4、王国への移行



 イスラエルは、一二の部族の連合体という形態で出発し、それが約200年間続い
たが、紀元前11世紀の終わり頃、西の地中海沿岸地方に都市国家を形成していたペ
リシテ人に圧迫されたことにより、今までのように急遽カリスマ的指導者が与えられ
て、その指導の下に諸部族から軍を召集して、防衛する、ということが困難になった。
ペリシテ人は、王の支配の下に重装備の職業軍人と傭兵隊から組織された強力な軍隊
をもっていた。そしてペリシテ人は、この強力な軍隊を用いて、イスラエルを攻め、
部族連合の中心であった神の箱を奪い、中央聖所のシロを破壊し、その聖所の祭司エ
リの二人の息子も殺した(サム上4・10ー11)。そしてイスラエルの各地にはペ
リシテの守備兵が置かれて監視されていた(10・5、13・3)。さらにイスラエ
ル人は全く武装解除させられていた(13・19ー22)。
 このような苦境の中で、「他のすべての民と同じような王」が求められるようにな
った(8・5)。
 この士師時代から王国時代への過渡期に最も重要な役割を果たしたのがサムエルで
ある。彼の働きは、多種多様であった。元来は聖所においてイスラエルを裁く小士師
の職務に就いていたようである(サムエル記上7・15ー17)。またある時は、イ
スラエルをペリシテびとの圧迫から救うために軍事的な働きをしたカリスマ的指導者
(大士師)でもあった(7・3ー14)。また彼は、先見者、預言者、祭司とも言わ
れている。しかし最も大きな事は、サウルに(10・1)、そして次にダビデに油を
注いで(16・13)、イスラエルに王を立てたということである。

   (1)サウル
 サウルは、イスラエルの初代の王である(紀元前約1020年)。しかし、M
・ノートは、サウルの王国をイスラエルの王国が成立する前の「エピソード」として
いる。事実、サウルを王として特徴づけることができるかどうかは、疑問である。サ
ウルの主な仕事は、ペリシテを第一とする外敵との戦いであった。従って、さし当た
っては、ギデオンなどと同じく、危機の時に神の霊が与えられて立てられたカリスマ
的指導者(大士師)と言うことができる。
 さて、イスラエルの周りのアンモン人やモアブ人やエドム人は、土地取得をした後
非常に早く王国建設に移行したが、イスラエルだけは一つの聖所を中心とする部族連
合の体制を長い間堅持した。そして約二百年後のサウルの時代にやっと他の国々のよ
うに王国に移行した。しかし、これはヤハウェのみがイスラエルの支配者であるという
部族連合の根本的な信仰とは対立するものであり、聖書の伝承の中にもいろいろな意
見がある。王国への移行に関しては、サムエル記上9ー11章に三つの伝承が伝えら
れている(9・1ー10・16、10・17ー27、11・1ー15)。そしてこれ
らは元来別々の伝承であった。サムエル記は、一般に王国に好意的な「旧資料」と、
批判的な「新資料」とに分けられるが、この部分は両資料が入り交じっている。
 さて、サウルは、サムエルに油を注がれて「イスラエルの君とされた」とある(1
0・1)。この「君」は、絶対権力者の「王」ではなく、外敵と戦うカリスマ的指導
者のことである。そして、サウルの最初の仕事は、アンモン人に占領されたヤベシ・
ギレアデの町を解放することであり、彼は神の霊が与えられ、瞬く間に全部族から軍
を召集し、成功を収めた。ここでサウルは、王としての自覚と自信を持ったのではな
かろうか。そして、自分の権力を求めるようになり、優秀な人をみつけては召しかか
えて、常備軍を整えていったのである(サムエル記上14・52)。その中の一人に
ダビデが武器を執る者として、サウルの王宮に召しかかえられたのである。
 しかし、サウルの王権は、希薄なものであり、アマレル人との戦いにおいて預言者
サムエルの言葉に忠実でなかったためにサムエルから断罪されるのである(15章)。
ここには、部族連合時代のイスラエルを支配するのはヤハウェのみであるという精神が
まだ生きていたのである。すなわち、世俗の王権を行使しようとしたサウルより、神
の支配を代理するサムエルの方が力が上であったのである。(この考えは後のイスラ
エルの歴史においてもずっとあり、王が罪を犯すと必ず預言者が現れて、王を断罪す
るのである。)
 さて、サウルは、ギルボア山での戦いにおいてペリシテ人に惨敗し、自害した(3
1章)。ペリシテ人は、サウルの体をベテシャンの城壁にくぎづけにして、さらし者
にしたが、かつて窮状を救われサウルに恩義を感じていたヤベシ・ギレアデの住民が、
夜こっそりサウルの遺体を城壁から取り降ろし、手厚く葬ったのである。

   (2)ダビデ
 サウルは、王というよりも部族連合時代のカリマス的指導者の域を殆ど出てい
なかったが、ダビデは初めてイスラエルに世俗の王権を確立した。彼がどのようにし
て王に昇進していったかという関心から、ダビデの宮廷の者(多分書記)が、「ダビ
デの台頭史」を記録したようである(サムエル記上16・14ー下5・25)。
 ダビデは、ユダ族に属するエッサイの八人の息子の末っ子としてベツレヘムに生ま
れた。彼は、行動力と活力にあふれ、政治的な本能と権謀術数の才に恵まれ、自分の
目標とすることろを辛抱強く、また粘り強く追求し、決して焦らず、その目標を実現
し得る最良の時を待つことを知っていた。彼は最初、「武器を執る者」としてサウル
の宮廷に召されるが、たちまちその才能を発揮し、多くの武勇をあげたので、かえっ
てサウルの妬みを買い、命を狙われるようになった。彼は、サウルの追及を逃れて逃
亡生活をするが、最後にはこともあろうに、敵のペリシテのガテの王アキシの傭兵と
なった。しかしこの間彼は、故郷のユダとは着実にいい関係を保ち続けていた。その
ことによって、サウルがギルボア山の戦いで戦死した後、ユダの人々が彼に油を注い
で「ユダの家」の王にした(サムエル記下2・4、紀元前約千年)。この「ユダの
家」というのは、ユダ族を中心とする南部の諸部族の連合体である。ここに部族連合
時代からの一二の部族の連合体としてのイスラエルが崩れたのであるが、元々地理的
には、南部と北部はそれぞれの特殊性があったのである。
 北部では、サウルの子のイシボセテが軍の長アブネルによってイスラエルの王とさ
れ、彼は二年間治めるが、元々王としての能力がなく、軽率な態度のためにそのアブ
ネルの信用を失っただけでなく、部下に裏切られて暗殺された。しかし、その暗殺者
たちがイシボセテの首をもってダビデの前に現れた時、ダビデは彼らに報酬を与えた
のではなく、彼らを処刑したのである(下四章)。ここにもダビデの政治的な手腕が
見られる。すなわち、このことによって、サウルの家を支持していた北の諸部族がダ
ビデに信頼して、イスラエルの王になったほしいと申し出たのである。これには、か
つてダビデがサウルの娘ミカルと結婚しており、サウルと姻戚関係にあったというこ
とも有利に働いた(この結婚は、「かつて」というよりも、このような状況において
政治的な見地から行われたという見方もある)。そこで彼は、ヘブロンで七年間ユダ
の王として働いた後、全イスラエルの王に即位したのである。
 さらに彼の政治的手腕を発揮するのは、イスラエルの首都を定めたことである。こ
れまでダビデが治めていたヘブロンは、全イスラエルから見ると余りにも南に位置し
ていた。かと言って、北の伝統的な町(ベテルやシケム)などを首都にするとユダの
部族の支持を失うかも知れない。そこでダビデが目をつけたのは、エルサレムである。
これはこの時代まだカナン人の町であった。この町は北と南のちょうど中間にあり、
全体を治めるには位置的に非常によかった。ダビデはそこを攻めて、占領し、「ダビ
デの町」とした。
 さらにそこに部族連合時代の聖所であった「神の箱」を運んだのである。このこと
により、エルサレムは、位置的にイスラエルの中心であるというだけでなく、政治的
にも、宗教的にも中心地となり、その後の歴史においては、最も重要な地として不動
の地位を築いた。そして宗教的な聖所としては現在にまで至っている。
 その後ダビデは、さらに近隣の国々を征服し、イスラエル諸部族の狭い領域をはる
かに越えて、一つの大国を形成したのである。すなわち、ペリシテ、アンモン、アラ
ム、エドム、モアブなどを支配し、その領地は広大なものになった。これはダビデの
政治的手腕もさることながら、メソポタミアもエジプトも国力が弱体化していたこと
に起因するであろう。
 しかし、政治的手腕を存分にふるったダビデも、自分の後継者選びには、その才を
発揮することが出来ず、宮廷内にはかなりの混乱が起こった。その辺の事情は、多分
ソロモンの宮廷の書記が記したと思われる「ダビデ王位継承史」に詳述されている(
サムエル記下9ー20章、列王紀上1ー2章)。これは、ソロモンの王権を正当化す
るために記されたものと思われる。
 ダビデは、継承者選びには非常に優柔不断であった。サムエル記下3章2ー5節に
はヘブロン時代にダビデに生まれた子として六人の名が記され、5章14ー16節に
はエルサレム時代に生まれた子が11人記されているので、彼には少なくとも17人
の男の子がいたことになる。その中で第一の候補者は、長男のアムノンであったが、
彼は腹違いの妹タマルを凌辱したことから、タマルの実兄であった三男のアブサロム
に殺されてしまう。
 アブサロムは、非常に権力欲の強い男で、ダビデの部下たちを次第に自分の支持者
にして、ついに反乱を起こし、ヘブロンで自ら王であると宣言した。彼の支持者が非
常に多かったことは、ダビデの強権に反発を抱いていた人が多かったことを物語って
いる。ダビデは命からがらわずかの兵を引き連れて、エルサレムから逃げ出した。し
かしその後、アブサロムの兵とダビデの兵とが「エフライムの森」で決戦し、アブサ
ロムが殺され、結局再びダビデが王として迎えられることになった。
 この後、最年長のアドニヤとバテシバを母とするソロモンが継承権をめぐって争い、
これは宮廷を二分する党派抗争にまで発展した。しかし、バテシバの策略によって、
ついにダビデ自身が自分の後継者がソロモンであると宣言することによって、後継者
問題が決着した。