10、ヘレニズム時代
紀元前四世紀後半になると、ペルシアは次第に弱体化し、一方マケドニアが興隆し
てきた。アレクサンドロス大王(336−323在位)は、333年のイッソスの戦
いでペルシアのダレイオス三世を撃破し、その後ペルセポリスを陥落させて、ついに
ペルシア帝国は滅亡した。これでもって古代オリエントの時代は終焉した。この後、
イスラエル(ユダヤ)は、地中海世界の帝国の支配に服従することになるのである。
アレクサンドロスは、わずか12年間でペルシア帝国の支配領域をすべて支配下に
治めただけでなく、遠くインダス河にまで遠征して征服して、一大帝国を建設したが、
323年、32歳の若さで病死した。
その後マケドニア帝国の領地は、アレクサンドロスの四人の将軍(ディアドコイ)
によって分割された。ユダヤはそのうちで、最初エジプトを支配したプトレマイオス
王朝に、次にシリアを支配したセレウコス王朝に支配されることになるのである。
プトレマイオス王朝は、ユダヤ人たちに自由に宗教生活をすることを許した。ただ
この時代、パレスチナにもヘレニズム的な影響が多く入りこんできた。ヘレニズム的
様式にのっとった都市や建物が建設されたり、ギリシア式の競技が行われたり、また
一般の生活様式や思想にもヘレニズム的影響が入り込んできた。そしてユダヤ人の中
にはこのような傾向を歓迎するグループもあれば、非常なる反発を覚えるグループも
あった。言葉もギリシア語が公用語として使われるようになり、そのような中で、こ
の時代に聖書のギリシア語への翻訳がなされた。これは、プトレマイオス王朝の首都
であったアレクサンドリアにおいて、70人の学者によって70日間で翻訳されたと
いう伝説から「七〇人訳」と呼ばれている。
(1)マカベアの反乱
前198年、シリアのアンティオコス三世が、パネアスの戦いにおいて、プト
レマイオス五世を破り、これ以後ユダヤはセレウコス王朝の支配下になった。アンテ
ィオコス三世は、ユダヤ人に自分達の宗教生活を自由になすことを許しただけでなく、
いろいろな特権さえ与えた。例えば、犠牲のための経費を国庫から補助したり、聖職
者に対する免税の保証などをした。
しかし、次のアンティオコスW世エピファネス(在位175−163)が王位に即
くと事情は急変した。前168年、アンティオコスW世は、エジプト遠征の失敗の後、
その戦費をまかなうために、エルサレム神殿の財宝を略奪した(Tマカベア1・20
−24)。また、エルサレムの丘にシリア軍の守備兵を置く城塞(アクラ)を建設さ
せ、そこに親ヘレニズム派の人々を住まわせた。さらに、翌167年、アンティオコ
スはユダヤに対する徹底的な宗教弾圧を開始した。彼は、律法の書を火で焼かせ、安
息日や割礼などの律法に従う生活を禁じ、エルサレム神殿にギリシアの神ゼウスの像
を置いて(ダニエル書11・31−32の「荒らす憎むべきもの」)、この礼拝を強
制し、ヤハウエの礼拝を禁じた。さらに、国内の至る所にゼウスの祭壇が建てられ、
人々は強制的にゼウスの礼拝に参加させられたのである。これは、これまでのイスラ
エルの歴史における最大の宗教的迫害であった。この時、聖書の信仰に従ってあくま
でも偶像礼拝を拒否して、ヤハウ
エ礼拝を死守した多くの敬虔な者たち(ハシディームと呼ばれた)は、殉教していっ
た。このような迫害に苦しむ人々を励まし、また復活の希望を与えるために書かれた
のが『ダニエル書』である。
この迫害に対する反乱は、モディンという小さな村から始まった。そこに住む祭司
でハスモン家に属するマッタティアという人物が、前167年に、ゼウスに犠牲を捧
げようとしたユダヤ人とそれを監視していたセレウコス側の役人とを殺したのである。
この一族は、ユダの荒野に逃れて、徹底抗戦を開始したのである(Tマカベア2・1
−41)。ハスモン家の戦いには、ハシディームをはじめとする多くの人々が参加し、
反乱は瞬く間にユダヤ全土に広まった。
前166年にマッタティアが死ぬと、反乱軍の指揮権はマッタティアの三男のユ
ダ・マカベアが引き継いだ。彼は巧みな戦術によって、次々とゲリラ戦に勝利してい
った。数においてもはるかに上回り、よりよい装備をもった敵に対する反乱軍の驚く
べき勝利の理由は、シリア側よりよく土地の事情に通じていたということと、何より
もこれに参加した人々の命を賭けた士気が挙げられるであろう。ユダ・マカベアの活
躍により、この反乱はマカベア戦争(167−162)と呼ばれるようになった。
ユダ・マカベアは、シリア本国から送られて来る軍隊に次々と勝利し、ついにエル
サレムをもシリア軍から解放した。そして、前165年にエルサレム神殿からゼウス
の像と異教の祭壇を取り除き、神殿を清めた。この出来事の記念として「宮清め」(
ハヌカ)の祭りが生まれ、それ以後ユダヤ教では、毎年12月に八日間のハヌカの祭
りが今日に至るまで祝われている。
今やユダヤにおける事実上の支配者となったユダは、イドマヤやギレアデやガリラ
ヤなどに遠征し、周辺の異邦人の支配下に置かれていたユダヤ人を解放した。さらに
彼は、当時のもう一つの勢力であったローマとも同盟を結んだ。しかし彼は、前16
0年、シリアの将軍バッキデスとのエラサでの戦いに敗れ、戦死した。
ユダの死後その弟でマッタティアの第五男であったヨナタンがユダヤ人の指導者と
なった。この時代シリアにおいても権力争いが絶えなかった。その政治的混乱を利用
して、ヨナタンは、前152年に、当時のシリア王アレクサンドロス・バラスから大
祭司の地位を与えられた。ヨナタンは、非常に権謀術数に長けた人物であったようで
あり、後には「将軍」兼「総督」の地位も与えられている。しかしこのようなことは、
熱心なユダヤ教徒からは反発された。特に大祭司の地位は、伝統的にザドク家の者に
限られており、ヨナタンはそうでなかったからである。
シリアの宗教弾圧に対する初期の抵抗運動においては、多くの民衆がこれに参加し
たが、ハスモン家の者が政治的権力を求めるようになると、次第に離れていった。特
に後にパリサイ人となるハシディームの人々は、ハスモン家のやり方には失望を感じ
たようである。
(2)ハスモン王朝
前143年にヨナタンが死んだ後、その兄でマッタティアの次男であったシモ
ンが大祭司の職を引き継いだ。彼は、エルサレムの南東の丘にあった城塞からセレウ
コスの守備隊を撤退させることに成功した。さらに彼は、エルサレムの城壁を強化し、
国内に多くの要塞を建設し、その支配領域を拡張した。港湾都市ヨッパの征服によっ
て、シモンは海上への道をも確保した。また彼は、ユダ・マカベアやヨナタンが樹立
したローマやスパルタとの関係も堅持した。こうして彼は、ユダヤを事実上の独立国
家として再生させた。これは前587年にユダ王国が滅亡した後450年ぶりのこと
であった。これはハスモン王朝と呼ばれ、前30年のローマによる征服まで約百年続
くことになる。
前135年、シモンは暗殺され、その息子ヨハネが後継者に指名され、ヨハネ・ヒ
ルカノス一世として即位した。彼は政治的権力志向の強い人物であり、ユダヤの支配
権を堅持しただけでなく、東ヨルダンや南のイドマヤ(エドム)を攻めて支配権を拡
張し、また107年には、サマリアをも征服した。こうしてこの時代ユダヤは、かつ
てのダビデの時代を思わせる状態を回復したのである。
一方この時代、ユダヤ教の派閥が顕在化した。当時のユダヤ教は、三つの派に分か
れていた。
サドカイ派は、伝統的な大祭司の家系であるザドク家に由来し、祭司を中心に富裕
階級の人々によって構成されていた。思想的には伝統的・保守的で、当時広がりつつ
あった天使、死者の復活、最後の審判といった「新しい」思想を否定していた(マル
コ12・18参照)。
もう一つの派であるパリサイ派は、マカベア戦争の時に抵抗運動に参加したハシデ
ィーム(敬虔なもの)の流れをくむものである。彼らは宗教的自由が回復されること
が目的であって、それ以上政治的権力を志向したハスモン家からは離れていった。彼
らは律法学者(ラビ)を中心として、シナゴグでの律法の解釈と、その律法に従った
厳格な生活を信条とした。思想的には革新的で、天使や死者の復活や最後の審判の思
想を受け入れていた。
もう一つは、エッセネ派である。この派の実態は余り知られていなかったが、19
47年に死海のほとりの洞窟からいわゆる「死海写本」が発見されてから、急速に明
るみに出されてきた。この派は、パリサイ派よりもさらに厳格な律法遵守と独特の清
浄規定によって結ばれた、閉鎖的、秘密的な結社を形成し、財産の共有制に基づく自
給自足的な規律正しい共同生活を営んでいた。死海のほとりには、この集団の代表で
あるクムラン宗団の遺跡も見つかっている。この宗団の創始者は「義の教師」と呼ば
れているが、これは「邪悪な祭司」と呼ばれているハスモン家の大祭司に対する拒絶
を表している。バプテスマのヨハネやイエスもこのエッセネ派と関係があったようだ、
とも言われている。
ハスモン家内部の権力争い、及びユダヤ教各派間の争いは、やがて地中海を支配し
つつあったローマの内政干渉を招き、紀元前63年には、ローマ軍のポンペイウス将
軍がエルサレムを占領し、ユダヤの独立は終わる。