1、カナン定着以前の時代



 M・ノートの『イスラエル史』では、まず「イスラエル」とは何か、ということか
ら論述されいる。そしてそれは、十二部族というひとつのグループに対する全体の名
称であった、と言う(22ページ)。そして彼は、この十二部族連合は、カナン定着
後においてはじめて存在するようになったものであるから、それ以前の歴史は真の意
味でのイスラエル史ではあり得ない、と言う。
 しかし、それ以前の時代も前史として存在しており、しかもイスラエルの歴史にと
っても重要な意味を持っているので、簡単に触れておかなければならないであろう。
この前史については、五書の中にその伝承が保存されている。ただし、五書の記事は、
どこまで歴史的事実と理解することが出来るかは、難しい問題である。しかし伝承史
的研究の成果によってある程度のことは捉えることができる。
 G・フォン・ラートは、申命記26章5ー9節が収穫の祭の時に唱えられていたイ
スラエルの非常に古い信仰告白だ、と言う(『六書の様式史的研究』)。

  わたしの先祖は、さすらいの一アラムびとでありましたが、わずかの人を連
  れてエジプトへ下って行って、その所に寄留し、ついにそこで大きく、強い
  、人数の多い国民になりました。ところがエジプトびとはわれわれをしえた
  げ、また悩まして、つらい労役を負わせましたが、われわれが先祖たちの神
  、主に叫んだので、主はわれわれの声を聞き、われわれの悩みと、骨折りと
  、しえたげとを顧み、主は強い手と、伸べた腕と、大いなる恐るべき事と、
  しるしと、不思議とをもって、われわれをエジプトから導き出し、われわれ
  をこの所へ連れてきて、乳と蜜の流れるこの地をわれわれに賜りました。主
  よ、ごらんください。あなたがわたしに賜った地の実の初物をいま携えてき
  ました。

ここには、重要なこととして三つの出来事が言われている。すなわち「イスラエルの
先祖のこと(族長と言う)」「エジプト脱出」「カナンの土地取得」である。他の古
い資料においてもこれらの出来事について告白されている(例えば、ヨシュア記2
4・2ー13、詩篇105篇)。
 また、M・ノートは、王国成立前に五書の基礎資料(Gと言う)となったものが成
立していた、と言う(『モーセ五書伝承史』)。そしてそれには、次の五つの主要主
題があった、と言う。すなわち、「エジプト脱出」「カナンの土地取得」「族長への
約束」「荒野の導き」「シナイでの啓示」である。これらの主題は、実際の出来事が
基礎になって形成されたのであろうが、客観性をもったものではない。一部の部族(
氏族)が体験した出来事が、伝承過程を経るうちに、共同体全体の体験として拡張さ
れて行ったようである。エジプト脱出やシナイでの出来事は、十二部族の全体(イス
ラエル)が体験したのではなく、少数の部族のみが体験したものであった。しかし、
エジプト脱出やシナイの出来事は、ヤハウェ信仰にとって根本的なものを意味したので
あり、それゆえそれは後にイスラエルのすべての部族による信仰告白の内容とされる
に至ったのである。

 @族長「さまよえるアラム人」
 申命記26章の告白において、イスラエルの先祖は「さすらいの一アラムびと
」であった、と言われている。これは、イスラエルの先祖たちの置かれていた社会状
況と、彼らがアラム語族に属するものであったという記憶である。そして創世記の「
族長物語」は、そのことを反映している。アラム人の集団は、二つの移動群の波をな
して沃地に侵入した。第一波は紀元前19・18世紀頃、アラビア半島から北に向か
って流れだし、メソポタミアと沃地の周辺をなすシリアに定着し、そこでたちまち新
しい支配層を形成した。聖書で「カナン人」とか「アモリ人」と言われているのは、
このような移動集団であった。第二波は紀元前14・13世紀に活動し、これに乗っ
てエドム人、モアブ人、アンモン人、そしてイスラエル人などがパレスチナの沃地に
侵入した。創世記においてアブラハムがユーフラテス河の下流の古代都市国家ウルを
出て、上流のハランに移り、さらにカナンに移動した記事は、このアラム人の移動と
関係があるであろう。イスラエルの先祖たちは、社会学的に見れば、牧草を追って移
動する半遊牧民に属するものであった。彼らの生活状況は、沃地の周辺部をさすらい
ながら放牧し、小家畜の群れを飼育して生活していた。しかし彼らは乾期になると家
畜の食物を求めて沃地に入ったのである。そのような牧場交換によって、彼らは次第
にカナンの地に定住していったものと思われる。

 A出エジプト
 イスラエルの民がかつてエジプトで奴隷であったこと、そしてモーセによって
導かれて助け出されたことは、旧約聖書の多くの箇所で証言されており、この出来事
は歴史的事実に基づいていたことは確かであろう。ただし五書の記述の通りのことが
起こったかどうかは疑問である。まず、この出来事を体験したのは、後のイスラエル
を構成した全部族ではなく、その一部(多分ヨセフ族)であろう。創世記のヨセフ物
語(37ー48章)において、ヤコブの一家がエジプトに移住したという記事がある
が(アブラハムも一時、12章)、牧草を追って生活していた半遊牧民にはこのよう
なことがよくあったようである。カナン(パレスチナ)の自然条件はそれほど良くな
く、雨期に雨が降らなければ、たちまち旱魃になり、動物の生命が危機にさらされた。
一方、エジプトはナイル川が枯渇することはなく、食糧には恵まれていたからである。
ヨセフ物語にあるエジプト移住は、エジプトがヒクソスの支配にあった紀元前18ー
16世紀の頃と思われる。このヒクソス(「外国の地の支配者」の意)は、エジプト
人でないセム系の一群の民族であったようであり、ヨセフの一家が厚遇を受けたとい
うことが事実であったとすれば、民族的な親近感からかも知れない。しかし、16世
紀には、エジプト人のアモシスがヒクソスを追い出して、第18王朝を創始した。そ
れに伴って、ヨセフ族への扱いも厳しいものになっていった、と思われる。出エジプ
ト記1章8節には、「ヨセフのことを知らない新しい王」とあるが、これはラメセス
二世(1290ー1224年)と思われる。この王の時代に、ヨセフの子孫は、奴隷
としてしえたげられた。この王は、国境線の防備のために、ピトムとラメセスの町を
建造し(出エジプト記1・11)、そのために多くの外国人を強制労働につかせた。
出エジプト記1章においてイスラエルの先祖が「ヘブル人」と言われている。これは
民族を指すものではなくて、当時のオリエントの他の資料からも「アピル」とか「ハ
ビル」と呼ばれていたものと同じもので、一種の社会層を表すものであった。これは、
自分の土地や市民権を持たず、外国に寄留し、そこの権力者によって強制労働などに
つかされていた階層である。イスラエルの先祖は、エジプトにおいて、このような階
層に属していたのである。彼らは、王の苛酷な扱いに耐えかねてエジプトから逃亡し
たのではないか、と思われる(出エジプト記に記されている通りのモーセのパロとの
交渉については疑問である)。出エジプト記14章5節の「民の逃げ去った」という
ことがこれを暗示している。その逃亡の最中にエジプト軍が追いかけて来たが、何か
の自然現象によって、ヘブル人は助かったのであろう。この「海の奇跡」については、
伝承が非常に複雑で、もはや元の形を再現することは不可能である。出エジプト記1
4章21ー31節がその記事であるが、ここには古い伝承と新しい伝承が複雑にから
みあっている。最古の伝承と思われる資料(J資料)から想像するに、元来の出来事
は、強い東風が吹いてきて、海が浅瀬になり、軽装のヘブル人はそこを渡ることが出
来たが、重装備のエジプト軍はもたもたしている間に(「その戦車の輪をきしらせて、
進むのに重くされた」とある、25節)再び水が増え、エジプト軍は追撃を断念した、
ということではなかろうか。しかし彼らは、これを神の大いなる救いのみ手と信じ、
この出来事を語り伝えて行くうちに色々な要素が付け加えられて行ったのであろう。
 さて、このエジプト脱出の人々が、その後シナイに行って、神ヤハウェと契約を結ぶ
という記事になるが、本来は、この出エジプトとシナイ契約は別々の出来事であり、
恐らくそれを担った人々も異なっていたであろう。

 Bシナイの出来事
 シナイ伝承は、出エジプト記18章から民数記10章にわたって記されている
。しかしこの伝承の大部分は、五書の資料のうち最も新しい層に属するものである。
そして、この伝承の古い層は、シナイ山においてヤハウェなる神がイスラエルの民に顕
現し、そこでヤハウェとイスラエルの間に契約が結ばれた、ということである。しかし、
それを歴史的にどう捉えるかは、非常に不明確である。そもそもシナイ山がどこかと
いうことについてもいろいろな説があり、確定してはいない(ジェベル・ムーサ「
モーセの山」が有力ではあるが)。
 この伝承は、歴史的な事実を背景にしていたことは確かであろう。そしてそれは、
古くからシナイ半島のどこかの聖なる山への巡礼という習慣に基づいていたのであろ
う。ただ、この習慣を後のイスラエルを構成する部族のだれが行っていたのか、とい
うことは不明である。そこでのヤハウェという神との出会いが、イスラエル全体のもの
として伝承されていったのである。