使徒行伝9章32節ー12章25節

「ペテロの伝道」



 エルサレムの初代教会では、最初、イエスの十二弟子の筆頭であったペテロが、
最も中心的な指導者でした(カトリック教会では、ペテロが初代の教皇とされて
います)。ところが、その後イエスの兄弟のヤコブがエルサレム教会の中心人物
となり、ペテロはエルサレム以外の町々に出て行って、主にユダヤ人に伝道する
ようになります。
 ペテロはまず、ルダという町に行って伝道しました(九・三二)。このルダは、
エルサレムの西北四〇キロの所にある、シャロン平原の町です。この町には、
既にキリスト者がいましたが、恐らくピリポがアゾトからカイザリアに行く途中
で伝道したことによるのでありましょう(本誌八月号、照)。この町でペテロは
中風を患っていたアイネヤという人を癒しました(九・三四)。
 次に彼は、地中海沿岸のヨッパの町に行きますが、この町にも恐らくピリポが
既に伝道していました。ここでペテロは、タビタという婦人を生き返らせまし
た(九・四〇)。
 次に彼は、そこから北上して、カイザリヤに行きます。この町も、既にピリポ
によって福音が伝えられていました。そして、この町でコルネリオという人にバ
プテスマを授けました。
 
  さて、カイザリヤにコルネリオという名の人がいた。イタリヤ隊と呼ば
  れた部隊の百卒長で、信心深く、家族一同と共に神を敬い、民に数々の施し
  をなし、絶えず神に祈りをしていた。         (一〇・一ー二)
 
このカイザリヤは、元々フェニキアの都市でストラトンと呼ばれていました。そ
の後ローマ領になりましたが、皇帝アウグストゥスは、ヘロデ大王にこの町を与
えました。ヘロデはその皇帝を記念してこの町の名を「カイザリヤ(カイサルの
町の意)」と改め、十二年間に及ぶ大工事をして、見事な港町にしました。ヘロ
デ大王の死後、この町はローマ総督の管轄となり、その軍隊が駐在しました。
 さて、コルネリオは、ローマ総督の軍隊の一つの部隊の長でありましたから、
相当地位の高い人でした。彼は「神を敬う」人であった、と記されています。こ
れは、ユダヤ教に改宗していた訳ではありませんが、異邦人でありながら、聖書
の神を信じていた、ということです。この時代、聖書はギリシア語に訳されてい
ましたので、ユダヤ人以外の人も多く聖書を読んでいました。そして、聖書の中
に真理を見いだす人も多くありました。以前に学んだエチオピアの宦官もそう
でした。しかし、せっかく聖書の中に真の神を見いだしても、異邦人がユダヤ教
に改宗するのは、容易なことではありませんでした。それはただ神を信じるとい
うことだけではだめだったのです。神の民のしるしとしての割礼を受け、律法の
いろいろな細かな規定を守らなければならなかったのです。また、ユダヤ人は、
自分達は神に特別に選ばれた民であり、異邦人は汚れた民だと思っていました
が、この選民思想も異邦人がユダヤ教に入る際の障害となっていました。
 しかし、神は「絶えず神に祈りをしていた」コルネリオの祈りを聞かれました。
そして、彼のためにペテロを遣わそうとするのです。しかし、ペテロもユダヤ人
でありましたので、異邦人に対する偏見はもっていました。そこで神は、まず、
ペテロの異邦人に対する偏見を打ち壊すことを先にされたのです。彼は幻によ
ってそのことを示されます。
 
  すると、天が開け、大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、
  地上に降りて来るのを見た。その中には、地上の  四つ足や這うもの、ま
  た空の鳥など、各種の生きものがはいっていた。そして声が彼に聞こえてき
  た、「ペテロよ。立って、それらをほふって食べなさい」。ペテロは言った
  、「主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないもの、汚れたも
  のは、何一つ食べたことがありません」。すると、声が二度目にかかってき
  た、「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」。
                                   (一〇・一一ー一五)
ユダヤ人の律法には、清い動物と汚れた動物があります。そして、彼らは汚れた
動物は食べません。その動物のリストは、レビ記一一章に記されていますが、豚
などは汚れた動物の代表でしょう。
ペテロは、ユダヤ人として、そのような汚れた動物は、未だかつて食べたことは
ありませんでした。
 「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」という言葉は、人
間のあらゆる偏見を否定するものです。人間は生まれ育った環境において、知ら
ず知らずに偏見というものをもってしまいます。ペテロもユダ、教の環境で育ち
異邦人は汚れた存在だ、という偏見をもっていたでしょう。イエスと生活を
共にし、イエスの教えによって、そういう偏見は少なくなっていたでしょうが、
しかし小さい時からの観念というのはそうたやすくなくならず、心の片すみに、
やはりそういう偏見があったと思います。しかし、彼はこの幻によって、その偏
見を打ち壊されました。
 そして、彼は、カイザリヤに行って、コルネリオに会った時、次のように言い
ます。
 
  ペテロは彼らに言った、「あなたがたが知っているとおり、ユダヤ人が他国
  の人と交際したり、出入りしたりすることは、禁じられています。ところが、
  神は、どんな人間をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、
  わたしにお示しになりました。              (一〇・二八)
 
ペテロは、当時のユダヤ教の一般的な考えに影響されて、異邦人は汚れた者だ、
と思っていたのですが、それは神の本当の意志ではなかったのです。彼は、次の
ように告白しています。
 
  神は人をかたよりみないかたで、神を敬い義を行う者はどの国民でも受
  けいれて下さることが、ほんとうによくわかってきました。   
                        (一〇・三四ー三五)
この「神は人をかたよりみない」というのは、既に旧約聖書に示されており(申
命記一〇・一七)、神の本質です。しかし、人間はすぐ他の人を偏見で見たり、
差別をしたりする弱い存在です。ペテロも、ここでは幻によって異邦人に対する
偏見を捨てましたが、ガラテヤ人への手紙を見ますと、アンテオケの教会で、異
邦人と食事を共にすること(交わり)を避けたとして、パウロに非難されていま
す(二・一二)。私達もややもすると、すぐ人を偏見で見たり、差別をしたりし
がちですが、聖書の神は「人をかたよりみない」ことを常に覚えなければならな
い、と思います。
 さて、このようにして、ペテロは、異邦人のコルネリオをはじめ、その家
族、その部下にバプテスマを授けました(一〇・四八)。
 さて、その後ペテロは、当時ユダヤを治めていたヘロデ・アグリッパによって
捕らえられ、獄に入れられました(一二・一ー四)。このアグリッパは、イエス
の誕生の時のヘロデ大王の孫で、ローマ皇帝カリグラに気に入られ、王という称
号を与えられ、ユダヤ以外にも多くの領地を与えられていました。一方彼は
ユダヤ人にも気に入られようとして、ユダヤ教の祭を尊重したり、律法を大事に
したり、神殿を改修したりしました。しかし、これは彼が心からユダヤ教の神に
対して敬虔な気持ちをもっていた、というのでなく、敬虔を装う政治的なポーズ
でありました。そして、彼は初代教会にも迫害を加えますが、これもキリスト者
にいい感情を持っていなかったユダヤ人の人気を得ようとしてのことでした。
 
  そのころ、ヘロデ王は教会のある者たちに圧迫の手をのばし、ヨハネの
  兄弟ヤコブをつるぎで切り殺した。そして、それ  がユダヤ人たちの意に
  かなったのを見て、さらにペテロをも捕らえにかかった。(一二・一ー三)
 
このゼベダイの子ヤコブは、イエスの十二弟子の一人であり、初代教会でも中心
的な人物でした。彼は、気性の激しい人であったようであり、イエスからボアネ
ルゲ(「雷の子」)というあだ名をつけられていました。そういう所から、彼が
真っ先に狙われたのかも知れません。
 さて、アグリッパは、このヤコブを殺した後、今度は使徒の中で最も重要人物
であるペテロを捕らえました。そして厳重な監視をつけ、過越の祭の後に、民衆
の前で処刑しようとしていました。これも、彼の政治家としての人気を得ようと
する計算であったでしょう。 一方、教会では、ペテロが捕らえられたこと
を聞いて、皆で熱心に祈りました。
 
  こうして、ペテロは獄に入れられていた。教会では、彼のために熱心な
  祈りが神にささげられた。                (一二・五)
 
初代の教会は、全く無力な集団でありました。ペテロが捕らえられたと聞いても、
自分たちは何もすることが出来なかったのです。
そこで、ただ、一つ所に集まって熱心に祈るしかなかったのです。しかし、この
祈りは、何もすることが出来ないので、仕方なしに祈っていたというのでは
ありません。この祈りこそ、人間の頭では考えられない大きな力なのです。
 何もすることが出来ない時、私達は祈ることが出来ます。そして、この祈りから、
予想もしなかった新たな道が与えられます。
祈りは、単なる独白ではありません。それは、生ける神への訴えです。そして、
それを聞かれる神は生ける神である故に、必ずや聞き給うのです。しかし、その
時に重要なのは、神への全き信頼です。祈っても無駄であろう、と思いつつ
祈っても神は聞き給いません。しかし、この神への絶対的信頼というのも、人間
には中々難しいのです。人間は、自分の頭で考えられないことは、中々信じない
のです。 ペテロが逮捕されたことを聞き、熱心に祈った人々も、実際にペテロ
が助かるとは思っていなかったのです。
 
  彼が門の戸をたたいたところ、ロダという女中が取次ぎに出てきたが、ペテ
  ロの声だとわかると、喜びのあまり、門をあけもしないで家に駆け込み、ペ
  テロが門口に立っていると報告した。人々は「あなたは気が狂っている」と
  言ったが、彼女は自分の言うことには間違いはないと、言い張った。そこで
  彼らは「それでは、ペテロの御使だろう」と言った。(一二・一三ー一五)
 
獄に捕らえられていたペテロは、御使の不思議な導きによって救われ、人々の集まっ
ている家に戻って来ました。
しかし、ペテロが助かるように熱心に祈っていた人々は、実際にペテロが助かっ
たという知らせを聞いた時信じなかった、というのです。彼らは、神に熱心に祈
りはしましたが、神への絶対的な信頼には欠けていたということになります。し
かし、私達も神への絶対的な信頼を持つことは中々難しいことです。すべてを神
に委ねて十字架への。を歩まれたイエスの従順を、改めて思わしめられます
 さて、獄から助け出されたペテロは、エルサレム教会の任務をイエスの兄弟ヤ
コブに委ねて、どこかほかの所へ出て行きました(一二・一七)。どこへ行った
のか、使徒行伝にはこの後ペテロのことが出てきませんので、分かりませんが、
ペテロの第一の手紙から推測して、彼はその後、小アジアへ行き、カパドキア、
ガラテア、ポント、ビテニア、アジアの地方を巡回して、主にユダヤ人に伝道し
たと思われます。そして、後の伝承によりますと、最後はローマで伝道し、
ネロ帝の迫害によって殉教した、ということであります。