9、ペルシア時代



 紀元前約千年にダビデによって創始されたダビデ王朝も約400年間続いたが、つ
いに新バビロニア帝国によって滅ぼされ、その民は、バビロン捕囚というイスラエル
史においても最も悲劇的な出来事を経験した。しかし、その捕囚も約50年のちには
終止符が打たれることになった。それは、新興ペルシアによってバビロニアが滅ぼさ
れたからである。ここに人間の歴史の栄枯盛衰というものが見られる。このような歴
史を実際に経験して、イスラエルの民は、第二イザヤが言った「草は枯れ、花はしぼ
む。しかし、われわれの神の言葉は、とこしてに変ることはない」という言葉(イザ
ヤ書40・8)をかみしめたことであろう。
 紀元前六世紀の中頃までメディア人の支配下にあったペルシアは、その領主クロス
がメディアの王アスティアゲスを倒して、みずからメディアとペルシアの王として即
位した(前558−529年在位)。そしてクロスは、前539年には、バビロニア
帝国を倒し、バビロニアの領地をも支配することになった。またその後継者カンビュ
セス(前530−522年在位)は、前525年にエジプトをも支配したことによっ
て、歴史においてはじめて、西オリエントの全域をペルシア大帝国は支配することに
なった。そしてこの大帝国は、約200年間存続した。

   (1) 神殿の再建
 ペルシア大帝国は、多くの諸民族を支配することになるが、その政策は大体に
おいて以前の支配者よりも寛大であった。特に諸民族の固有の生活・習慣や伝来の宗
教を守ることには寛容であった。時には、そのような地方の宗教を擁護したり、また
再建したりもした。そういう基本的政策の流れの中で、前538年に、クロスは、バ
ビロンに捕囚になっていたユダヤ人たちが故国に帰還することを許可したのである。
クロスは、エルサレムの神殿の再建を許可しただけでなく、ネブカデネザルが没収し
ていた神殿の器物を返還することも命じた。この勅令のアラム語による原文は、エズ
ラ記6章3−5節に保存されている。
 そして、このエルサレム帰還の指導者としてセシバザルという男が任命された(エ
ズラ記1・11)。木田献一氏によると、このセシバザルは、バビロンに捕囚になっ
ていたエホヤキン王の第四男であり、イザヤ書53章などに歌われている「苦難のし
もべ」のモデルになった人物である(「第二イザヤと苦難の僕」、『旧約聖書の中
心』所収)。同氏によると、セシバザルはダビデ家の家系ということもあって、帰還
の民にメシアとして期待されたが、ペルシア当局によって失脚させられ、非業の死を
遂げた、というのである。
 さて、エルサレム神殿の再建事業は、基礎が据えられた時点で、中断されてしまっ
た。その理由は、ハガイ書1章1−11節の言葉から推測される。すなわち、エルサ
レムとその周囲の地の状況が余りにも悪く、そのために帰還した人々が非常に意気消
沈していたので、彼らが神殿再建の事業に喜びを見付けることができなかったからで
ある。人々は、「主の家を再建する時は、まだきていない」と言っていた(ハガイ書
1・2)。彼らはまだ、自分たちの生活に忙しくしており、神殿再建の事業までには
余裕がなかったのである(ハガイ書1・9)。当時既に、「板で張った家」に住んで
いた人々がいたことは確かであるが(ハガイ書1・4)、それは多分、ほんのわずか
であったであろう。そしてエルサレムの町は依然としてひどく荒れ果て、そこに住ん
でいた多くの人々は、きっと非常にみずぼらしい生活をしていたであろう。さらにま
た、旱魃が起こったりし(ハガイ書1・10−11)、彼らの生活はますます苦しく
なったようである。また、当時ユダ地方は、サマリア州に含まれており、そのサマリ
ア総督の妨害にもあった(エズラ記4・4−5)。そのような事情からエルサレム神
殿の再建事業は頓挫し、約20年間ほうっておかれたのである。
 ペルシア帝国においては、カンビュセス二世の後、政変が起こって多少混乱したが、
ダレイオス一世が支配権を握り(前522−486年在位)、帝国内を安定させた。
彼は、クロスと同様、支配地に対する宗教的寛容を示した。そして、かつてクロスが
出したエルサレム神殿の再建許可の勅令が有効であるとされた。そういう中で、ユダ
ヤでは再び神殿再建の気運が起こり、前520年にバビロンの地からゼルバベルとい
う男が帰還して、この事業を指導した。彼は、バビロン捕囚になったエホヤキン王の
孫に当たり、ダビデ家の家系の者ということもあって、後にはメシア的期待がもたれ
た。
 さて、ゼルバベルは、大祭司ヨシュアと協力してこの再建事業を指導し、また預言
者ハガイとゼカリヤが彼らを支持して、人々に再建事業を激励した。その結果、サマ
リアの再度の妨害はあったが、516年についに第二神殿が完成した。この神殿は、
ソロモンの神殿に比べると貧弱なものであった。その落成の時、ゼルバベルは民族的
英雄となり、ユダヤのメシア(王)に即位されようとしたが、これもやはりペルシア
当局によって失敗したようである。この時、ユダヤの民衆は大いなる挫折を経験した
が、ダビデ家の子孫からメシアが現れるという期待はその後もしばしば起こるのであ
る。

   (2)ネヘミヤ、エズラの活動
 ペルシアの支配の最初の数十年、ユダヤは自分たちの行政権をもたなかった。
これはユダヤが独立した州ではなく、サマリア州の一部をなすものであり、それゆえ
サマリアの総督の統括下に置かれていたからである。独立した行政権をもった固有の
州となるためには、ユダヤは城壁によって守られた自分たちの首都をもたねばならな
かった。しかしエルサレムは廃墟と化しており、その大部分は人が住むことができず、
防衛施設も破壊されたままであった。このような状況を改善しようとしたのがネヘミ
ヤである。
 彼は、ペルシア王アルタクセルクセス一世(前465−424在位、ネヘミヤ記で
は「アルタシャスタ」になっている)の給仕役であった。バビロンに捕囚になってい
たユダヤ人が、ペルシアの支配になっても故国に帰還せずに、ペルシア帝国内で生活
し続けた人々も多くおり(「ディアスポラ」と言う)、中にはネヘミヤのように、か
なりの地位に昇進した者もいた。
 このディアスポラは、エジプトでも共同体を作っており、上エジプトのナイル川の
中にあった島エレファンティネには、この当時ユダヤ人の軍事植民地があった。
 さて、ネヘミヤは、なお悲惨な状態にあったユダヤの状況を聞いて、それを憂い、
町と城壁の再建を王に願いでた。その結果王は、彼を「ユダヤの総督」(ネヘミヤ記
5・14)に任命し(これは実質的にユダヤが独立した州と認められたことを意味し
たであろう)、エルサレムに派遣した(前445年)。この事業にも当然サマリアの
妨害が予想された。そこでネヘミヤは、城壁をできるだけ迅速に再建するために、地
方の住民たちに助力を求め、また城壁を多くの工区に分割して、厳重な警戒のもと、
平行的に作業を進めさせた(ネヘミヤ記3章)。こうして、あらゆる妨害にもかかわ
らず、工事はわずか52日という短期間で完成した。
 廃墟であったエルサレムには余り人が住んでいなかったが、首都としての実質を備
えなければならず、ネヘミヤは他の町々やユダヤの各村落から住民の十分の一の人々
をエルサレムに住まわせることにした(ネヘミヤ記11・1)。
 一方、捕囚の地の祭司の一人であったエズラは、アルタクセルクセス二世(前40
4−358年在位、エズラ記では「アルタシャスタ」になっている)の治下、前39
8年に「天の神の律法の学者」(エズラ記7・12)という職名をもって、エルサレ
ムに派遣された。「学者」という肩書は、ペルシアの公的用語で、官吏や国家の高官
を意味した。「天の神」とは、イスラエルの神ヤハウエに対するペルシア側の公的呼
称であった。
 エズラは、ペルシアから公式の委任を受け、「天の神の律法」を公布するための全
権を与えられたのである。この律法の書は、祭司法典(P)であったと思われる。民
衆は、これを再建ユダヤ人宗教共同体の憲章として受諾することを誓約し、ここに教
団としてのユダヤ教が成立した。また、エズラは外国人との雑婚を厳しく禁じた。そ
のため、サマリア人とはますます敵対的になった(これは新約の時代に至るまでそう
である)。
 セシバザルによる神殿再建の口火、ネヘミヤによるユダ州としての独立、エズラに
よる捕囚後の共同体の礼拝的秩序づけ、これらの例は、捕囚民の間で、どれほど強く
故郷への関心が生きていたかを示し、また捕囚後の再建と新しい秩序への動因が、主
として捕囚民すなわち帰還者の側から与えられたかという事実を明らかにするもので
ある。
 エズラ以後、律法は絶対的で全生活を律する不可欠の実在となった。ペルシア時代
のうちで、エルサレム神殿における犠牲の祭儀と平行して、神殿に結びつかぬ学校や
シナゴーグにおける礼拝が盛んになった。後者は、律法の朗読と講釈、祈りなどを主
たる内容とするものであった。これによって、聖なる書物がますます大きな意味をも
つようになった。遅くとも前四世紀中に、あるいはそれよりももう少し早く、モーセ
五書の最終的編集が完了した。最終編集者は祭司文書とそこに含まれた諸系図を作業
の基礎として用い、さらに捕囚以前の段階で相互に組み合わされていたヤハウィスト
とエロヒストを付け加えた。