使徒行伝1章1ー11節

「キリストの昇天」



 使徒行伝は、ルカによる福音書の続編として、医者ルカ(コロサイ人への手紙
四・一四)によって書かれたものです。最初に「テオピロよ、わたしは先に第一
巻を著して」とありますが、この「第一巻」は、ルカによる福音書のことであり
ます。表題から、「使徒たち」の「行い」を伝える書だということが分かります。
この使徒というのは、イエスの十二弟子とパウロを指しています。もっとも、実
際に登場するのは、前半はペテロが主で、後半はパウロが主で、他の弟子たちは
ほとんど出てきません。「行い」は、キリストの福音を各地に伝えるわざのこと
です。行いだけでなく、もちろん彼らの言葉(説教)も重要ですので、新共同訳
聖書では『使徒言行録』という表題になっています。ついでですが、この『新共
同訳聖書』は、一八年の年月を費やして1987年に完成したもので、現在私達
の使っている口語訳聖書よりは分かりやすくなっています。それに、これはカト
リックの学者とプロテスタントの学者が協力してなしたものとしても大きな意義
があります。そこで、この聖書研究でも、必要に応じて新共同訳聖書を引用した
いと思います。
 使徒行伝は、福音がエルサレムから異邦人世界に伝えられ、ついにはその当時
の中心地ローマにまで、伝えられたことを述べています。そして、そのわざの背
後に聖霊が強く働いていることが強調されています。使徒行伝には、聖霊が非常
に強調されていますので、これを「聖霊行伝」と呼んだ人がいます。
 さて、ルカという人は、歴史家でもありました。一つの歴史観を持って福音書
と使徒行伝を書いたのです。それは、救いの歴史ですが、イエスの以前の時代を
「イスラエルの時」とし、これは救いの預言の時、律法の時です。そして、イエ
スの到来が救いの成就の時であり、これは「時の中心」です。そして、昇天から
再臨に至る時が「教会の時」です。従って、私達の時代も教会の時になるわけで
す。そこで、私達の教会は、この使徒行伝の延長線上にあり、イエス・キリスト
よる救いを確信しつつ、再臨の時に備えつつ歩みをなすのです。何事も初心に帰
ることが重要ですが、私達の教会も、この使徒行伝の最初の教会に学ぶことは大
切なことだと思います。
 
  テオピロよ、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教えはじめ
  てから、お選びになった使徒たちに、聖霊によって命じたのち、天に上げら
  れた日までのことを、ことごとくしるした。        (一ー二節)
 
先程も言いましたように、「第一巻」というのは、ルカによる福音書です。ルカ
による福六音書もテオピロという人に献呈された、と書かれています(一・三)。
このテオピロという人は、福音書では「テオピロ閣下」と言われていますので、
多分その当時のローマ政府の相当地位の高い役人であったと思われます。ただ、
テオピロというのは実際の名前ではなく、何かの理由で実名を隠すために、ルカ
が作った名ではないかと思われます。当時、ローマにおいてキリスト教は、邪教
と見なされており、ローマの役人がそのようなものと関係していると分かるのは、
まずかったのかも知れません。そこで、ルカは、実際の名を隠して、テオピロと
呼んだのかも知れません。「テオピロ」というのは、「神に愛された者」という
意味です。ルカが、ローマの高官に、イエス・キリストの事、及び使徒たちの働
きを詳しく報告して、キリスト教のことを正しく理解してもらおうとしたのだと
思います。
 
  イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によ
  って示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られ
  た。                                           (三節)
 
「苦難を受けた」というのは、イエスの十字架の死のことです。そして、復活し
たことは言われていません。その代わり「彼らに現れた」と言われています。そ
して、イエスが彼らに現れた目的は、「神の国のことを語る」ことであったので
す。弟子たちは、これまでイエスと共に生活をし、共に旅をしていたので、「神
の国」のことは、イエスから直接何度も聞いていたことであります。福音書を見
ますと、イエスがいろいろな譬を使って「神の国」のことをしばしば語っておら
れます。弟子たちは、もう耳にたこができるほど、聞いていたでしょう。しかし、
イエスはなおかつ彼らに神の国のことを話されたのです。弟子たちは、何度聞い
ても、イエスのみ言葉を完全には理解していなかったのです。それだからこそ、
イエスを裏切ったり、仲間同志で言い争ったり、ということが繰り返されたので
す。私達も、み言葉をもう完全に分かったということはないのです。礼拝におい
て、くどいほどみ言葉を聞きます。また、キリストか。また、十字架か。また、
復活か。もうそんなことは十分に分かっている、と思うことがありませんか。し
かし、私達には、み言葉が完全に分かった、もう聞く必要はない、ということは
ないのです。ここでイエスは、「四十日にわたって、神の国のことを語られた」
とあります。聖書、おいてこの「四十」という数は、特別な意味を持っています。
すなわち、「完全」という意味です。イエスは、宣教に先立って四十日断食した、
と書かれています(マタイによる福音書四・二)。これは、イエスの断食は完全
なものであったことを意味しています。また、その後の悪魔の誘惑は、人間にふ
りかかる「すべての」誘惑を暗示し、イエスがその誘惑に「完全に」勝利一二し
たことを暗示しています。ここでも、イエスは弟子たちに十分に「神の国」につ
いて教えた、ということが暗示されています。今後弟子たちが、方々に出て行っ
て伝道するに際して、この十分な教えが必要だったのです。
 
  そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、「エルサレムから
  離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。 
                                 (4節)
この「約束」というのは、五節にあるように、聖霊のことです。イエスは、ここ
で弟子たちに、エルサレムで聖霊が与えられるのを待ちなさい、と言っています。
イエスは、今天に上げられようとしています。そうなると、弟子たちは、自分の
力で働かなければなりません。八節を見ると、彼らの使命は、「エルサレム、ユ
ダヤとサマリヤ。全土、さらに地の果てまで」伝道することです。しかし、ゲッ
セマネでイエスが捕らえられた時、彼を見捨一四てて逃げ去った(マタイに、る
福音書二六・五六)弟子たちにそのような力はありません。そこでイエスは彼ら
に聖霊を約束したのです。ただ、イエスはここで、どれくらい待つのか、その期
間は言っていません。それを二、三日待つだけでいいのか、あるいは、一年も二
年も待たなければならないのか。「待つ」ということは、中々忍耐のいることで
す。また、不安でもあります。その時が分かっている場合でもそうでありますか
ら、まして、その時が分からない場合は、なおさらです。しかし、待つというの
は、信仰者の態度です。信仰者は、その時を待つのです。私達は、まだ結果は与
えられていません。しかし、主の約束を信じて待つのです。あるいは、私達の生
涯は、待ち続ける時であるかも知れません。しかし、信じて待つのは、決して無
益なことではありません。イザヤ書には、「しかし主を待ち望む者は新たなる力
を得る」とあります(四〇・三一)。
 ここで、弟子たちは、イエスから聖霊が与えられるという約束はされますが、
それがいつかは言われませんでした。しかし、弟子たちは、それは不安なのです。
そこで、それがいつかを知りたいのです。そこで、その時をイエスに尋ねます。
しかし、イエスの答えは、
 
  「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あ
  なたがたの知る限りではない。                (七節)
 
この時を定めるのは、神だけです。特に、「場合」と訳されているカイロスは、
神の時を表します。「イスラエルのために国を復興なさる」というのは(六節)、
何か不思議な事が起こる終末的な出来事が期待されています。しかし、そのよう
な終末的な出来事の時は、神が定めるのです。人間にその時を定める権能は与え
られていないのです。時々、「・・年にはこの世は滅びる」などという予言がな
されたりします。しかもそれを聖書の、特にヨハネの黙示録あたりから計算して、
「後・・年すると世界は滅びる」などと予言する人(団体)があります。しかし、
その時は神が決めるのであって、人間には許されていないのです。そういう予言
があれば、それはインチキと見ていいでしょう。
 
  こう言い終わると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えら
  れて、その姿が見えなくなった。イエスの上って行かれるとき、彼らが天を
  見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立ってい
  て言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。    
                             (九ー一一節)
イエスは昇天されました。「天に上げられる」というのは、栄光の姿です。旧約
聖書では、エリヤが「天に昇った」と言われています(列王紀下二・一一)。昇
天というのは、最も栄誉あることで、大きな奇跡です。にもかかわらず、イエス
の昇天の記事は、詳しく記されていません。天に上げられる時、華々しく描くの
が普通です。白馬が来るとか、大勢の天使に迎えられるとか。しかし、ルカはそ
ういう事に余り関心がありません。むしろ残された弟子に関心があります。
 弟子たちにとって、イエスは絶対的なお方でありました。イエスが捕らえられ
た時、恐ろしくて逃げてしまいました。しかし、復活の主に出会って、また元気
になったことでしょう。弟子たちは、イエスが共にいないと非常に不安なのです。
しかし、今再び自分たちを残して昇天しました。彼らは「天を見つめた」とあり
ます。これは、一点を注意深くいつまでも見ている、ということです。弟子たち
は、イエスから目を離そうとしなかったのです。雲に隠れてしまったのにいつま
でも見続けていたのです。しかし、弟子たちは、天を見つめるのでなく、今から
は地上を見なくてはならないのです。自立をしなければならないのです。今まで
は、ただイエスを頼って、イエスの後からついていくだけでよかったのです。し
かし、今からは、イエスから自立して、自分たちで伝道の業をしなければならな
いのです。親の保護が余りにも大きい場合(過保護)、子供は自立出来ません。
あるとき親は子供を突き放す必要があるのです。キリストの昇天は、弟子たちの
自立を促すものでした。いつまでも天を見つめていた弟子たちに天使は「なぜ、
天を仰いで立っているのか」と言いました。そうです。いつまでも、天を仰いで
いてはいけないのです。地を見つめ、自分たちのなすべき事に励まなければなら
ないのです。私達も、ただ天を見つめるだけの信仰であってはなりません。地を
見つめ、私達に出来るわざをなしていかなければならないと思います。昇天した
イエスは弟子たちを見捨ててしまったのではありません。天から彼らを見守り、
またご自分の代わりに聖霊を送ることを約束されました。