5、王国の分裂



 ダビデの王位継承の問題は、ダビデの優柔不断のゆえに、宮廷内がかなり混乱した
が、結局はダビデ自身が、ソロモンを後継者にする、と宣言したことによって決着し
た。そのために、ダビデが死んだ後、何の混乱もなく、ソロモンが王位に即いた。

   (1)ソロモン
 ダビデの王国は、領土的にも民族的にも財的にも膨大のものであり、ソロモン
の専らの務めは、この遺産を維持・管理するということであった。そこで彼はいろい
ろな制度を整えることに力を入れた。
 そこでまず、宮廷の官僚制度を整えた。これは、エジプトのを模範にし、中央集権
的なかなり大規模のものであった。そして、この宮廷内ではかなり贅沢な生活が繰り
広げられており、その出費は莫大なものであった(列王紀上4・22ー23参照)。
そこでこのような費用を賄うために、徴税の制度を整えた。すなわち、北イスラエル
を12の県に分けてそれぞれに政府の代官を置き、各県にそれぞれ一か月ずつ宮廷の
財政を担わせることにした。この重税に対して北の諸部族は次第にソロモンに対して
不満を抱くようになった。
 ソロモンはまた、常備軍の制度を整えた。ダビデの傭兵隊が歩兵だけから構成され
ていたのに対し、彼は馬に引かせる戦車をエジプトから導入した。そして全国に戦車
の駐屯地を建造した。その一つのメギドの遺跡からは、ソロモンが建造したと思われ
る馬屋が発見されている(列王紀上9・15、19参照)。しかしソロモンの時代は、
比較的平和の時代(ソロモンという名は、恐らく「平和シャローム」と関連があるで
あろう)であり、彼がこの戦車を使って戦ったという記録はない。
 さらにソロモンは、数々の建築事業をなした。その代表は何と言ってもエルサレム
神殿の建築であろう。彼はこの神殿の建築に七年を費やした。彼はこれをファニキア
人の建築家に建てさせた。これは、まだイスラエル人に巨大な建築物を建てた経験が
乏しかったからであろう(列王紀下5・1以下)。この神殿は、神の住まいとされ、
この後のイスラエル人の信仰の中心地となったのである。これは紀元前587年にバ
ビロニア軍にによって破壊されたが、捕囚後516年に帰還した人々によって再建さ
れ、さらにローマ時代には、ヘロデ大王によって大規模な改修が施された。その後、
紀元70年のユダヤ戦争の時に、ローマ軍によって徹底的に破壊され、現在ではその
壁が残っているだけである。しかし現在でもユダヤ人はその壁に向かって祈りを捧げ
ているのである。
 ソロモンは、さらに、神殿建築の倍の年月をかけて王宮の建設をなした。さらに彼
はいろいろな建築事業を行ったが、そのために全国から強制労働者を集めた。そして
これに対しては、重税と共に人々の不平を募らせたのである。
 さらにソロモンは、諸国との貿易を盛んにし、それによって莫大な利益を得た。ま
ず、モアブを支配下に置いていたので、シナイ半島の東に二つの港を開いて、そこか
ら紅海を通ってアラビア半島やアフリカ東岸の諸国から、金、象牙、銘木など、さな
ざまな品々を輸入した。なかでもとりわけ重要な商品は、エジプトからの馬と戦車で
あった。ソロモンは、これらは品々を、仲介業者を通じて、北のシリアや小アジアの
国々に運ばせ、莫大な利益を得た。また彼は、地中海を航行して、沿岸諸国や、実に
スペインとまで貿易をしていたようである。
 ソロモンはさらに、シナイ半島の東のアカバ湾に銅山を開き、採鉱を行い、またそ
の場で精錬させ、これによっても彼は莫大な利益を得ていた。
 このような商業活動によって得た莫大な富によってソロモンは非常に豪華な暮らし
をした。それは「ソロモンの栄華」として後々までも伝えられている。アラビア半島
の南のシバから訪ねて来た女王もソロモンの宮殿の豪華さを見て圧倒された、とある
(列王紀上10章)。またイエスも、ソロモンの栄華について言及している(マタイ
による福音書6・29)。
 しかし、このような派手な外交関係をしたことによって、ソロモンは、諸外国の王
女たちと縁組することになり、エルサレムには、彼女たちが持ち込んだ外国の神々が
置かれるようになった(列王紀上11章)。
 ソロモンの大規模な商業活動の振興は、貨幣経済の発達と商人階層の台頭を促し、
これによって階級の分化が起こり、その格差が時代を経て益々著しいものになった。
 そのような中で、人々の(特に北イスラエルの)不満が増大し、ソロモンの部下で
あったヤラベアムが反旗を翻したが、ソロモンの強権の前に失敗し、エジプトに逃亡
した。

   (2)王国の分裂ソロモンが紀元前922年に没したとき、彼の息子レハベア
ムは、明らかにさしたる困難もなく、都市国家エルサレムとユダ王国の王位を継承し
た。
 北の諸部族においては、世襲的な王制という考えは定着しておらず、その都度新し
い統治者を指名し、契約に基づいて彼に従属するという考えが強かった。そこで彼ら
は、レハベアムを自動的に自分達の王と認めることはしなかった。彼らはレハベアム
と交渉し、一定の条件が満たされれば、彼を王として承認しようとしたのである。ソ
ロモンの宮廷の奢侈や豪華な建築事業のためになされた重税や強制労働に、北の諸部
族はかなり不満を抱いていた。そこで、交渉によって、新しい王にはこれらのことを
軽減してもらおうとしたのである。ところが、レハベアムは、経験豊かな顧問官の助
言を無視して、この提案を冷淡にはねつけた。そこで北の諸部族は、ダビデ王家との
関係を断ち切ったのである。彼らはその代わりに、ソロモンに謀反を起こしエジプト
に亡命していたヤラベアムを王に即けたのである。
 ここにダビデが打ち立てた南北の統一王国は終わり、北のイスラエル王国と南のユ
ダ王国に分裂し、再び統一されることはなかった。それ以後両王国は、西オリエント
の大国のはざまにあって、ほとんど政治的重要性を持たない小国家として存在してい
くことになるのである。そして、ユダ王国は、ダビデ王朝がずっと王位を継承してい
くが(ただ一度ダビデ家でないアタリヤが王位に即くが)、イスラエル王国は次々と
王朝が交替していくのである。
 イスラエル王国の王に即位したヤラベアムは、最初シケムに王宮を建てたが、やが
てヨルダン東岸にあるヤボク川下流のペヌエルに遷都し、さらに最終的には、シケム
の北15キロにあるテルザに落ち着いた。テルザは、それ以後数十年間、北王国の首
都であった。 王国分裂後も、北王国の人々はエルサレム神殿に巡礼を続けていた。
政治的な分離にもかかわらず、エルサレムの神殿は、依然として共通の祭儀的中心地
と考えられていた。そこに十二部族の中央聖所を意味する契約の箱が置かれたいたか
らである。そこでヤラベアムは、北の人々の心をエルサレムから断ち切ろうとして、
昔から聖所とされていた北の二つの町ダンとベテルを国家の聖所と定め、そこに金の
子牛の像を建てたのである。この牛の像は、本来神そのものではなく、神の王座を運
ぶ台座と考えられたのであろうが、礼拝の対象と捉えられていった。列王記の記者は、
ダンとベテルに金の牛の像が建てられたことを、おぞましい偶像礼拝であり、ヤハウェ
信仰からの逸脱だとして非難している(列王紀上12・30)。
 これ以後の時代においても、ユダ王国ではダビデ王朝の支配に異議が唱えられるこ
とはなかった。王位継承の問題は、世襲的王権の原理によって、既に最終的な決着が
ついていたからである。これに対して、北王国では数十年間にわたって安定した王朝
が建てられることはなかった。選任王制と世襲王制という二つの原理が絶えず対立葛
藤を続けたということから、北王国の政情は極めて不安定なものとなった。王たちは、
王朝を形成することによって自分の家の権力を強固なものとしようと絶えず努力した。
しかしこの際、王の政治的、宗教的反対者であった預言者が登場しては、別の人物を
王に指名するということが何度も起こった。当然ながら、現在統治している王とその
子孫は、快く王権を手放そうとはしない。そこで指名されたものは、暴力的手段を用
いて支配権を手中に収め、自己の権力を確保するために、先王の一族すべてを根こぎ
にする。このようなことが何度も繰り返された。イスラエル王国の不安定性は、北王
国の王19人のうち、実に8人までが暗殺されているという事実に端的にあらわれて
いる。三代以上にわたって王位が継承されたのはオムリ王朝とエヒウ王朝だけであっ
た。
 王国分裂後40年間、オムリの時代に至るまで、イスラエルとユダの間には常に争
いが絶えなかった(列王紀上15・7、16)。