3、王国成立以前の時代(士師時代)



 イスラエルは、紀元前13世紀の終わり頃にカナンに定着してから、約200年間、
王国(国家)に移行せずに特異な形態を取って存在したのである。それは同じ時期に
パレスチナに定着した他の民が間もなく王国に移行したのと比べると、著しい特徴で
ある。それはイスラエルにおいては、人々を支配するのはこの世の権力者ではなく、
神(ヤハウェ)が唯一の支配者であるという信仰からであると思われる。それは、ギデ
オンがミデアン人との戦いで大勝利を収めた後に、人々から王になってほしいと要請
された時、ギデオンが答えた言葉に反映されている。

  イスラエルの人々はギデオンに言った、「あなたはミデアンの手からわれわ
  れを救われたのですから、あなたも、あなたの子も孫もわれわれを治めてく
  ださい」。ギデオンは彼らに言った、「わたしはあなたがたを治めることは
  いたしません。またわたしの子もあなたがたを治めてはなりません。主があ
  なたがたを治められます」。         (士師記8・22ー23)

「子も孫も」というのは、周辺世界において一般的であった世襲の王制を意味してい
る。
 それでは、当時のイスラエルはどのような形態を取っていたのであろうか。それは、
一二の部族の連合体であった。M・ノートによれば、そもそもイスラエルというのは、
この連合体に対する名称であった、と言う。さらに彼は、少し後の時代にギリシアや
イタリアなどに見られる形態と似ているとして、これをアンフィクティオニー(その
都度一定の聖所のまわりに住む者の社会)と呼んだ。そして彼は、この制度は六ない
し一二の部族の自由で非政治的な結合によりなる宗教的連合体であった、と言う。ア
ンフィクティオニーの本質的要素をなすのは、宗教的連合の中心としての中央聖所、
構成員を拘束する共通の宗教的法規、諸部族の定期的な集いの場となる共通の祭儀、
そして共通の宗教的伝承などである。そしてイスラエルの部族連合もこれによく似て
おり、中央聖所は最初シケムであったが、その後ベテル、ギルガル、シロに移されて
行った、と言う。このアンフィクティオニー仮説に対しては現在ではかなりの批判も
出されている。しかし、イスラエルの王国前の形態が部族の連合体であったというこ
とは、多くの学者の認めるところである。
 この部族の連合体は、一時に成立したのではなく、かなり複雑な経過をたどったよ
うである。創世記のヤコブ物語がその辺の事情を伝えていると思われる。創世記35
章23ー26節に次のようなヤコブの一二人の子のリストがある。

  すなわちレアの子らはヤコブの長子ルベンとシメオン、レビ、ユダ、イッサ
  カル、ゼブルン。ラケルの子らはヨセフとベニヤミン。ラケルのつかえめビ
  ルハの子らはダンとナフタリ。レアのつかえめジルパの子らはガドとアセル。

ここでレアの子として六人が挙げられている。彼らはヤコブの子として先に生まれた
のであるが、これは、この六部族が時期的により早くカナンに定住し、そこで六部族
の連合を形成していたことを示している、と言われている。そしてイスラエルという
名称も最初は、この六部族連合に対する名称であったかも知れない。そしてその後、
残りの六部族も相次いでカナンに定着し、この六部族に加わり、最終的に一二部族連
合が形成され、これがイスラエルと呼ばれたのである。その際、一番遅くカナンに侵
入したと思われるラケルの二部族(ヨセフ、ベニヤミン)が、出エジプトの伝承とヤ
ハウェ宗教を持ち込み、強力な影響を及ぼし、これがイスラエル全体の信仰となったよ
うである。レアの六部族は、元々エルという神を崇拝していたが、ラケル族の影響に
よりその神をヤハウェと同一視したのである。

   (2)士師
 さて、王国前のイスラエルの一二の部族の連合体とは、どのような組織であっ
たのであろうか。王とう中央集権的な支配者がいなく、どのようにして全体の秩序を
保ち、また外からの攻撃などにはどのように対処したのであろうか。
 諸部族は、共通のヤハウェ宗教でもって結合していた。そのために年三度の大祭には、
各部族の代表者が中央聖所に集まったと思われる。それは春の種入れぬパンの祭、初
夏の七週の祭、秋の仮庵の祭である(申命記16・1ー16参照)。その時、申命記
26章などにあるヤハウェによる救済の歴史が回顧され、またヤハウ
ェによって与えられた法が確認されたものと思われる。
 諸部族の間に紛争などが生じた場合、その解決に当たったのが士師である。士師は、
ヘブル語ではショーフェートと言い、これは「裁き人」を意味する。そこで、士師は、
イスラエルの法に則って、部族間の争い事を裁くのが本来の職務であったのであろう。
王国前の約二百年、イスラエルを指導したのは、主にこの士師であったようである。
 M・ノートは、この士師を大士師と小士師の二つの種類に区別している。大士師は、
外から敵が攻めて来た時に、神によって霊が注がれて急遽立てられ、諸部族から兵を
招集して軍事的な指導をなしたもので、カリスマ的指導者と呼ばれるべきものである。
小士師は、前述のような本来の「裁き人」である。士師記には、一二人の士師が挙げ
られているが、大士師に入るのが、オテニエル、エホデ、デボラ、ギデオン、アビメ
レク、サムソンの六人で、小士師に入るのが、トラ、ヤイル、エフタ、イブサン、エ
ロン、アブドンの六人である。ただし、エフタは大士師の働きもしている。
 小士師に関しては、「・・・びと・・・は、・・・年間イスラエルをさばいた」と
出身部族と在職年限が簡単に報告されているだけである。小士師の表が士師記10章
1ー5節(トラ、ヤイル)、12章7ー15節(エフタ、イブザン、エロン、アブド
ン)にある。この小士師が部族連合時代の公の職であり、イスラエルの実質的な指導
者であったようである。彼らは中央聖所で職務をなし、特にイスラエルの法に関係し、
その職務は生涯続いたようである。
 それに対して大士師は、外敵との戦いの時に臨時に立てられたカリスマ的指導者で
ある。彼らはイスラエルの危機の時に、ヤハウェによって召され、ヤハウェの霊が与えら
れて、イスラエル諸部族から兵を集めて、戦った。その最初のものは、カナンの都市
国家との戦いである。イスラエルの諸部族は、最初堅固なカナンの町を避けて、山地
に定住したが、次第に力をつけた後に、カナンの都市国家とぶつかるようになった。
この最初の戦いは、イスラエルがカナンに定着して百年位経った紀元前一二世紀の終
わり頃である。この時の指導者は、エフライム出身の女預言者デボラである。彼女は、
北部のナフタリ族、ゼブルン族を中心に一万の兵を集め、キション川の所でカナンの
軍(彼らは「鉄の戦車」を持ったいた)と戦い、大勝利を収めたのである(士師記4
章)。この時を契機に、カナン人とイスラエル人との勢力が逆転していったようであ
る。ただ、この戦いでは、イスラエルの全部族が参加したのではなく、南や東の諸部
族は参加せず、5章の「デボラの歌」では、そのことが非難されている。
 次の重要な出来事は、ミデアン人との戦いである。W・F・オールブライトによる
と、古代オリエントでらくだが盛んに家畜化されるようになったのは、後期青銅器時
代の紀元前1100年頃である。このらくだの家畜化によって、砂漠の生活は一変し
た。すなわち、大きな集団が砂漠においてそれほど水飲み場に依存せずに生きること
ができるようになっただけでなく、広い砂漠を横断し、かなり遠くの距離を速やかに
移動することができるようになった。パレスチナからはかなり遠い東の地に住んでい
たミデアン人が、このらくだを使って荒野を越えて、イスラエルに攻めて来たのであ
る。その時にマナセ族出身のギデオンが主の霊を与えられて立てられた(6章)。ギ
デオンは最初イスラエル諸部族から多くの兵を集めるが、主によってそれを三百人に
まで減らされて、ミデアン人と戦い、大勝利を収めた(7章)。
 このように、オテニエルはメソポタミアの王クシャン・リシャタイム(これが正確
にどこの王かは不明)との戦いの時、エホデはモアブ人との戦いの時、エフタはアン
モン人との戦いの時、サムソンはペリシテ人との戦いの時に、それぞれ立てられたカ
リスマ的指導者である。そのように、国家としての組織をもたず、常備軍もなかった
イスラエルの部族連合は、外敵との戦いには、その時々にカリスマ的指導者が与えら
れて何とか危機を乗り切った訳であるが、イスラエルと同じ時期にパレスチナ西部に
定着したペリシテ人に対しては、ことはそう簡単にはいかなかった。確かにサムソン
には大力というカリスマが与えられ、ペリシテ人を多少苦しめたが、イスラエルをペ
リシテ人の手から完全に救うことは出来なかったのである。それどころか、サムソン
自身敵の策略に陥って、非業の最期を遂げるのであった。
 そこで、その時々にカリスマ的指導者が与えられて、危機を免れて行くということ
に、人々が満足することが出来ずに、強力な権力でもって国を指導する者が求められ
るようになった。しかしこれは、ヤハウェのみがイスラエルの支配者であるという部族
連合の根本的な信仰とは対立するものであり、王国への移行についてはかなりの議論
があったようである。