■『最後の誘惑(1988)』■
ようこそ! 〝おバカさん〟 の世界へ
聖書 を学びたい人のための映画
■D『映画の中のイエス・キリスト』■
『最後の誘惑(1988年)』 163分
(原題:The Last Temptation of Christ)

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【スタッフ・キャスト】
 監督:マーティン・スコセッシ
 脚本:ポール・シュレイダー
 原作:ニコス・カザンザキス『キリスト最後のこころみ』
 製作:バーバラ・デ・フィーナ
 製作総指揮:ハリー・ウフランド
 音楽:ピーター・ガブリエル
 撮影:ミヒャエル・バルハウス
 編集:セルマ・スクーンメイカー
 配給:アメリカ合衆国の旗 ユニバーサル映画

 出演者:ウィレム・デフォー■イエス・キリスト
    ハーヴェイ・カイテル■使徒ユダ
    バーバラ・ハーシー■マグダラのマリア
   ベルナ・ブルーム■聖母マリア
   デヴィッド・ボウイ■ピラト総督
   アンドレ・グレゴリー■洗礼者ヨハネ
   ヴィクター・アルゴ■使徒ペテロ
   ハリー・ディーン・スタントン■サウロ、後の使徒パウロ
   マイケル・ビーン■使徒ヨハネ
   ジョン・ルーリー■使徒ヤコブ


【解説】  この映画は全世界で、上映禁止や上映反対のデモなどが起きた問題作です。
 私は言論の自由の観点から、こうした反対運動には基本的には否定的な考えですし、それはイエス様の教えからも反しているとも思っています。
 民主主義や言論の自由は欧米で生まれましたが、それにはイエス様の教えが深く関係していると考えているからです。

 キリスト教は基本的に「神は絶対だが、人間は不完全である。すなわち人間は過ちを犯す生き物である」という考え方です。
 事実神の代理人を自称していたローマ法王やカトリック教会は世界の歴史に黒歴史とも言うべき、数々の過ちを犯し続けてきました。
 十字軍の遠征、免罪符の発行、異端審問、魔女狩り、南米・北米での先住民の虐殺等々、直接、間接の差はあれどもローマ教会やキリスト教はこれらに深く関与し、或いは見て見ぬふりをしてきた責任は逃れられないと思っています。

 神に従い、私心を捨てたはずの信仰者ですら過ちを犯すのですから、欲望まみれの政治家なら尚更です。
 だからこそいかに完璧のように見えても、所詮不完全な人間である一人の人間を、指導者として仰ぎ、彼に判断や決断を全て委ねてしまうのはとても危険なのです。
 欧米では、こうした危機意識が身に付いており、それが専制主義や全体主義、独裁主義というシステムを否定し、民主主義や言論の自由というシステムを生んだのではないか、それに影響を与えたのがイエス・キリストの教えではないかと考えています。

 イエス・キリストは、「敵対する者のために祈りなさい」と言っただけでなく、十字架につけられ最期の時を迎える寸前においてですら、十字架につけた人々のために「彼らは自分が何をしているかわからないのです」と執り成しの祈りをした本物の〝おバカさん〟です。
 イエス様は反対派の存在を容認していて、その存在を決して否定していませんでした。
 本作は、イエスが、マグダラのマリアと結婚していたのではという発想から生まれた映画であり、それはキリストを侮辱しているということで、上映禁止や上映反対運動が巻き起こったのですが、そうした行動は、敵対するパリサイ派の動きに対して、「彼らのことは放っておきなさい。(マタイ15:14)」と説いたイエス・キリストの言葉に反しているように見えてしましまいます。

 とはいえ、反対運動をするのもそれも一つの言論であり、それをするなとも言えません。
 本作は、聖書の世界に縁がない人には難解ですし、真面目なクリスチャンによっては躓きの基になりかねない作品ではあります。
 あくまでもフィクションとして、そういう解釈も有り得ると寛容に見て楽しめればよいのですが、その自信のない人にはお薦め出来かねます。

 人間の創造力は無限で、源義経がモンゴルに渡ってチンギスハーンになったという小説もありましたが、この作品も奇をてらったものの一つですので、そんなに目鯨を立てなくても良いのではとも思います。
 それでも、真正面から受け止める純粋な方がクリスチャンの方には多いので、ぜひご覧くださいとは言えない作品ですので、ご自分の判断で見るなり、【解説】と【ストーリー】を読むだけにするか、ご判断ください。(By天国とんぼ)


【ストーリー】(ネタバレ注意)
 ローマ帝国に支配されているイスラエルで、人々は救世主が現れるのを待ちわびていた。
 ナザレのイエスは頭の中で神の声が聞こえることに悩まされており、神に逆らうつもりでローマ軍ために十字架を作っていた。
 そうしたイエスの行為に対し、ユダはローマ軍に協力していることをとがめ、マグダラのマリアはイエスにつばを吐きかける。

 声に従うことにしたイエスは導かれるようにして、マグダラのマリアの元にやって来る。
 マグダラのマリアに許しを請うが、マリアはそれを拒む。

 砂漠に向けて旅立ったイエスは、死者の精霊の導きを受け、砂漠の中の小屋にたどり着く。
 イエスはそこで、神の声を広めることが自分の使命と確信する。
 ある夜、ユダが現れて、イエスを殺そうとするが、イエスが自らの使命を語ると、ユダはイエスと共に歩むことを決める。

 イエスとユダは、モーゼの掟を破ったとしてマグダラのマリアが村人から石を投げつけられているのを目撃する。
 イエスは、投石をやめさせ、村人たちに愛の尊さを説く。
次第に人々はイエスの言葉に従い始めるようになる。

 イエスは、ユダヤの洗礼者ヨハネを訪ね、洗礼を受ける。
 ヨハネは、迷いをぬぐいきれないイエスに対し、砂漠で神の声を聞くことを勧める。

 イエスは単身、砂漠で祈り始める。
 ヘビやライオンが現れ、女や家庭、権力で誘惑しようとしてくる。
 全ての誘惑を払いのけ、悪魔にも打ち勝ったイエスは、ヨハネの精霊から救世主であることを告げられる。
 イエスは再び神の言葉を伝えるために戻ってくるが、そこでヨハネが殺されてしまったことを知る。

 弟子の元に帰ってきたイエスは、悪魔に打ち勝つための戦いに加わるように呼びかける。
 イエスは失明者を治したり、水をワインに変えたり、死者を蘇らせたりと数々の奇跡を起こしていく。
 エルサレムの寺院にたどり着いたイエスは、拝金主義がはびこり堕落した人々を見て、失望し、寺院が3日以内に破壊されると預言する。
 イエスはユダに対し、夢の中で預言者から人々の犠牲として十字架に掛けられて自分が死ぬ運命だと告げられたことを明らかにする。

 イエスは再び弟子を連れて、寺院を目指す。
 エルサレムの人々はイエスのことを讃えて歓迎する。
 しかし、寺院を燃やそうとするイエスの前に寺兵が立ちはだかる。
 ユダに連れられて退いたイエスは、神の意志に従い、自分の所在を寺兵に密告するようにお願いする。
 裏切り行為をすることを受け入れられないユダは涙に暮れる。

 弟子たちと共に最後の晩餐をするイエスは、パンを自分の体として、ワインを自分の血として分け合い、自分のことを思い出すように話す。
 ユダだけがこっそりとその場を後にする。
 神に祈っているイエスのもとにユダが寺兵を連れて戻ってくる。
 ペテロが兵士の耳を切ってしまうが、イエスはその耳を元に戻して、ユダに自分を案内するように頼む。

 ピラト総督の前に連行されてきたイエスは、危険人物として、処刑されることになる。
 イエスは、殴られ、むち打ちにされ、イバラの冠を被らされる。
 ゴルゴダの丘に向かって十字架を背負って歩くイエスを、人々は嘲笑したり、罵ったりする。
 ゴルゴダの丘にたどり着いたイエスは、マグダラのマリアらが見守る前で十字架に張り付けにされる。

 十字架上のイエスが神になぜ自分を見捨てたのかと問いかけると、突如として空が晴れ、小さな女の子の姿をした天使が現れる。
 天使は、全ては神の試練の一部だったと告げ、イバラの冠を外し、イエスを十字架から降ろす。
 天使はイエスに神に与えられた人生を楽しむように言い、緑に満ちた地上を案内する。
 そこに白装のマグダラのマリアが現れ、イエスと結婚する。

 マグダラのマリアは、イエスの体から血を丁寧に拭き取り、2人は愛し合う。
 マグダラのマリアはイエスの子を身ごもるが神に召されてしまう。
 悲しみに暮れるイエスに、天使は、神を信じるように諭し、弟子だった別の女性を妻に迎えるように説得する。

 月日は流れ、イエスは、子宝にも恵まれ、幸せな家庭を築くようになる。
 さらに時が経ち、死の床にあるイエスの元に、ペテロらかつての弟子達が訪れてくる。
 その中にはユダもいた。
 ユダは、十字架から逃れたイエスを裏切り者と罵る。
 イエスは、神の思し召しで人の道を歩んだと説明しようとするが、天使だと思っていた女の子が悪魔だったことを悟る。
 自らの過ちに気付いたイエスは、炎に包まれたエルサレムで、神の許しを請う。

 すると、イエスは、再び十字架の上に戻され、そこで息絶える。

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