7、南ユダの歴史



 南ユダは、国土も勢力も北イスラエルよりは小さかったが、ダビデ王朝とエルサレ
ムを受け継ぎ、比較的安定した歴史を歩んだ。それは、北イスラエルは、さらにその
北のシリアと国境を接していたことでシリア(アラム人)との戦いが絶えず、またメ
ソポタミアの大国の侵略も受けやすかったが、ユダは南の側からはそれほど敵の攻撃
は少なかったことにもよる。そのために北イスラエルが滅ぼされてなお135年生き
延びたのである。
 とは言っても、ユダは所詮パレスチナの小国であり、しばしば生命の危機に脅かさ
れたのである。その大きな危機は、まずアハズの時代(前735−715年)に訪れ
た。

 (1)アハズ
 この時代アッシリア帝国のティグラテピレセル三世は、世界帝国の形成を画策
し、シリア・パレスチナに次第に勢力を伸ばしていた。この危機に対してシリアとイ
スラエル(エフライム)は、連合して抵抗しようとし、この連合にユダも引き入れよ
うとした(前733年)。しかし時の王アハズは、これを拒絶したために、連合軍が
エルサレムに攻めて来たのである(シリア・エフライム戦争)。預言者イザヤはその
時の様子を、「王の心と民の心とは風に動かされる林の木のように動揺した」と記し
ている(イザヤ書7・2)。その時アハズは、「静かにして恐れるな」というイザヤ
の勧告に従わずに、アッシリアに援助を求め、ティグラテピレセルにエルサレム神殿
と宮殿の財宝を贈ったのである(列王紀下16・7−9)。アッシリアはただちに援
軍してユダを救った。
 しかしこのことは、ユダ王国がアッシリアの属国にされたことを意味する。古代オ
リエントにおいて、政治的主権者は、その属国に対して公の国家祭儀の受容を求めた。
この時もアハズは、自国の危機を救ってくれたティグラテピレセルに挨拶するために
ダマスコに行った時、そこにあったアッシリアの神の祭壇の詳しい図面とひな型とを
作って、エルサレムの大祭司ウリヤに送って、神殿の中にその祭壇を建てさせた(列
王紀下16・10−18)。イザヤはこのような結果になることを予測して、アッシ
リアに援助を求めないようにと、アハズに忠告したのである。エゼキエル書八章には、
エルサレムの中に実にいろいろな外国の偶像があるのを見た記事があるが、これはユ
ダ王国がその時々の情勢において取り入れざるを得なかった政治的な政策としての諸
国の偶像であった。
 しかし、アッシリアの勢力が弱くなったと判断した時は、ユダは自己を主張するこ
とができた。そしてそれは次の王ヒゼキヤの時代(前715−687)に起こった。

   (2)ヒゼキヤ
 アッシリアの王サルゴンが前705年に死んだ時、帝国内では至る所で反乱が
頻発するようになった。バビロニアは、メロダク・バラダンのもとで独立を遂げた。
これによってサルゴンの後継者セナケリブは、東方の支配を固めなければならなかっ
た。このような状況の中で、ヒゼキヤ王はアッシリアへの貢を中止し、隷属関係を破
棄した。そしてアハズがエルサレムに導入することを強いられたアッシリアの国家祭
儀も排除した。このために彼は列王記の記者によって評価されている(下18・5)。
このようなことに対して、この時アッシリアには介入する力はなかった。
 ヒゼキヤはバビロニア、エジプトと関係を結び、南パレスチナ諸国による反アッシ
リア連合の盟主となった。この同盟には、ペリシテ人の都市国家アシケロンやエクロ
ンも参加していた。このようなことに対して預言者イザヤは、ただ主にのみ信頼し、
外国の力に頼ってはならない、と警告した(30・1−5、31・1−3)。
 ヒゼキヤはまた、エルサレムの町の防備を強化することに力を入れた。とりわけ、
万一に備えてエルサレムの中に水を確保するため、町の外のギホンの泉からシロアム
の池まで水を引くための地下の水路を作った。これは現在も残っており、全長533
メートルの地下の工事はかなり高度な技術であった。
 しかしアッシリアは、しばらくの混乱の後、前701年には、セナケリブが支配を
安定させ、反乱していたシリア・パレスチナの鎮圧を開始した。セナケリブはまず、
フェニキアの都市国家を攻撃し、そこから南に転じて、アシドド、モアブ、アンモン
などを次々と屈服させた。彼はさらに、同盟軍を支援するために北上してきたエジプ
ト軍をエルテケで撃破した。その後ユダの国に侵入し、46の町を征服した。その後
彼は、エルサレムを包囲した。エルサレムは絶体絶命の危機に陥ったが、かろうじて
この危機を免れた。これについては聖書に二つの伝承が保存されている。一つは列王
紀下18章13節以下の記事であり、それによれば、ヒゼキヤが神殿と宮殿の倉庫に
あった莫大な財宝をアッシリアに収めることによって滅びを免れたというものである。
もう一つは、イザヤ書37章36節以下の記事であり、それによれば、主の使がアッ
シリア軍の多くを滅ぼしたのでセナケリブが退却したというものである。これはエル
サレムを包囲していたアッシリア軍に突然何かの災害(例えば疫病)が起こったとか、
アッシリア本国に政治的異変が起こってセナケリブが急遽退却せざるを得なくなった
ということが、考えられるが、歴史的には列王紀の記事の方が事実であったであろう。
しかし、絶体絶命にあったエルサレムがとにかく滅びを免れたことは事実であり、こ
れによって、エルサレムは不滅であるという迷信的な信仰が広がったようである。
 これ以後ユダは、再びアッシリアの属国となり、ヒゼキヤの後継者マナセ(前68
7−642)とアモン(642−640)は、ヒゼキヤが前705年の反乱で排除し
たアッシリアの国家祭儀を再びエルサレムに導入せねばならなかった。これと同時に、
カナンの豊饒祭儀や天体神の崇拝がエルサレムでも行われるようになった。そのため
両者は、列王紀の著者より非難されている(下21・2、20)。
 アモンは、わずか2年の治世の後、「国の民」(アム・ハーアーレツ)によって暗
殺された。彼らがアモンを暗殺した理由ははっきりとは分からないが、多分、父マナ
セ以来の宗教政策に対する反発からであろう。そして彼らは、まだ八歳であったアモ
ンの子のヨシヤを王に即けたのである。

   (3)ヨシヤ
 ヨシヤは、恐らく少年時代を、ヤハウエ主義者の教育を受けて育った。そして、
成年に達した時に、いわゆる「宗教改革」を断行した(前621年)。このために彼
は、列王紀の記者から非常に評価されている(下22・2)。しかし歴史的に見れば、
このこともアッシリアの勢力との関連で捉えるべきである。
 すなわち、ヨシヤの時代、アッシリア帝国はアシュルバニパル(前669−631
年)の時代に次第に衰退し、それに伴ってナボポラッサルの下で独立したバビロニア
人とメディア人とスキタイ人とがメソポタミアに侵略し始めたのである。そしてヨシ
ヤは、この機会を捉えてアッシリアに抵抗し始めたのである。彼はまず第一に、アッ
シリアの国家祭儀をエルサレムの聖所から取り除いて(下23・4)、アッシリアと
の家臣関係を解消した。そして朝貢も中止したが、アッシリアにはもはやそれに介入
する力はなかった。その後修復中の神殿の壁から「律法の書」が発見され、これに基
づいてユダの国から偶像礼拝を一掃したのである。この「律法の書」は、現在の申命
記の中心部分だと考えられている。それで、この改革を「申命記改革」とも言われて
いる。申命記の法には、偶像礼拝を排撃することと共に、礼拝所をエルサレムに集中
すべきことも言われている(12・11)。ヨシヤは、これに基づいて、エルサレム
以外の地方の聖所を閉鎖させたのである。このことにより地方の聖所の祭司たちは、
エルサレム神殿の一種の下級祭司とならざるを得なかったのである。エレミヤはこの
ヨシアの宗教改革に賛同したが、彼はアナトテの祭司の家系であったので、親戚の者
に憎まれる結果になった。
 ヨシアはユダ王国内での改革にとどまらず、さらにかつてのダビデ王国の支配を回
復するという野心に駆り立てられた。すなわち、その当時アッシリア帝国の一つの州
となっていた北イスラエルのベテルやサマリアにまで踏み行って、そこの偶像を取り
除いた。しかし、前609年、瀕死のアッシリアを助けようとしてパレスチナを通過
していたエジプト軍を迎え撃とうとしたヨシアは、逆にパロ・ネコに撃ち破られ、命
を落としてしまった。これによって、かつてのイスラエル王国を回復しようというヨ
シアの野望は挫折したのである。そしてユダ王国は、エジプトの支配下に置かれるよ
うになった。すなわち、王に即位したヨシアの子のエホアハズは、ネコによって退位
させられ、同じヨシアの子のエリアキムが王に即けられ、名をエホヤキムと改名させ
られたのである。この改名は、パロのユダに対する統治権をあらわすものであった。
事実エホヤキムは、国民に重税を課してネコに朝貢しなければならなかった。
 しかし前605年のカルケミシの戦いでネブカデネザルがネコに勝利してからは、
シリア・パレスチナは新バビロニア帝国の支配となった。そしてユダもその属国とし
て、バビロニアに朝貢しなければならなかった。しかしエホヤキムは間もなく、バビ
ロニアの支配から免れようとして、朝貢を中止した。ネブカデネザルは直ちに軍を送
って、エルサレムを包囲した。この包囲の最中にエホヤキムは死に、その子エホヤキ
ンが王位に即くが、即位三ケ月後にエルサレムは侵入され、若きエホヤキンや上層階
級の者が捕囚としてバビロニアに連れて行かれた(第一回捕囚、前598年)。