2、土地取得
申命記25章5ー9節のイスラエルの最古の信仰告白において、「乳と蜜の流れる この地をわれわれに賜りました」という一項がある。これは、イスラエルがカナン( パレスチナ)の地に侵入した出来事であり(恐らく紀元前13世紀)、ヨシュア記に より詳細に叙述されている。しかし、その記事の通りのことが歴史的に行われたかは 疑問である。 ヨシュア記の記事によると、イスラエル人による土地取得は、一つのまとまった形 で行われたように描かれている。すなわち、ヨシュアに率いられたイスラエルの一二 部族は、まず最初にヨルダン川の東を占領し、ギルガルでヨルダン川を渡り、そこか ら一気に進軍して、まず中部パレスチナのエリコ、アイ、ベテルを征服し、わらにパ レスチナの南部と北部をも取得した。そして最後に、全地がくじによってイスラエル の一二部族に分配された。 この土地取得が歴史的に実際にどのようにして行われたかについては、現在激しく 論争されている。大体以下の三つの説がある。 @「統一的軍事征服説」 これは、アメリカのW・F・オールブライト及びその弟子たちの主張する説で 、ヨシュア記に記されている出来事を大体歴史的事実であったとする。そしてそれを 考古学によって実証しようとする。オールブライトは、イスラエルのカナンの地への 侵入を、計画的軍事行動であり、比較的短期間に行われた統一的な企てであったと主 張する。そして、パレスチナのいくつかの町の廃墟の跡が、イスラエルによって破壊 された跡だと主張する。 しかしこれについては、同じオールブライト学派の間でもいろいろな意見があり、 そのような廃墟の跡が果たしてイスラエルによるものかどうかは不明である、と言う 学者もいる。この時代(紀元前13世紀)には、イスラエル以外にもパレスチナへの 侵入者がおり、例えば地中海からやってきた「海の民」(その一部はペリシテ人であ るが)は、イスラエルよりもっと強力であったし、またカナンの都市国家同志の戦い もあった。イスラエルの民は、半遊牧民であり、都市国家を破壊するほど強力な武力 は備えていなかったであろう。 A「平和的浸透説」 これは、ドイツのA・アルトとM・ノートの提唱した説である。アルトはパレ スチナの地を綿密に調査して、後期青銅器時代のカナンの都市国家群が、平地に集ま っていたが、中央高地は、シケム、ベテル、エルサレムなどの都市が散在したものの、 多くの森林に覆われ、小家畜飼育者の平和的浸透を可能にする状態であった、と言う。 多くの小家畜飼育者が、今日でも季節に従って牧場交換を行っているが、初期イスラ エル民族も最初のうちは牧場交換の必要から、余り人の住んでいなかったパレスチナ の中央高地に入り、徐々に定着していったのである。そしてかなりの時を経過して、 有力な集団になった時、カナンの都市国家と軍事的衝突を起こしたこともあった、と いうのである。従って、オールブライトの説とは違って、土地取得には、相当の時代 を要した、というのである。 B「社会的変革説」 これは、アメリカのG・E・メンデンホールの提唱した説である。イスラエル の民によるいわゆる「カナンの土地取得」は、外からの軍事的攻撃によるものではな く、カナンの都市国家内部における変革であった、というのである。カナンの都市国 家には、政治的・経済的特権を独占していた貴族と、その下に無権利の状態に置かれ ていた農奴(ハビルとかヘブルとか言われた)とがあり、イスラエルの民によるカナ ン征服は、実はこのような農奴が貴族に対して反抗し、その支配から解放されたこと である、というのである。 この説は、最初のうちはそれほど支持されなかったが、現在では次第に支持者を増 しているようである。 しかしこれは、イスラエルの民はカナン人とは異なるものであり、またイスラエル の民は長い間遊牧生活をしていた、という聖書の伝承を考慮していないように思われ る。 以上の三つの説の中で、筆者にはAの「平和的浸透説」が歴史的に最もありそうだ と思われる。ヨシュア記の記事を文字通り取るならば、「統一的軍事征服説」が有力 なるが、しかし最近の文書批判的、伝承史的、様式史的研究によって、この書の最終 形態は、実は多くの層から構成されており、長い伝承と編集の過程を経てはじめて出 来上がったことが明らかにされてきた。カナンの町々の占領が常に軍事的手段によっ て行われたとする総括的叙述(ヨシュア記11・19)は、文書的には最も新しい層 に属し、これは侵入、定着した諸部族が最初のうちは、城壁に囲まれたカナンの都市 を支配することが出来なかったと語る古いヨシュア記中の個別的な伝承群や士師記1 章の叙述と矛盾するのである。 多くのことから見て、パレスチナに侵入してきたイスラエル諸部族は、まず差し当 たっては、カナンの町が余りなかった山地に定住し、堅固な都市が多くあった平野部 には足を踏み入れることができなかったと思われる。士師記1章17ー36節のイス ラエルが占領することが出来なかったカナンの都市国家を数え上げる「未占領地の 表」は、何よりもこのことを裏づけるものである。 彼らの土地取得は、半遊牧民が沃地に定着する場合に今日でも見られるような形で、 主として一連の牧場交換の経過の中で行われた。沃地の周辺で生活していた小家畜飼 育者が、夏に耕作を終えた耕地に入って放牧をしたが、雨期に入っても耕地に留どま ることが出来た場合に、そこに定着するということが起こった。これに伴って、牧畜 から農耕へ、小家畜飼育から牛の飼育へと次第に生活様式を変え、同時に天幕生活か ら、固定した家屋に居住する生活へと変化したのである。 初期の段階では、イスラエルの部族がカナンの都市国家の領地を軍事力で奪い取る ということは不可能であった。聖書の伝承は、イスラエル人が都市国家の戦車の武力 の前に全く無力であったこと、さらに城壁で囲まれた都市があり、戦車の使えた平野 には足を踏み入れることが出来なかったことをはっきりと認めている。 住民が少なく城壁もない、またカナン人が農業にほとんど利用していなかったよう な山地には、遊牧民の集団は比較的容易に植民することができた。そしてイスラエル がこのような形で定着し、長い時間が経過して、彼らが「強くなった」とき(ヨシュ ア記17・13)、すなわち土地取得の第二の段階で、彼らははじめて要塞化された 町々を征服し、その領土を併合することが出来るようになったのである。 イスラエル諸部族の土地取得は、長い期間にわたり、さまざまな局面や段階を経て、 しかも種々異なる仕方で進行した過程であった。 創世記29、30、35章では、 ヤコブの子らのうちレアの息子たちが年長で、ラケルの息子たちが年下ということに なっている。このヤコブの一二人の息子たちは、イスラエルの一二部族を表している が、レアの息子とされている六部族が、歴史的にも早くパレスチナに定着し、ラケル の息子とされているヨセフ族とベニヤミン族は後にパレスチナに侵入したようである。 これはすなわち、土地取得の第二の段階で、シメオン族とレビ族が何かの理由で中部 パレスチナから移動した後に、ベニヤミン族とエフライム族、マナセ族が、中部パレ スチナ地方に侵入したことの伝承であると思われる。 ヨシュア記では、まず最初にエリコの町が占領されるが、このエリコはベニヤミン の領地にある。しかし、考古学的な調査からも、エリコはベニヤミン族が侵入した時 には、既に廃墟になっていた(恐らく「海の民」による侵略によって)。しかし聖書 の伝承者たちは、これは神が大いなる奇跡を行ったのだと理解し、ヨシュア記6章に あるような物語として伝えたものと思われる。そして、後の伝承が土地取得を一二部 族連合全体による統一的行動として表げんたとき、ベニヤミン族の侵入の経路が全体 の経路として用いられたのである。しかし歴史的には、諸部族はいろいろな経過と経 路によって侵入したのであり、南部パレスチナ、東ヨルダン、パレスチナ中央部、パ レスチナ北部ではそれぞれ事情が違っていた。ドゥ・ヴォーというフランスの旧約学 者は、それぞれについてかなり詳しく土地取得の経過を叙述している(『イスラエル 古代史』)。 イスラエルという一二部族の連合は、カナンの土地取得以前にすでに存在していた のではなく、土地取得後に初めて構成されたのである。出エジプトやシナイの出来事 は、一二部族連合のすべてではなく、個々の集団や氏族のみが関係したものであった。 伝承過程において、出エジプト伝承とシナイ伝承が結合され、本来は個々の集団が体 験したに過ぎない出来事が、イスラエル全体の上に移し変えられて行ったのである。 イスラエルの人々の土地取得は、決して孤立した出来事ではなく、いわゆるアラム 移動群というより大きな運動の枠組の中で行われたのである。イスラエル人や、その 周辺に定着したエドム人、モアブ人、アンモン人は、その後母後のアラム後を捨て、 「カナン語」、すなわち先住民の言語を使うようになったが、シリアに定着した諸集 団はアラム語を保持し、ここからより狭い意味で「アラム人」と呼ばれるようになっ た。