使徒行伝3ー4章

「宣教の困難」



 さて、ペンテコステの日に聖霊が降されて出発した最初の教会は、はじめから
困難にぶつかります。最初の信者たちは、今までの自分たちの信仰(ユダヤ教)
と決別したのでは決してありませんでした。それゆえ、ユダヤ教の大本山である
エルサレムの「神殿に毎日参っていた」(二・四六、新共同訳)のです。ところ
が、使徒たちがイエス・キリストのことを宣べ伝え始めると、ユダヤ教の指導者
たちに弾圧が加えられたのです。
 その最初の出来事は、ペテロとヨハネが「美しの門」の所で、生まれながら足
の不自由な男を癒したことから起こりました。この男は、毎日神殿の門の所に、
「置かれていた」とあります(二節)。まるで、物のようです。彼は毎日、一個
の人格をもった人間としては扱われていなかったのです。恐らく、だれも声をか
けるのでなく、話をするのでなく、顔も見ずにただ小銭を投げて行くだけであっ
たでしょう。ここに、ペテロとヨハネが通りかかります。
 
  ペテロとヨハネとは彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。
                                (四節)
ここで、「じっと見た」と訳されている語は、この物乞いをしていた男がペテロ
たちを見た(三節)時の動詞とは違う語です。この「じっと見た」は、特別な動
詞で、「注目する」という語です。このみすぼらしい恰好で物乞いをしていた男
に注目した人が今までいたでしょうか。ペテロとヨハネは、この男を物として扱
うのでなく、一人の人格をもった者として接しているのです。そして、「わたし
たちを見なさい」と言います。これも、ただ漠然と見る、というのでなく、「わ
たしたちをきちんと見なさい」ということです。これは、見る者と見る者との人
格的な関係を言っています。
 しかし、この男は、いつもの習慣から、何かもらえるだろうと期待したのです。
そこで、ペテロは言いました。
 
  金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イ
  エス・キリストの名によって歩きなさい。                       (六節)
 
ペテロは、本当にお金を全然持っていなかったのでしょうか。お金を持っていた
らあげたいのだが、持っていないので仕方なしにその代わりのものをあげよう、
と言っているのでしょうか。ペテロは、神殿に礼拝に来たのですから、少し位の
お金なら持っていたと思います。しかし、わずかなお金を投げ出すことによって、
この男は本当には救われないのです。人々は、彼を一人の人とは扱わずに、門の
前に「置かれている」物のように扱っていたのです。そして、この男も、お金さ
えもらえればいいと思っていたのです。しかし、お金によっては、本当の救いに
は至らないのです。毎日をただ食べて寝るという生活だけでは、真の人間として
生きることではありません。ペテロは、この男が、神の前における真の人間とし
て回復されることを願ったのです。キリスト教の宣教は、初めから、いっぱひと
からげに大勢の信者を作るというのでなく、一人の人が神の前における真の人間
として回復されることを求めたのです。
 今の世の中、余りにもお金に支配されていませんか。そして、大切なものを失
っているのではないでしょうか。今の日本は、物質的には豊かであるのに、真の
人間が喪失されているのではないでしょうか。
 ペテロはここで、イエス・キリストの名によって歩くことによって、真の人間
として解放されることを求めているのです。イエス・キリストは、私達を真に解
放し、真の救いを与えるのです。これが、ペテロが「イエス・キリストの名によ
って歩きなさい」と言っている意味です。
 さて、この生まれつき足の不自由な男は、ペテロとの出会いによって、その足
が癒されました。ここで、不思議な業を行ったペテロの力にのみ目を向けてはな
りません。むしろ、ここで注目すべきは、この男が心身共に癒された、というこ
とです。
 
  そして、歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら、彼らと共に宮には
  いって行った。                       (八節)
 
この男は、毎日神殿の門の所に置かれましたが、それは神を讃美するためではな
く、そこに来る大勢の人々に物乞いをするためでありました。毎日この門を出入
りする人々は大勢いました。しかし、皆、この男を一つの物のように見ていたの
でした。この男ももう何一〇年とそういったことに慣れてしまっていたでしょう。
ところがペテロは、この男に一人の人格をもった人間として接し、イエス・キリ
ストの名によって歩くことによって、真の人間の解放を与えたのです。このペテ
ロとの出会いによって、この男は神を讃美する人間へと変えられたのです。
 名というのは、聖書において、そのものの本質を表します。イエス・キリスト
の名というのは、イエス・キリストの本質です。キリストが私達の罪の贖いとな
って十字架にかかり、私達を救いに入れて下さいました。その本質がキリストの
名です。そこで、イエス・キリストの名によって歩くというのは、イエス・キリ
ストによって私達が救われていることを心より信じて、彼に従って生きる、とい
うことです。そして、ここに真の人間の回復があります。
 この男は、毎日、神殿の参拝者から施しをもらって、確かにその日その日を暮
らしてはいけたでしょう。しかし、人間、ただ食べて寝るだけでは、真の人間と
して生きるということにはならないでしょう。この私を生かし、支えて下さる方
を覚えてこそ、真の人間であります。ここで、この男が神を讃美して宮に入った
ということは、今までの生き方を全く変えられた、ということであります。金銀
よりももっと大切な生き方に目が開かれた、ということです。
 さて、ペテロとヨハネが生まれながら足の不自由な男を癒した出来事は、その
後に大きな波紋を広げるのでした。すなわち、二人はそのかどで逮捕され、尋問
されたのです。
 
  明くる日、役人、長老、律法学者たちが、エルサレムに召集された。大祭司
  アンナスをはじめ、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一
  族もみな集まった。そして、そのまん中に使徒たちを立たせて尋問した、
  「あなたがたは、いったい、なんの権威、また、だれの名によって、このこ
  とをしたのか」。                               (四・五ー七)
 
ここで言われている人々は、サンヘドリンと呼ばれるユダヤの最高法院の議員た
ちであります。ユダヤの最高法院は、ここにある者の代表者によって、七一名で
構成されていました。イエスが捕らえられた時も、まず、この最高法院に引き出
されて、裁判を受けました。イエスは捕らえられるとまず、大祭司カヤパの所に
連れて行かれました(マタイによる福音書二六・五七)。そこで、ここで今集ま
っている議員たちは、イエスが捕らえられた時に集まった人達と同じ人達であり
ました。
 さて、最高法院の人達は、ペテロとヨハネに、「一体何の権威によって、足の
不自由な男を癒したのか」と尋問します。病人を癒すということは、悪いことな
のでしょうか。ペテロが九節で「病人に対してした良いわざ」と言っていますよ
うに、病人を癒すことは、良いことのはずです。少なくとも、裁判にかけられる
ようなことではありません。しかし、権力者はしばしば、そのわざを素直に見な
いで、その人がどういう人か、どういう肩書の者か、どういう後ろ盾のある者か、
ということを問題にします。彼らにとって二人は、「無学なただの人」(一三節)
に過ぎなかったのです。このような者に、大いなるわざが出来るはずがない、と
言うのです。この尋問に対して、ペテロは堂々と答えます。
 
  わたしたちが、きょう、取調べを受けているのは、病人に対してした良いわ
  ざについてであり、この人がどうしていやされたかについてであるなら、あ
  なたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。
  この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがた
  が十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イ
  エス・キリストの御名によるのである。         (九ー一〇節)
 
実に堂々とした答弁です。このペテロは、二か月位前、この同じ法廷でイエスが
裁判にかけられる時、「あんな人は知りません」と三度も否みました。ここで、
ペテロは、聖霊に満たされたがゆえに(八節)、何の恐れもなく大胆に(一三節)
話すことが出来たのです。
 この堂々とした答えにサンヘドリンの議員たちは返す言葉がありませんでした
(一四節)。返す言葉がないのなら、「逮捕したのは間違っていました」と言っ
て、すぐに釈放すればいいはずであります。ところが、最高法院のお偉方は、自
分の過ちを認めたくないのです。間違いを犯した場合、偉い人ほど、それを認め
て謝るということが難しいのです。警察や裁判官も、自分のめんつにこだわって、
罪のない人を犯人に仕立て上げたという悲劇がよく起こります。
 サンヘドリンの議員たちは、ペテロとヨハネを脅そうと相談します。
 
  ただ、これ以上このことが民衆の間にひろまらないように、今後はこの名に
  よって、いっさいだれにも語ってはいけないと、おどしてやろうではないか。
                                             (一七節)
脅しという手も、昔から権力者のよく使う手であります。自分たちに都合が悪け
れば、権力の力によって脅すのです。そして、教会はしばしばこの権力者の脅し
に屈してきました。日本の教会も、戦争中にこの脅しに屈して戦争に協力したと
いう苦い経験をしました。
 しかし、ペテロとヨハネは、この脅しに屈しませんでした。彼らは言います。
 
  神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、
  判断してもらいたい。                   (一九節)
 
聖書に一貫している主張は、「神に聞き従う」ということです。最初の人間アダ
ムとエバは、へびの誘惑に負けて、「エデンの園の中央の木の実を取って食べる
な」という神の言葉に聞き従わなかったのです。ここに、罪があります。自分の
欲求のため、あるいはここの場合のように強い者の脅しによって、私達はしばし
ば神の言葉に聞き従いません。私達は、そのようにこの世の誘惑に負け、強い力
に抵抗出来ない弱い存在です。しかし、私達自身が弱くても、聖霊は私達を強く
して下さいます。
 ペテロとヨハネが脅された後に釈放されて、仲間の所に帰り、出来事を報告し
た時、皆は権力者の力を非常に恐れました。あるいは、これ以上イエス・キリス
トのことを語ったら、イエスと同じように自分たちも十字架にかけられるかも知
れない、と思った人もいたでしょう。しかし、彼らはそこでひるんでしまうので
なく、聖霊によって強められることを熱心に祈りました。
 
  主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を
  語らせて下さい。                     (二九節)
 
ただここで、彼らは、いきなり自分たちの願いを訴えたのでなく、最初に創造者
なる神への信仰を言い表しています(二四節)。私達は、天地万物の創造者を恐
れるべきであって、その神によって造られた人間を恐れるべきではありません。
マタイによる福音書一〇章二八節には、「からだを殺しても、魂を殺すことので
きない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐
れなさい」とあります。
 このようにして、「心を一つにして」(二四節、新共同訳)祈った祈りは聞か
れました。
 
  彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満た
  されて、大胆に神の言を語り出した。                         (三一節)
 
教会の使命は、「大胆に神の言を語る」ということであります。この世の権力に
よって、これに弾圧が加えられることがあります。戦時中の日本の教会はそうで
した。そして、天皇の代替りを迎えようとしている今、再びそのような方向に向
かわないとは限りません。その時私達は、「神に聞き従うか」どうかが問われる
かも知れません。