6、北イスラエルの歴史
ダビデの建国したイスラエル王国は、ソロモンの死後、北と南に分裂し、それぞれ の歴史を歩んだ。南ユダは、神の都エルサレムとソロモンの神殿を受け継ぎ、王朝も ダビデ王家が終始一貫継承し(ただ一度ダビデ家でないアタリヤが王位に即いたが)、 比較的安定した歴史を歩んだ。一方北イスラエルは、首都も何度か変わり、次々と九 の王朝が興亡するというはなはだ不安定な歩みであった。その中で、オムリ王朝とエ ヒウ王朝は、四代以上続き、繁栄を享受した。 (1)オムリ王朝 オムリの創始したこの王朝は、アハブ、アハジヤ、ヨラムと四代、34年続い た(紀元前876ー842年)。 オムリという名は、イスラエル人の人名ではなく、彼は多分外国人の傭兵隊長であ った。彼は、ジムリがクーデターを起こして七日間天下を取った後失脚した時の混乱 に乗じて、権力の座に即いた。 彼はヤアラベアムが北の都と定めたテルザで六年間治めたが、その後カナン人から サマリアの町を買い取り、そこを都に定め、新たな町を建設した。このサマリアはそ の後のイスラエルの歴史において、南のエルサレムに匹敵する重要な町として存在し 続けた。 彼はイスラエル人でなかったためか、外国の宗教に対しても寛容であり、国内でカ ナンの神々が崇拝されることを許容しただけでなく、自らサマリアにカナンの神々を 祭る聖所を建てさせた。同時に彼は、ヤハウェのための聖所もサマリアに築き、そこに かつてヤラベアム一世がベテルとダンにしたように、牛の像を建てたので、預言者た ちから激しく非難されている(ホセア書8・5ー6)。 さらにオムリは、フェニキアの諸都市と外交関係を結び、商取引を盛んにした。そ してそのために、息子のアハブをツロの王エテバアルの娘イゼベルと縁組させたので ある。このエテバアルは、ツロの主神メルカルト(旧約聖書では「バアル」と呼ばれ ている)の祭司でもあったので、イゼベルはこの宗教をイスラエルに持ち込んだ。持 ち込んだだけでなく、彼女は夫アハブが王位に即くと、夫に働きかけて、ヤハウェの礼 拝を禁じたのである。ここにイスラエルの歴史においてヤハウェ宗教の最大の危機が訪 れた。この危機の時に立てられたのが預言者エリヤである。彼はイスラエルの伝統に 基づいて王を非難した。 イスラエルの伝統によると、本来イスラエルを支配する方はヤハウェであり、この世 の権力者に対しては非常に消極的であった(本誌91年10月号参照)。そしてペリ シテ人の危機の時にやもうえず王国に移行したのであった。しかしその理念は生き続 け、王といえどもヤハウェの意志に背くことは許されないのである。そして王が自らの 権力でもってヤハウェの意志に背いた時は、預言者が遣わされたのである。預言者は、 ヤハウェから与えられた法に基づいて、王を非難し、また断罪したのである。この伝統 は、イスラエルの王国時代ずっと続くのであった。これがイスラエルの歴史の一つの 特徴と言っていいであろう。 さて、外国から嫁いだイゼベルはそんな伝統とは無縁であるばかりでなく、本国の 習慣に従って、王権を絶対的なものと考えた。そこで、ツロの宗教を普及させるため に、ヤハウェの礼拝を禁じ、またヤハウェの預言者をすべて殺したのである。エリヤだけ が神に守られて辛うじて生き残ったのである。そしてエリヤは、フェニキアとの国境 に近いカルメル山でバアルの預言者と対決し、勝利を収めた(列王紀上18章)。 もう一つの事件は、アハブ王が隣接したナボテのぶどう畑を奪い取ったことである (21章)。こういうことは、ツロの王の場合は、罪に問われないかも知れないが、 イスラエルの場合は、王といえども神の法に違反する場合は厳しく裁かれるのである。 この事件の場合、アハブは隣人の畑をほしがり(第10戒違反)、偽証する人を雇い (第9戒違反)、石打ちの刑に処した(第6戒違反)。これに対してエリヤは神から 遣わされて、アハブの家の断絶を伝えた。しかし、実際にオムリ王朝の断絶に携わっ たのは、その後継者エリシャであり、オムリ王朝自体もあと二代続いた。 (2)エヒウ王朝 エリシャは、その弟子を将軍エヒウのもとに遣わして、彼に油を注ぎ(王への 任命のしるし)、アハブ王朝を断絶するように命じた。そこでエヒウは、オムリ王朝 最後の王ヨラムに謀反を起こし、彼及び共にいたユダの王アハジヤを殺した(列王紀 下9章)。オムリ王朝はユダの王家とも友好関係を結び、特にアハブとイゼベルの娘 アタリヤは、ユダの王ヨラムの妃となっていた。このエヒウの革命の時に殺されたア ハジヤは、このアタリヤの息子であった(ヨラムという王もアハジヤという王もユダ にもイスラエルにもいてややこしいが)。このアタリヤは、自分の息子アハジヤが殺 された後、ダビデ王家の者をことごとく殺して、自ら王位に即いた。このアタリヤは、 ユダ王国においてダビデ王家の者でない唯一の王である。 さて、革命に成功したエヒウは、イゼベルをはじめオムリ王家に属するものをこと ごとく殺した。この粛正は余りにも残酷なものであって、後の預言者ホセアはこのこ とを非難している。 さらにエヒウは、ヤハウェ宗教に熱心であったレカブ人ヨナダブと協力して、偶像礼 拝を一掃した(10章)。 エヒウの創始した王朝は、五代、約百年続き、北イスラエルでは最も長命な王朝と なった(842ー745年)。しかしこの時代、アッシリア帝国の勢力が次第にパレ スチナに及んで来、イスラエルもその影響を受けずにはおれなかった。聖書の資料に はないが、アッシリアの資料には、エヒウがアッシリアの王シャルマネセル三世に服 従して貢を収めている浮き彫りがある。この時代、北のシリアとの争いも絶えず、イ スラエルはかつての領土をかなり失ったようである。 そういう中で、ヤラベアム二世の時代は、北イスラエルは最後の繁栄を享受した。 ヤラベアム二世は、政治的に優れた王であり、実に四一年の長きにわたって支配し、 列王紀下14章25節によると「ハマテの入口からアラバの海まで、イスラエルの領 域を回復した」とあるから、近隣の諸国に奪われていた領地をかなり奪回したようで ある。それはしかし、ヤラベアム二世の手腕もさることながら、アッシリア帝国の力 がまだパレスチナには本格的に伸ばされず、むしろ北隣のシリアに及んだため、シリ アの力がイスラエルに及ばなかったからである。しかしこの時代、イスラエルは確か に表面的には平和と繁栄の時代であったかも知れないが、階級的な差別が大きくなっ た時でもある。ちょうどこの時代活躍したアモスの書に、貧しい者を犠牲にして繁栄 を享受していた支配者階級に対する痛烈な非難の言葉が残されている(アモス書5・ 7、10・12など)。しかし、このヤラベアム二世の時代の後は、北イスラエルは 滅亡の一途をたどるのであった。 (3)北イスラエルの滅亡 ヤラベアム二世の時代イスラエル王国は一時的に栄えたが、次のザカリヤはわ ずか六ケ月支配しただけで暗殺され、エヒウ王朝は終わった。そしてイスラエル王国 では二度と再び王朝の建てられることはなかった。その後20年の間に5人の王が交 替するが、そのうち3人は暗殺されている。 かつてのアッシリア王シャルマネセル三世は、多くのパレスチナ・シリア遠征を行 ったが、これらの国々を滅ぼすということはせずに、ただ貢を納めさせることで満足 していたが、紀元前745年に即位したティグラテピレセル三世は、西オリエント全 体を支配しようとした。そこでシリア・パレスチナの国々は以前にも増して、大きな 脅威にさらさえることになった。そのような中で、イスラエル王国と北のシリアは、 同盟を結んでアッシリアに抵抗しようとした。そしてこの同盟にユダ王国も引き入れ ようとした(シリア・エフライム戦争、734年)が、失敗し、かえってアッシリア の介入を招き、首都サマリアとその周辺の地域を残して、アッシリア軍に占領されて しまった。ペカの時代である。 その次の王ホセアは、最初アッシリアに服従していたが、724年にエジプトに頼 って、アッシリアへの貢を中止し、臣属関係を破棄した。時のアッシリアの王シャル マネセル五世は、直ちにイスラエルに軍隊を送り、ホセアを捕らえ、イスラエルの領 土全体を占領した。ただ堅固な町であったサマリアだけは、包囲されたまま三年間も ちこたえたが、シャルマネセル五世を継いだサルゴン二世によって征服された(紀元 前721年)。このようにして約二百年間続いた北イスラエル王国は終焉したのであ る。 アッシリアの政策は、支配した国の民を国外に追放し、その代わりに外国の民を移 すというものであった。これは一種の雑婚政策であり、そうすることによって民族的 なアイデンティティを喪失させ、独立運動の気力をなくさせることであった。サルゴ ン王は、征服したサマリアの上層階級をアッシリアの町々に移し、また他の地方の 人々をサマリアに移し、そこをサマリア州としてアッシリア帝国に編入した。そこで サマリア州では、イスラエル人と外国人との雑婚が行われ、また宗教的にも雑多なも のとなり、伝統的なヤハウェ宗教が失われていった。そのようなことから、後の時代に は、サマリア人はユダヤ人から差別された存在となるのである。