使徒行伝15章36節―18章22節
「パウロの第2伝道旅行」
パウロは、生涯に3度大きな伝道旅行をしていますが、今回はその2回目をお 話ししましょう。第1回目はアンテオケの教会から正式に派遣されましたが(1 3・1〜3)、第2回目はパウロはアンテオケ教会から独立して伝道活動を行い ました。 幾日かの後、パウロはバルナバに言った、「さあ、前に主の言葉を伝え たすべての町々にいる兄弟たちを、また訪問して、みんながどうしている かを見てこようではないか」。 (15・36) 今回もパウロは、最初バルナバと一緒に行こうとしました。しかし、2人に意 見の対立があって、ついに別々に行くことになりました。一致して伝道が出来 ないという問題は、初期の教会からそうでした。これは人間の弱さによりま す。しかし、神は人間の弱さを用いてもみ業をなし給います。即ち、その結果パ ウロとバルナバが別々の所で伝道し、そのことによってかえって福音がより多 くの地方に伝えられるという結果になりました。バルナバはマルコを連れて、自 分の故郷のクプロ(キプロス島)に渡って伝道しました。 一方パウロは、シラスと共にシリア、キリキアの地方を通って、第一伝道旅行 で建てた4つの教会、即ちデルベ、ルステラ、イコニオム、アンテオケの教会を 訪問しました。ルステラからはテモテという人が同行しました。このテモテは、 パウロの手紙にもしばしば出てきますが(Iコリント4・17、ピリピ1・1 など)、パウロに劣らない熱心な伝道者でありました。テモテを協力者に得たこ とによって、パウロの伝道はより強力になしました。そこで5節においてルカは、 「こうして、諸教会はその信仰を強められ、日ごとに数を増していった」という 進展報告を記します(6・7参照)。 さて、パウロは、第一伝道旅行で建てたルカオニア地方の4つの教会を訪問し た後、自分の考えていたコースをたどれなかったようです。「アジヤで御言を 語ることを聖霊に禁じられた」(6節)とか、「イエスの御霊がこれを許さなかっ た」(7節)と言われています。具体的にどういう事態になったのかは分かりま せんが、急に何かの差し障りが起こったようです。そして、結局は最初予定して いなかった小アジアの西の端のトロアスに行くことになったのです。 伝道は、しばしば伝道者の計画通りに行かないことがあります。しかしそれ だから失敗というのでなく、神は私達の伝道の幻を決して無駄にはせず、別のや り方でそれを成就し給うのです。パウロが結局トロアスに行ったというのは、神 の計画だったのです。それは、ヨーロッパに福音が伝えられるためだったのです。 そのことを神は夜の幻でパウロに示しました。 ここで夜、パウロは一つの幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が立って、「 マケドニヤに渡ってきて、わたしたちを助けて下さい」と、彼に懇願する のであった。 (16・9) トロアスからエーゲ海を越えて向かいがマケドニアですが、これは大局的に見 ますと、アジアからヨーロッパへということになります。即ち、パウロがここ で示された幻は、アジアで起こったキリスト教がヨーロッパ世界に伝えられる ということを意味しています。その7後の世界史においては、キリスト教はむ しろヨーロッパで栄えたことを思うと、このパウロのマケドニアに渡ったのは 大きな出来事であった、ということが言えます。 パウロがこの幻を見た時、これは彼らに福音を伝えるために、神がわた したちをお招きになったのだと確信して、わたしたちは、ただちにマケ ドニヤに渡って行くことにした。 (16・10) パウロは、自分の考えていたコースを変更せざるを得なかったのが神のみ旨だ と信じ、直ちにマケドニヤに渡ることにしました。ここで、「わたしたち」と 言われています。使徒行伝において、「わたしたち」という形で報告されてい る記事が何箇所かあります(16・10ー17、20・5ー15、21・1ー 8、27・1ー28)。これは、使徒行伝の著者ルカがパウロと行動を共にし た時の記録だと思われます(「われら資料」と言われています)。パウロがト ロアスからマケドニヤに渡った旅にルカも同行したのでしょう。 さて、パウロたちは、トロアスから船でマケドニヤに渡りネアポリスに上陸し、 ローマまで通じているエグナティア街道に沿って、ピリピ、アムピポリス、アポ ロニヤ、テサロニケの町々を通りました。そして、ピリピとテサロニケには、教 会が建てられました。 ピリピの町は、ローマの植民都市であり、ローマ人が大勢住んでいました。こ の町では、ルデヤという裕福な婦人がパウロの語る福音を直ちに受け入れて、 バプテスマを受けました(16・15)。それだけでなく、彼女の家が開放され て、そこで、礼拝が行われました。このようにピリピの教会は、一人の献身的な 信者の協力によって建てられました。教会は、伝道者の熱心だけでは建つことは 出来ません。そこに神のみ言葉に熱心に聴き従う信者の協力が必要です。 さて、パウロは、ピリピの町においても、とあることから獄につながれ、 労苦をしますが、神の不思議な導きによって、かえって獄吏に福音が伝えられる 結果になりました(16・25〜34)。 テサロニケにおいても、多くの人がパウロの福音を受け入れ教会が出来ました。 しかし、パウロたちを泊めたヤソンの家が暴徒に襲われるという事件が起き、彼 らはベレヤに逃れました。しかし、そこでも群衆の暴動にあったので、船でアテ ネに渡りました。ここで、アテネでのエピソードを見てみましょう。 さて、パウロはアテネで彼らを待っている間に、市内に偶像がおびただ しくあるのを見て、心に憤りを感じた。 (17・16) アテネは、ギリシア文化の栄えた町で、ギリシア神話の神々の像がたくさんあ ました。ギリシア神話にはたくさんの神々が出てきます。その主神はゼウスで すが、その他にも、その子アポロ、海の神ポセイドン、火の神プロメテウス、 酒の神ディオニュソス、陰府の国への案内者ヘルメス、美の神アフロディテ、 アテネの守護神アテナ、その他数え切れないほどの神々がいました。そして、 アテネの町には、そのような神々の像が至る所にあったのです。それらを見て パウロは憤りを感じた、というのです。パウロは、小さい時から、厳格なユダ ヤ教の教育を受けて育ちました。その教育の中心は律法ですが、律法の中心は 十戒です。その十戒の第1の戒めは、「あなたはわたしのほかに、なにものを も神としてはならない」というものですし、第2の戒めは「あなたは自分のた めに、刻んだ像を造ってはならない」というものです。しかし、今アテネの町 の状態は、この信仰とは全く対立するものでした。 そこでパウロは、アテネの町のいろいろな人と論争をしました。ところが、ア テネの人々は、むきになって論争をしかけるこの風変わりな人物に興味をもっ たのです。21節には「いったい、アテネ人もそこに滞在している外国人もみな、 何か耳新しいことを話したり聞いたりすることのみに、時を過ごしていたのであ る」とあります。好奇心の強いアテネの人々はパウロから何か変わったことを聞 くことが出来ると思い、彼をアレオパゴスの評議所に連れて行きました。アレオ パゴスというのは、「軍神アレースの丘」という意味で、古来裁判の行われてい た場所でした。パウロは、この機会を捉えて、キリストの福音を伝えようと しました。 アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教 心に富んでおられると、わたしは見ている。 (17・22) パウロはまず最初、アテネの人たちの宗教心を誉めました。これはしかし、実 際には誉めたのではなく、皮肉でした。ギリシアの人々にとっては、たくさん の神々があることが、宗教心に富んでいることだと思われていました。そして それらの神々を出来るだけ多く祭るのが、宗教心だと思われていました。 日本でもそのような傾向があります。至る所にいろいろな神々があります。そ して、そのような神々を出来るだけたくさん拝んだり、それらのお札を出来るだ け多く集めることが信心深いことだと思われています。そのようにして、多くの 所から集めたお札が家の中にはたくさんあります。 しかしパウロはアテネの人々のそういう宗教心を、実は皮肉っているのです。 それらはすべて人間の手で造られた偶像であります。そうではなく私達は、すべ てのものの創造者である神を知らなければならないのです。 実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、 よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気が ついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせて あげよう。 (17・23) パウロは、いきなり聖書の神を持ち出さずに、アテネの町にあった『知られな い神』のために造られた祭壇を持ち出します。この『知られない神』というの は、具体的な神を祭っていたのではなく、その名が知られていないけれども、 人間に何かの影響を及ぼしている、と考えられていた神です。なぜこんな祭壇 があったのかというと、それは人間の恐れと関連しています。何か人間に不幸 や災難があった場合、それは名前が知られていない神の祟りだと思われました 。そこで、それを恐れて人々は、『知られない神』を祭ったのです。従って、 それは本来聖書の神とは全然関係がありません。 しかし、パウロは、この『知られない神』というものをきっかけにして、聖書 の創造者なる神について教えました。この天地を造られた神は、「すべての 人々に命と息」を与え、世界を支配し、歴史を支配してきた、と言います(25 〜26節)。そして、この真の神を知らずに、偶像に頼るのは、「無知の時代」 (30節)だ、と言います。そして、最後にパウロは、この神がイエスを「死人 の中からよみがえらせた」のだ、と言いました(31節)。しかし、復活の話を するとアテネの人々はあざ笑った、とあります。 死人のよみがえりのことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、またある者 たちは、「この事については、いずれまた聞くことにする」と言った。こ うして、パウロ は彼らの中から出て行った。 (17・32〜33) パウロは、アテネでは、結局伝道に失敗しました。 その後パウロは、アカイア州の首都であったコリントに行って伝道しました。 このコリントの町は、当時地中海における最も重要な港町であり、繁栄した 町でした。しかし、犯罪と不道徳の蔓延する町でもありました。しかし、神の「 この町には、わたしの民が大ぜいいる」と言う言葉(18・10)に従って、パ ウロはこの町で1年6か月の長きに亙って滞在し、神の言葉を宣べ伝えました。 その後、船でエペソに渡り、カイザリヤに行き、エルサレムに上った後に、ア ンテオケに帰り、第二伝道旅行は終わりました。