使徒行伝9章1ー31節
「パウロの回心」
最初に言いましたように、使徒行伝は、福音がエルサレムから始まって、異邦 人世界に伝えられ、ついにはその中心地ローマにまで伝えられたことを述べてい ます。そして、これは全世界に福音が伝えられることを暗示しています。そして ルカは、この世界伝道に最も大きな働きをしたのがパウロだと主張するのです。 そこで、使徒行伝の後半では、専らパウロの活動について語るのです。そしてル カは、パウロがキリスト教の迫害者からキリスト教の伝道者に転向したことを、 非常に重要なこととして読者に訴えています。そのために回心の記事を三回も記 しています(九・一ー三一、二二・三ー一六、二六・一二ー一八)。ルカは、使 徒行伝をローマの一人の高官(テオピロ)に書いているのですが、それはキリス ト教のことをローマ帝国に正しく理解してもらおうという意図があります。しか し、当時の現実は、キリスト教は全く理解されず、むしろ迫害されていました。 しかしルカは、キリスト教の迫害者パウロの回心を強調することによって、今 は全く理解しないローマもやがてはキリスト教を受け入れるようになる、という ことを暗示しているのかも知れません。 さて、ルカは、パウロの回心について非常に詳しく叙述していますが、パウロ 自身は自分の回心体験について余り語っていません。なぜでしょうか。それは、 彼がキリストを伝えることに集中していたので、自分の体験を語るということ には余り関心がなかったからです。それでも回心の体験を暗示する記事はいくつ かあります(例えば、コリント人への第一の手紙一五・三ー一〇、ガラテヤ人へ の手紙一・一五ー一六、ピリピ人への手紙三・五ー八)。そこで言われているの は、パウロがキリストと出会って、今までの考え方、生き方が全く変えられた、 ということです。 パウロ自身が回心の体験を記していないからと言って、この使徒行伝九章の記 事が全くフィクションである、というのではないと思います。ルカは、ある時 期、パウロと行動を共にしたことがあります。使徒行伝一六章、二〇章、二七章 には、パウロの行動を記すのに「わたしたち」と言われている所があります。こ れは、ルカがパウロと行動を共にした時の記録だと思われます。そして、パウロ 自身もルカのことを「わたしの同労者」と言っています(ピレモンへの手紙二四 節)。そこで、ルカはパウロから直接、回心の体験のこ五とを聞いたと思われま す。ですから、多少の脚色はあるにしても、全くのフィクションというのではあ りません。 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませなが ら、大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それ は、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっ ぱって来るためであった。 (九・一ー二) 「サウロ」というのは、パウロのユダヤ名です。パウロというのは、ローマ名で す。パウロは、ヘレニズム文化の栄えたキリキアのタルソという都市で生まれ育 ったディアスポラ(離散)のユダヤ人でした。そして彼は、ローマの市民権を持 っていました(一六・三七)。そこで彼は、自分を専らローマ名で呼んでいまし た。しかし一方、彼はイスラエルの民としての誇りを持ち(ピリピ人への手紙三 ・五)、パリサイ派の厳格な教育を受けました。そして律法には落ち度のない 者でした(ピリピ人への手紙三・六)。その頃、イエスという男を信奉し、律法 を軽視する集団が広まっていたのですから、律法に熱心なパウロにとっては、許 しておけなかったのでしょう。「殺害の息をはずませながら」とあります。これ は、異様なほどの熱心さを表しています。パウロは、キリスト教徒迫害を、上の 人から命じられてしたのではなく、自らの熱心から、自らの信念から、進んでな したのでした。ここには、喜び勇んでキリスト者を迫害しているパウロの姿があ ります。 人はしばしば、自分の信仰に熱心な余り、他の人の信仰を断罪してきました。宗 教の異なるための醜い争いは、現在でも行われています。 ここでパウロは、ダマスコに行こうとしていました。ダマスコは、シリアの主 要都市であり、既にキリスト教が伝えられ、多くのキリスト者がいたようです。 二節の「添書」というのは、逮捕状に相当します。彼は大祭司からもらった逮 捕状を携えて、ダマスコへの道を急いでいたのです。 ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさ して、彼をめぐり照らした。彼は地に倒れたが、 その時「サウロ、サウロ、 なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。 (三ー四節) このダマスコの近くに来た時に、彼の人生を一変させるような出来事に遭遇した のです。 「突然、天から光がさして」とあります。これは、復活のキリストがパウロに出 会ったことを意味しています。パウロ自身も「そして最後に、いわば、月足らず に生まれたようなわたしにも、(復活のキリストが)現れたのである」と言って います(コリント人への第一の手紙一五・八)。この出来事は、恐らく使徒行伝 の記事のように、ダマスコの近くで起こったのだと思います。 ここでキリストは、キリスト者に対する迫害を、「なぜわたしを迫害するのか 」と言っています。すなわち、キリスト者の苦しみは、キリストご自身の苦しみ なのです。そこで、私達の苦しみも、また、キリストご自身が共に苦しんで下さ るのです。キリストは、常に、私達の苦しみを負って下さるのです。 そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答えがあった、 「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。さあ立って、町にはいって行 きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。 (五ー六節) ここでパウロは、キリストに「主よ」と呼びかけています。ここに、既にパウロ の大きな変化があります。今までパウロは、イエスのことを「主」どころか、十 字架にかけられた神に呪われた人物だと思っていたのです(ガラテヤ人への手紙 三・一三参照)。そして、そのような忌まわしい人物を信奉しているキリスト者 は、重大な犯罪人だとして、熱心に迫害してきたのでした。その最も忌まわしい 人を、「主よ」と言っているのです。これは、パウロ自身の心変わりというより は、神がパウロを捕らえ、変えさせたのです。パウロの回心と言われていますが、 それは主がそうさせたのです。神は、キリストに敵対していたパウロを用いて、 神の計画をなそうとされたのです。 キリストは、「サウロ、サウロ」と呼び掛けました。この名前を二度呼び掛け るのは、旧約聖書の伝統においては、その人を神の任務に召す場合です、例えば サムエル記上三・一〇)。ここでのパウロの任務は何でしょうか。一五節に言わ れています。「あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わ たしの名を伝える器として、私が選んだ者である」。 キリスト教が、パレスチナの片すみの小さな集団から、世界の宗教にまで至っ たのには、このパウロの働きが不可欠でありました。もし、パウロがいなかった ならば、キリスト教がこのような世界宗教になっていたかは、疑問であります。 使徒行伝を書いたルカは、そのことを深く感じ、このパウロの回心の記事を三度 も記したのでしょう。この出来事が福音の伝、にとって決定的な出来事であった と思われたのでしょう。 さて、復活のキリストに出会ったパウロは、目が見えなくなりました。そこで、 同行の者に手を引かれてダマスコの町に入りますが、三日間何も食べなかった、 とあります(九節)。この断食は、恐らく、悔い改めの行為であったと思われま す。そして、ダマスコの教会の指導者であったアナニヤ、いう人の導きによって バプテスマを受け、目も見えるようになり(一八節)、早速伝道に出掛けます。 サウロは、ダマスコにいる弟子たちと共に数日間を過ごしてから、ただ ちに諸会堂でイエスのことを宣べ伝え、このイエスこそ神の子であると 説きはじめた。 (一九bー二〇節) パウロ自身の記事によりますと、彼は回心後、直ちにアラビアに行って伝道した、 とあります(ガラテヤ人への手紙一・一七)。しかし、さしたる成果もなく、再 びダマスコに帰って来たのでありましょう。伝道には、失敗はつきものです。い くら一生懸命伝道しても、成功するとは限りません。主イエスは、そういう時は、 「足のちりを払い落として」その町から出るように言っています(ルカによる福 音書九・五)。そしてパウロも実際に、ピシデヤのアンテオケでは、そのように した、と言われています(一三・五一)。 さて、パウロの伝道は、最初から苦難続きでした。ダマスコで一生懸命伝道し た時、ユダヤ人に命を狙われました(二三節)。ユダヤ人にとって敵である キリスト教の伝道者となったパウロは、裏切り者だったでしょう。「裏切り者は 殺せ」というのが、昔から偏狭な集団の鉄則だったでしょう。ただここで、ユダ ヤ人がパウロの命を狙った、とありますが、パウロ自身の記事によりますと、ア ラビアのナバテア王国のアレタ王の代官であった、と言われています(コリント 人への第二の手紙一一・三二)。これはあるいは、パウロが最初にアラビア 伝道したことと関係があるかも知れません。恐らく、ユダヤ人は、ここで自ら手 を下さずに、パウロに対して余りいい感情を持っていなかったアラビア人を使っ て、彼を殺そうとしたのかも知れません。 しかし、パウロは、弟子によって、夜の間にかごに乗せられて、町の城壁から つり降ろしてもらって、危機を脱しました(二五節)。これは、千二百年前にヨ シュアの部下がエリコの町でラハブという遊女に助けられたやり方とよく似 て。ます(ヨシュア記二・一五)。 その後パウロは、エルサレムに行きました エルサレムの教会では、パウロがキリスト者を迫害した人物であるので、彼を恐 れました(二六節)。しかし、バルナバという人が、彼のことを弁護したので、 使徒たちの仲間に加わることが出来ました。ガラテヤ人への手紙を見ますと、こ のパウロがエルサレムに滞在したのは、一五日間であった、と言われています( 一・一八)。この間に、彼はきっと、使徒たちからイエスについて詳しく聞 いたと思います。パウロは、コリント人への第一の手紙一五章三節で「わたしが 最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであっ た」と言っ、いますが、これは恐らく、この時に聞いたことでしょう。 しかし エル、レムにおいても、彼はユダヤ人から命を狙われました(二九節)。そこで パウロの身を心配した使徒たちが、彼をカイザリヤに連れて行き、さらにパウロ の生まれ故郷のタルソに送りました(三〇節)。カイザリヤには、既にピリ ポによって福音の種が蒔かれていました(八・四〇)。 こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ全地方にわたって平安を 保ち、基礎がかたまり、主をおそれ聖霊にはげま されて歩み、次第に信 徒の数を増して行った。 (三一節) ルカは、パウロの回心の記事の最後にこの「進展報告」(六・七参照)を記すことに よって、初代の教会にパウロが加わったことによって、キリスト教が大きく発展 したことを、読者に訴えているのです。