8、バビロン捕囚時代



 紀元前598年の第一回捕囚ではエホヤキン王をはじめ3023人の者がバビロニ
アに連れて行かれた、とエレミヤ書52章28節には記されている。そしてその中に
は、上級官吏や貴族、専門技術者(特に要塞建築家)、また預言者エゼキエルも含ま
れていた。彼は捕囚の第五年に、その捕囚の地で預言者としての召命を受け、捕囚の
民に預言活動をした。

   (1)ユダ王国の滅亡
 ユダ本国においては、その後ネブカデネザルが、ヨシヤの末息子でエホヤキン
の叔父にあたるマッタニヤを王に任命し、これをゼデキヤと改名させた。この改名も、
かつてエジプトのパロ・ネコがエホヤキムにしたのと同様に、バビロニアのユダに対
する支配権をあらわしている。
 ユダ最後の王ゼデキヤの治世の時代は、バビロニアに服従するか、あるいはエジプ
トに頼ってバビロニアに反抗するか、という問題に終始した。預言者エレミヤは、ネ
ブカデネザルの介入をヤハウエの裁きの行為と解し、ネブカデネザルに服従することを
主張した。エレミヤ書27章には、ゼデキヤの第四年にエドム、モアブ、アンモン、
ツロ、シドンからエルサレムに使者がやってきたことが記されているが、その目的は
バビロニアに反逆する相談であった。エレミヤは、首にくびきをかけてこれに反対し
た。これに対してバビロニアへの反逆を主張したハナニヤは、エレミヤの首からその
くびきを取って砕いた。そこでエレミヤはすごすごと立ち去って行った(28章)。
このことから、エルサレムの宮廷内には、親バビロニア派と反バビロニア派との抗争
が絶えなかったことが想像される。
 さらにエジプトは背後で救助を約束して、扇動していた。エルサレムでこれらの抗
争が行われていた時、エゼキエルが捕囚の地で預言者としての召命を受けた(前59
3年)。
 その内部抗争の結果、ゼデキヤはエレミヤの反対にもかかわらず、ネブカデネザル
に反抗することに決め、朝貢を中止し、臣属関係を破棄した。これに対してネブカデ
ネザルは、ゼデキヤの第九年(前590年)10月10日に、ついにエルサレムを包
囲した。堅固なエルサレムが陥落するまでには一年半もかかった。その間、救助を約
束したエジプトのパロ・ホフラは軍隊をエルサレムに送って一時バビロニア軍の包囲
を解かせたが、エジプト軍は助けるだけの力をもっていなかった。エゼキエルは諸外
国預言の中で、エジプトがいかに頼りにならないかということを語っているが(29
−32章)、この時のことを述べているのであろう。
 エルサレムは兵糧攻めにあい、ついにゼデキヤの第11年(前586年)4月9日
に、城壁に突破口があけられて、バビロニア軍に侵入された。
 その時ゼデキヤは、エルサレムを脱出して東ヨルダンに向かって逃げたが、その途
中エリコでバビロニア軍に捕らえられ、ネブカデネザルの本営の置かれていたシリア
のリブラに護送された。ネブカデネザルはゼデキヤの目の前で彼の息子たちを殺し、
ゼデキヤの両眼をえぐって、鎖につないでバビロンに送った。
 エルサレム征服の一カ月後、明らかにネブカデネザルの命令によって、神殿とエル
サレムの町に火がつけられて、エルサレムは壊滅した。神殿の炎上と共に、恐らくそ
の中に納められていた古い十二部族連合の聖物であった「契約の箱」も焼失したであ
ろう。
 そしてまたもや上層階級が捕囚としてバビロニアに連れて行かれた(第二回捕囚)。
エレミヤ書52章29節によると、この時捕らえ移されたのは832人であった。
 ネブカデネザルは、ユダの国家としての独立を最終的に奪い、これを属州としてバ
ビロニア帝国に編入した。しかし彼は、かつてアッシリアがしたようには、外国の上
層階級をユダに移すということをしなかった。そのためにユダは国家としては滅亡し
たが、そこに住む者はユダヤ人としてのアイデンティティを保つことが出来、捕囚後
はユダヤ教団として存続していくことになるのである。
 ネブカデネザルはゲダリヤという人を行政官として任命した。ゲダリヤは、エルサ
レムがひどく破壊されてしまったので、居をミズパに移した。しかしイシマエルとい
う男を指導者としたバビロニアに反感をもっていた者たちが、このゲダリヤを暗殺し
た。そして彼らはネブカデネザルの報復を恐れてエジプトに逃げるが、その時エレミ
ヤも一緒に連れて行った(エレミヤ書40・7以下)。
 エルサレムの陥落は、イスラエルの人々にとっては決定的な出来事であった。四百
年続いたダビデの王国が終焉しただけでなく、不滅だと信じられていた神の都は破壊
され、神の住まいと信じられていた神殿も破壊されたのである。この事実に直面して、
ユダの人々は(捕囚にいた人々も、ユダに残された人々も)、神に選ばれた民として
の誇りをもっていただけに全くの絶望状況に陥ったようである。
 預言者たちは、神に対する不服従のゆえにやがてこういう形で神の罰が下されると
威嚇してきたが、この預言は成就した。この出来事を目の当りに見た申命記的歴史家
は、こういう結果に至らせたのはイスラエルの人々絶えず神に逆らってきたからであ
る、という視点からイスラエルの歴史を叙述した(ヨシュア記から列王記までのいわ
ゆる「申命記的歴史書」)。そしてエゼキエルも同じ視点でイスラエルの歴史を回顧
している(16、20、23章)。申命記的歴史は、最後に捕囚となっていたエホヤ
キンが牢獄から釈放され、バビロニアの王の厚遇を受けるという記事で終わっており、
将来に希望を残している。

   (2)バビロニア捕囚
 バビロニア捕囚は、合計三回行われた。第三回は、紀元前582年に行われ、
その時は745人が捕らえ移された(エレミヤ書52・30)。だから三回行われた
バビロニア捕囚の人数は、4600人ということになる(これが正確な数かどうかは
不明であるが)。これは本国に残された人から見ると少数であったが、指導者層の多
くが移されたということで、その後の歴史においては。バビロニア捕囚の人々の影響
が大きくなるのである。
 さて、捕囚の民は、強制労働にも駆り出されたが、比較的自由であった。彼らは、
自分たちの住む集落をもっており(エゼキエル書3・15)、家を建て、庭園を造り、
収穫物は自由にでき、結婚もできた(エレミヤ書29・5、6)。しかし彼らは、こ
の地は「異質の国」であり(詩篇137・4)、「汚れた国」(エゼキエル書4・1
3)であると思った。神殿から遠く離れ祭儀行為ができなくなったので、安息日と割
礼とが連帯のしるし、神との契約のしるしとして重要になった。
 また、祭司を中心として、イスラエルの過去の伝承を収集するという作業が活発に
行われたようである。そのような中で、五書(トーラー)が形成され、この時期にほ
ぼ現在の形になったようである。この捕囚の地で活動した預言者に、ゼキエルと第二
イザヤがいる。
 エゼキエルは、前述のように第一回捕囚の時にバビロニアに移された人である。彼
は、エルサレムが陥落する(前586年)までは、イスラエルの不信仰に対する厳し
い裁きの預言をなしたが、エルサレム陥落の報が届いた(33・21−22)後は、
捕囚の民に希望の預言を語るようになった。代表的なのは、37章であり、ここには
谷に散在していた多くの枯骨が、神の息吹を受けて甦る幻が記されている。ただしこ
れは、死人の復活を意味しているのではない(復活思想は、もっと後になって現れる。
例えば「ダニエル書」)。この夥しい枯骨は、祖国の滅亡に直面した人々の全く絶望
した状況を表している。捕囚の民にとって、祖国の滅亡は、イスラエルの神が死んだ
のではないか、と思われたのである。さらにバビロンには、バビロニアの神々の勇壮
な像(例えば主神マルドウク)が至る所にあったからなおさらである。そこでエゼキ
エルはこの幻において、ヤハウエは死んだのではなく、今も生き、捕囚の民にも働き、
大いなる希望を与えるのだ、ということを示されたのである。さらに彼は、40章以
下で、破壊された神殿が立派に再建される幻も、示されている。この幻には、具体的
な図面まで示されている。
 第二イザヤは、イザヤ書40−55章の預言を記した預言者である。これは、名前
が分からないので、便宜上「第二イザヤ」と呼ばれている。彼は、捕囚の末期に捕囚
の地で活動した。彼の個人的なことはほとんど分からない。何回目の捕囚のときに移
されたのか、あるいは捕囚の地で生まれた人なのか、といったことも一切分からない。
彼の書は、「慰めよ、わが民を慰めよ」という書き出しで始まっており、他の預言書
とは趣が非常に異なっている。彼は、捕囚の民に、慰めと希望を与えるために召され
た預言者と言うことができる。この時代、バビロニアは衰退期に入り、新興ペルシア
が徐々に勢力を伸ばしていた時である。彼は前半において、このペルシアの王クロス
神ヤハウエに遣わされた使者であって、やがて捕囚の民を解放するという預言をした。
そしてそれは事実となった。前559年にペルシアの王となったクロスは、550年
に同族のメディアを併合し、アケメネス王朝の基礎を固めた。やがて彼は中央アジア
から小アジアのリディアに至るまで、新バビロニア帝国の北辺をすべてその支配下に
おいた。バビロニアの最後の王ナボニドスはもはや勢力がなく、クロスの進撃の前に
屈し、クロスは無抵抗の中にバビロンに入城し、バビロニア帝国は滅亡した(前53
9年)。