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『マグダラのマリア(2018年)』 120分 (原題:MARY MAGDALENE) (原題:MARY MAGDALENE) 【スタッフ・キャスト】 監督:ガース・デイビス 製作:イアン・カニング 脚本:ヘレン・エドマンソン、フィリッパ・ゴスレット 音楽: ヨハン・ヨハンソン、ヒドゥル・グドナドッティル 撮影: グレッグ・フレイザー 製作:イアン・キャニング 衣装・ ジャクリーン・デュラン 出演者:ルーニー・マーラ(マグダラのマリア) ホアキン・フェニックス(ナザレのイエス) キウェテル・イジョフォー(ペトロ) タハール・ラヒム(イスカリオテのユダ) アリアン・ラベド() ルブナ・アザバル(スザンナ) チェッキー・カリョ(エリシャ) ドゥニ・メノーシェ(ダニエル) 【解説】 キリスト教誕生の経緯をマグダラのマリア視点で描いたドラマとはなっていますが、あくまでもフィクションですので、事実と混同しないで下さい。 ただ当時の社会がどんな雰囲気であったのか、女性がどんな立場におかれていたのか、聖書において人数は男性の人数であり、女性が含まれていないことからもわかるように、男性(父親や夫)が権威を持つ典型的な男尊女卑社会であり、女性には自由意志は認められておらず、現代流にいえば、迫害されていたかが理解出来る映画となっています。 イスラム教社会では現代においても、父親の意志に逆らい妊娠した娘を父親が殺したというニュースが伝わり驚きますが、おそらく当時のユダヤ教社会でもさして変わりなかったであろうことが伝わってきます。 そんな時代に、「先のものが後になり後のものが先になる」という当時の社会とは真逆の価値観である神の国の話をするイエス・キリストの言葉が女性たちにとって、どれだけ新鮮で魅力的に映ったかは想像に難くありません。 また、男の弟子たちがどれだけそれを理解していたについては疑問を抱いています。 イエス復活の最初の目撃者であり、おそらく集団でも中心的な位置にいたであろうマグダラのマリアが時代を経るにつれ、ローマ教会の中で罪深い女性として扱われ、伝承の中においては娼婦の地位にまで貶められたことが、それを証明しているように思います。 マグダラのマリアが娼婦だったという記載は聖書のどこにもありません。 7世紀初頭、キリスト教の最高顧問であった大教皇グレゴリウス1世が女性の身で7つもの悪霊を有していたのは「娼婦だったに違いない」という偏見のもと「娼婦」ということになったと言われています。 しかし、中世において、7つの悪霊の「7つ」というのは「多い」という意味であり、複数のマリアが融合した結果、罪深き女ということになってしまったという経緯があるようです。 当時は娼婦を更生させようという教会のキャンペーン(?)が繰り広げられていて、娼婦が悔改めて聖女になったというストーリーが教会にとって都合がよく、マグダラのマリアにその役割を負わせたというのが真相のようで、なんだかなと思ってしましまいます。 聖書によるとマグダラのマリアはイエス復活の一番目の証人でした。 にもかかわらず、591年、グレゴリウス1世がマリアは娼婦だったと主張し、その誤解が今日まで根強く残っています。 そのため、使徒とは認められずにいましたが、2016年になって漸く、マグダラのマリアはイエス復活の証人として使徒と同等の地位を認められました。 これ以外にも、聖書に書かれているイエス・キリストの言葉と、現実のキリスト教(ローマ教会)の歴史(十字軍遠征、魔女狩り、免罪符の発行etc.)との間に乖離があり過ぎ、私にはなかなか受け入れがたく洗礼を受けるにあたり大きな障壁ともなっていましたが、よくよく考えてみれば聖書は人間の過ちの歴史であり、それを許す唯一絶対の神の歴史でもあるので、その神が許して下さっているのに、許された一人である私が他人を許さないというのもおかしな話です。 信仰は自分と神様との関係が第一であって、それ以外は二義的なものです。 わからないことはわからないままにして、無理矢理割り切ることをしないままでいこう(必要なことならいつか神様が教えて下さるであろうし、教えてくださらなければ必要なかったということなのだ)という結論に至り、乗り越えられました。 この映画のイエスは(イエスを演じた役者は、一日に300キロカロリーという摂取制限を設け、大幅な減量をしたそうですが、成功したとは言い難く)、我々のイメージのイエスではなく、なかなか受け入れがたいものがあります。 マグダラのマリアには娼婦以外にも、イエス・キリストの愛人であったなど様々な説があります。 映画『最後の誘惑』ではイエスとの間に子供をがいる場面がありましたし、映画『ダ・ヴィンチ。コード』はイエスに子孫がいたという伝承を基にしたという体をとった小説を映画化していますが、その伝承そのものがインチキであったことが証明されており、もちろんフィクションです(詳しくは、拙著【小説『ダ・ヴィンチ・コード』の真実 改訂版】を参照)。 日本にも、源義経がモンゴルに渡りチンギス・ハーンになったとする説を描い作品(高木彬光の小説『成吉思汗の秘密』)や、徳川家康に影武者がいて関ケ原以降成りすましていたとする作品(隆慶一郎の小説『影武者徳川家康』)、明智光秀が生き延びて天海僧正になったとする説を取り上げた作品(隆慶一郎の小説『吉原赦免状』)などがあり、作家が想像をたくましくして一つの作品に仕上げたのと同様、本作もフィクションの娯楽作品であることを忘れてはなりません。 なお今作で主人公は、ペテロよりも誰よりもイエスの心を理解している人物としてイエスを支える重要な役割を担っています。 映画には製作スタッフのなんらかの意図が込められていますが、それを受け入れるかどうかの判断は観客に委ねられているのが映画というものですので、みなさんの判断にお任せします。 なお、『パッション』ほどではないにしても相当残酷で血生臭い描写がありますので、目を閉じたり、背けながら、衝撃を和らげながらご覧(or見ないで)ください。(BY天国とんぼ) 【ストーリー】 紀元33年、ユダヤ。ヘロデ・アンテパス王の圧政に反乱が頻発し平和とは程遠い時代。ユダヤ人は予言された救世主が現れ、神の国の到来が告げられることをひたすらに望んでいた。 漁村マグダラにて大家族の長女に生まれ聡明で美しいマリアは、父が勧める村の男性と結婚することになったが、本人はそれを容易に受け入れて良いものか思い悩んでいた。 いよいよ結婚相手と顔を合わせたマリアは、意図せず結婚を拒否するような行動を取ってしまい父と共に家族を牽引する兄に強く叱られてしまう。 深夜に彼女を連れ出し半ば無理矢理、悪霊を払う儀式を受けさせられる。 巷では洗礼者ヨハネによって洗礼を受けた癒し手なる者が現れたと噂が広まっており期待が寄せられていたが、家族によって悪霊付きと貶められたマリアは女としての役割を果たせないことで心身共に深く傷ついていた。 そこで、夫となる青年が癒し手を連れて来てくれる。 癒し手はマリアの悩みを静かに問い、望みが何かを聞く。 マリアは神を知ることだと答えた。 すると、癒し手イエス・キリストは、ただ神を信じればいい。 マリアに悪霊などついていないと笑みを見せ去って行く。 マリアはイエスの力強い説教を聞き、更に彼が病を抱える人々を次々と救う姿を目の当たりにする。 しかし、群衆はイエスの御業を悪魔の所業だと叫び大騒動へと発展してしまうのだった。 家族は総出でマリアを取り戻そうとしたが、マリアはイエス自らによって水の洗礼を受け弟子の1人として加わることになった。 弟子の中で紅一点のマリア。一番弟子のペトロは女性が加わることに危機感を抱くも、イスカリオテのユダは女性が伝道師になってもいいではないかと反論。 イエスは弟子に何も語らないが、ペトロを筆頭にする弟子たちは師の教えを広めようと戦略を立てている。 新弟子のマリアには発言も許されず、女性であるが故に輪に加わることもできない。彼女はいつも遠目からイエスを見守っていた。 そんな時、師と会話する機会を得たマリアは、女性が伝道に加わることも男性から洗礼を受けることも忌避されることだと語る。すると、イエスは何も答えずその場を去ってしまう。 一行はガリラヤのカナへ。女性ばかりが住む地区へ向かったイエスは、紅一点のマリアを傍らに呼び寄せ何を語れば良いかを聞く。 マリアは女性も男性と同様だと進言。 当時は男尊女卑の時代であるため、時に女性は男性から意に沿わない従属関係を強いられる。 そこでイエスは女性を擁護し、性別に関係なく人は常に平等であることを説いた。すると 翌早朝、何の言葉もなくイエスが宿泊地から出発。 師は導かれるかのように死者へと手を触れ寄り添って言葉をかけた。 すると、驚くべきことに死者が息を吹き返す。 その奇跡にペトロ達は神の子なのだと狂喜したが、たった一人マリアだけはイエスの様子がおかしいことに気付く。 近くの洞窟へ身を隠してしまったイエスの元へ向かったマリアは、命がすり抜けて行ったと涙を流す師を発見。 マリアはこの先に待ち構える暗闇に怯えるイエスを勇気づけ、共に歩むと告げる。 すると、イエスはとうとうエルサレムへ向かうと言うのだった。 死者をも生き返らせたという奇跡の噂はたちどころに広まり、町の人々が総出でろうそくを手にイエス一行を見送る。 このことで、イエスは救世主と呼ばれることに。 そこで、イエスはペトロにマリアと2人で伝道と癒しの旅に出ろと指示するのであった。 イエス一行が目指すのはエルサレムの過越祭。 ペトロはその祭りできっと何かが起こると思っているようだが、イエス自身の精神状態にまでは考えが至らない様子。 だがマリアは、教えはもちろんのこと最も気にかけているのは師の心の安寧なのであった。 サマリアの村へ入った2人は、そこでローマ帝国が行った凄惨な仕打ちを目にする。 帝国によって襲撃され、食糧を奪われた村では村人が今にも飢え死にしそうになっていた。 ペトロは別の町へ早々に移動しようと言ったが、マリアは見過ごすことができず息絶えそうな人々に水を与え不安を癒し、死を看取った。 それまで、信者を増やすことばかりを考えていたペトロは、慈悲深いマリアの行動に胸を打たれ彼女を受け入れる。 2人はその後、イエス一行と合流しエルサレムへ。 道中、イエスは母親と対面。 その夜、マリアはイエスの母親からイエスを愛しているならば、失う覚悟を持てと言われるのだった。 その足で神殿へ向かったイエスは険しい表情で周囲を見渡し、司祭の1人に神殿は全ての国の人の祈りと呼ばれるべき場所なのに、神殿の広場はまるで市場のようだ。 信仰とは売り買いするものではない。そう声高に断じ、神殿へと危害を加えた。 たちまち衛兵によって取り押さえられたイエスは、更にこの神殿は石一つたりとも残さず崩れ落ちると予言するのだった。 騒動が勃発する中、マリアとペトロ、他の弟子たちがイエスを救出。 マリアもユダの導きによって逃れる。 ユダは妻子を帝国のせいで失い、神の国へ向かうことを切望していた。 一行はひとまず、用意していた隠れ家へと避難。 イエスは別室で休むことに。 しかし、マリアが師の元へ向かうとユダが先にイエスへと祈りを捧げていた。 ユダは神の国は死者の国で救われる場所だと頑なに信じている様子。 マリアが否定しようとしても聞こうとはしなかった。 イエスは酷く疲れた様子だったが、何も語らず涙を零した。 ユダが去った後、イエスの足を洗っていたマリアに師が言葉をかける。 事はもう始まった。 今後起こることを止めてはいけないし、止めさせてはいけないと。 マリアは常に彼の心に寄り添っていると返す。 すると、イエスはマリアこそが自分の証人になると告げた。 これが最後の晩餐になるなど、弟子たちは知る由もない。 辺りが暗くなった頃、一行は近くの丘へ移動。 イエスは深い悲しみを抱き神の元へ向かうと言う。 遅かれ早かれ、帝国の兵がイエスを捕まえに来るだろう。 弟子たちは一心に祈りを捧げる師に習い祈った。 そうして、翌早朝。ユダの手引きによって兵がイエスの捕縛にやって来る。 マリアも抵抗したが、殴られて意識を失ってしまった。 気が付くとユダが傍にいる。 彼はイエスに死が迫れば、奇跡を起こさざるを得ないと得意げに笑う。 イエスが処刑されると聞いたマリアは、即座に裁判場へと走った。 ごった返す人の中、傷だらけで血に塗れたイエスが自ら十字架を背負おうとしている。 茨の冠を被せられ、両腕を柱に結わえられふらつきながらも歩んでいた。 衝撃を受けたマリアは、踵を返し道の端に蹲る。 イエスが抱える痛みや苦しみを共に感じているようだった。 そうして、母親が見守る中、ゴルゴダの丘に磔にされたイエス。 ふと空を見上げ思いを馳せる。 イエスと共にあることを。 マリアはゴルゴダの丘へ向かい、一心にイエスを見つめ涙を流した。 師はマリアと見つめ合い、そして、静かに目を閉じる。 息絶えたイエスが磔から降ろされる。 母親が彼を胸に抱きしめていた。 その後、マリアはユダと会ったが、彼は涙ながらに家族の元へ向かうと去った。 イエスの亡骸は清められ丁重に葬られる。 墓の入り口は隙間なく石で埋められたが、マリアはその場から離れられなかった。 イエスの埋葬後、首を吊っているユダが発見される。 それからしばらく後、マリアは師の呼びかけによって目を覚ました。 陽が昇った丘の上に彼の姿があった。 イエスが復活したことをペトロ達に知らせたマリア。 希望を失い憔悴していた弟子たちに、彼女は一心に神の国とは自らの心の中にあるのだと説いた。 心が変われば人も変わる。 その言葉にペトロが反論。 師が一番にマリアを選んだことを許せないと言う。 マリアはそれでも言葉を発し続けると告げその場を去った。 イエスの元へ戻ったマリアは、彼から言葉を受け取り、その後も女性を中心に伝道を続けるのだった。 | |||||
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