる張り合いをなくしたようでした。それで、“先生がいちばん会いたい人に会ってみたらどうですか?”とわたしが提案したんです。すると、“うん、そうだな、金沢にでも行ってみるか”と先生がおっしゃったんです」

「すると、巻田さんが金沢に本当に来たかどうかも確かじゃないわけですね。それで、巻田さんが小学生時代に仲のよかった同級生とか、初恋の女性の名前をご存じですか?」

「いいえ、知りません。名古屋の妹さんなら知っていると思いますけど。それで、これが先生の新作ですわ」

 依頼人は巻田三蔵の本をデスクの上に置いた。彼女の出版社、〈魅惑書房〉が出版したものだ。『逃亡の終着駅』というタイトルで、ジャケットには夕焼けを背にした男が浜辺でたたずんでいる写実的なイラストレーションが描いてある。おれはその本を手に取った。ジャケットのフロント・フラップには、さっきの写真が著者近影として使ってあった。一九四五年、大阪市生まれ。立教大学卒業。雑誌記者や編集者、文芸評論家をしたあと、作家活動に専念する。一九九〇年、『おれなりの理由』で作家デビュー。著作は『別れの決闘』『殺しの代償』『フェアプレイなんてクソくらえ』など。作家紹介にはそう書いてあった。

「警察には届けましたか?」

「いいえ。ふらっと戻ってこられるかもしれないと思いましたので、まだ届けていません」

「いちおう、名古屋の妹さんに連絡して、失踪届を出すように頼みましょう。家族が届けるほうがいいと思いますよ。それで、名古屋の妹さんの連絡先を教えてください」

 加山がそう言うと、依頼人は例の白いバスケット・バッグから赤い皮革製のテレフォン・ブックを取り出し、名古屋市中村区に住む杉木頼子の住所と電話番号を読み上げた。おれはメモに書き留めた。

「巻田さんは約束をすっぽかすような人ですか?」

「いいえ、そういうようなことはありません。表向きは何事にも無頓着な態度を取っていますが、巻田先生は几帳面なんです。それで、約束の時間に遅れるとか、都合が悪い時は、いつも連絡してくださいます」

「この写真から受ける印象とは違いますね」

 おれは写真を手に持ちながら、口をはさんだ。

「女好きで、大酒飲みで、ギャンブル狂だと思われていますけれど、本当は愛妻家で、胃潰瘍になってからは一日にビールを一缶しか飲みません。“ほとんどのギャンブルの勝率は五割未満だから、賭けても負けるだけだ”とおっしゃって、ギャンブルをむしろ嫌っておられました。“人生における最大のギャンブルは、人生そのものだ”ともおっしゃってましたわ」

 依頼人はおれをじっと見つめた。おれは目をそらさずに、彼女の挑発的な鋭い目を見つめ返した。依頼人は歪んだ笑みを浮かべて、視線をそらした。

「あなたは金沢にいつまでおられるのですか?」

「三日間休暇を取りましたので、あさってまでいます。東急ホテルに泊まっています。何かあれば、伝言を残しておいてください。今晩は金沢の友人と会う約束がありますので、帰りは遅いかもしれません」

「ほかに、訊きたいことはあるかい、寺田くん?」

「巻田さんの失踪と奥さんの殺人事件とは関係があると思いますか?」

「さああ、わかりませんわ」

 おれが尋ねると、依頼人は小首を傾げて、半分しか喫っていないヴァージニア・スリムの火をデスクの上にあるクリスタル製灰皿でぎゅっと揉み消した。 

「巻田さんは奥さんの殺人事件について、おっしゃってましたか?」

「何も。先生はそのことについては何も話したくはないとおっしゃってました。初めの頃は、刑事さんたちに疑われたので、とっても憤慨してらしたわ」

「巻田さんにアリバイはなかったのですか?」

 おれは依頼人の顔色を見ながら、尋ねた。

「先生は作家仲間のクラブ賞授賞式に出席してました。わたしも出席していましたし、ほかの人たちも先生のアリバイを証明していますわ」

 依頼人は冷静に答えた。通常の契約書に必要事項を書き込み、調査料を払うと、所長室を出ていった。加山のデスクの灰皿に、赤い口紅のついたヴァージニア・スリムの吸い殻が三つ残っていた。依頼人は三代子の淹れた茶には口をつけていなかった。所長室には、高級そうな香水のほのかな香りがまだ漂っていた。

         *       *

 一九五六年、三十八年前の夏休みのことであった。

 サンちゃんとマコちゃんは、とってもおそろしいものを見てしまった。二人とも生まれてから十一年しか経っていないが、今までこんなにおそろしいものは、怪談映画でも見たことがない。

 二人はその日の午後、卯辰山に歩いてのぼり、頂上付近から金沢市街を見渡した。そのあと、豊国神社あたりの宮の森の中で遊んでいる時に、それを見てしまったのだ。

「おい、サンちゃん、こ、このことは誰にも言わんほうがいいぞ」

「う、うん。二人だけの秘密やぞ。いいか、マコちゃん」

 二人はちっとも寒くはないのに、がたがた震えていた。そして、お互いの怯えた目を見つめ合いながら、指切りゲンマンをした。森の中ではアブラゼミやニイニイゼミがしきりに鳴いていた。

 小学五年生の二人は、しばらくしてから、あたりを見まわしながら、森の中から出てきて、ほとんど無言で石段をおり、家に帰った。

 この時のことは、二人とも二度と口には出さなかった。

 その夜、サンちゃんは夕方に見たおそろしいものを思い出しながら、床に就いた。なかなか寝付かれず、おそろしい夢を見たような気がした。  
         
(つづく)


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