11、ローマ時代
紀元前65年にローマの将軍ポンペイウスがシリアに進撃し、セレウコス王朝最後 の王アンティオコス一三世を退位させ、シリアはローマの支配下になった。さらに6 3年には、ポンペイウスはエルサレムをも占領し、ハスモン家の支配していたユダヤ もローマの支配下になった。ポンペイウスは、パレスチナ・シリア地方をローマのシ リア州にし、そこにローマの総督を置いて統治した。エルサレムのユダヤ教団も当然 このローマ総督の支配のもとに置かれることになった。そして、その時々の総督によ って、エルサレムの大祭司にある程度の政治的権限が認められた。 大祭司は、自分たちの権限を維持するために、その時々のローマの支配者やシリア の総督の好意を得ようと努めた。そのために、ある時はユダヤの民衆から重い税を取 り立てて、民衆の強い反発を買い、暗殺された大祭司もいる(アンティパテル)。 そのような状況の中で、ローマとの関係をうまく打ち立て、権力の座にのし上がっ たのがヘロデである。彼は、イドマヤ(エドム)出身であったが、ハスモン家の女性 マリアンメと結婚することによってかつてのユダヤ王家と姻戚関係を結び、さらに ローマの好意を得ることに成功し、前37年にアントニウスとオクタヴィアヌスの推 挙によって、元老院から「ユダヤの王」に任命された。イエスが生まれたのは、この ヘロデ大王の最晩年の時期である。 (1)ヘロデの支配 ヘロデは、ローマ皇帝になったオクタヴィアヌス(アウグストゥス)の好意を 得ることにも成功し、ユダヤだけでなくサマリアや東ヨルダンの地方をも与えられ、 かつてのダビデの王国に匹敵する領土を支配することになった。 ヘロデは、その治世を通じて、アウグストゥスに忠誠を尽くし続けた。彼は、アウ グストゥスに何度も会見し、またその栄誉を称えるために多くの建築事業を行った。 かつての北王国の首都サマリアを、ヘロデは純粋のヘレニズム都市として全く新しく 再建させ、それをアウグストゥスにちなんでセバステ(アウグストゥスのギリシア 名)と命名した。さらに彼は、地中海に面した「ストラトンの塔」と呼ばれた小さな 町に、技術を尽くした大きな港を開いた。この港の施設は、規模においてアテネのそ れを凌駕するものであった、彼は皇帝を称えるために、この町をカイザリア(皇帝) と命名した。 ヘロデが最も力を注いだ建築事業は、何といってもエルサレムの町の強化である。 そしてその締めくくりとして、エルサレム神殿の拡張工事を行った。この第二神殿は、 捕囚後に再建されたものであるが、ソロモンの神殿に比べるとはるかにみすぼらしい ものであった。ヘロデはこれを、壮麗なものに改築しようとしたのである。これは、 前20年に工事が始められたが、完成したのは何と後64年であった。 このような大建築事業には、ユダヤの民の犠牲なくしてはなく、当然民衆の反感を 買った。そもそも彼は異邦人(イドマヤ人=エドム人)であり、またローマ帝国の手 先と見られた。エルサレム神殿の改築は、ユダヤ人のためであったが、他方では皇帝 の好意を得るためにローマの神々の神殿の建築も行った。何よりも彼は、自分の権力 の座を維持するために、自分の地位を脅かすと思われる者は、その猜疑心から次々と 無き者としていったのである。マタイによる福音書には、イエスが誕生した時に、彼 はベツレヘム地方にいた二歳以下の男の赤ちゃんをことごとく殺した、と言われてい るが、これはあながちオーバーではなく、彼には十分そういう可能性があったのであ る。彼はマリアンメという自分の妻を殺し、また自分の子供のうち三人を殺した。ま た、人々に信望の厚かった大祭司をも殺した。このようなことは、ユダヤの、特に律 法に忠実な人々の反感を買った。 ヘロデは、紀元前4年に病死した。その後、彼の広大な領地は、アケラオ、アンテ ィパス、ピリポの三人の息子に分割された。アケラオはユダヤとサマリアの支配が割 り当てられたが、その後アウグストゥスによって退位させられ、その後この地方は ローマ帝国のシリア州に含められ、総督の支配となった。イエスが活動したのは、ち ょうどこの時であり、その時の総督はポンテオ・ピラトである。 アンティパスは、ガリラヤ地方の支配を割り当てられた。彼は自分の兄弟ピリポの 妻であったヘロデヤと結婚したためにバプテスマのヨハネから非難された。それに腹 を立てたヘロデヤの策略によって、ヨハネは殺された(マタイ14・1−10)。ア ンティパスはまた、イエスの裁判にも立ち会った(ルカ23・7−15)。 (2)ユダヤ戦争 紀元60年代になると、ユダヤ各地に次第に混乱が拡大していった。これは、 長い間のローマ帝国の支配に対する不満、そのような窮状から解放されるという終末 待望、ユダヤ人の間の権力争いなどからである。そのような中で、シカリオイ(短剣 党)という地下運動の結社が起こった。これは、自分たちの衣服の下に短剣(シカ リ)を隠しもち、反ローマ運動に参加しない者を片っ端から暗殺し、市民に恐怖を与 えていた。 ことの発端は、紀元66年に、ユダヤ総督フロルスがエルサレム神殿の宝庫から1 7タラントを略奪したことに始まる。これに対してエルサレムでは暴動が発生した。 フロルスは、この暴動に参加した多くのユダヤ人を十字架刑に処した。ここに、ユダ ヤの民衆とローマ軍との間に戦闘が開始された(ユダヤ戦争、66−70年)。しか し、ユダヤ人は決して一枚岩ではなかった。何とかして戦争を避けようとした穏健派 も多くいたが、戦争強行派が優勢を占めていった。これには、貧困に苦しんでいたユ ダヤの民衆の反ローマの感情があったであろう。そして、シリアの総督ガルルスが、 事態を鎮圧するために第十二軍団を中心とする兵力をエルサレムに送ったが、ベテホ ロンで大敗を喫し、これによってユダヤ人の士気は急速に高まり、これ以降交戦派が 主流となった。しかし、この交戦派内部においては、主導権争いが絶えず起こり、こ れによって自滅の方向へ向かうことになる。 67年、皇帝ネロは事の重大さに鑑み、ヴェスパシアヌスを鎮圧の指揮官に任命し た。彼は息子のティトゥスと共に、三軍団六万の兵を率いて、まずガリラヤを攻めた。 ガリラヤの反乱軍の指揮をしていたのは、後の歴史家ヨセフスである。彼は元々穏健 派であり、圧倒的なローマ軍に勝利する見込みはないと知ると投降した。彼はその後、 ローマの厚遇を受け、この戦争のことを『ユダヤ戦記』という書に詳細に記すことに なる。 さて、ヴェスパシアヌスはエルサレム以外の地をほとんど手中に収め、エルサレム への攻撃を開始しようとした時に、ネロの死の報に接し、急遽ローマに引き返した。 この時、ユダヤの反乱軍は態勢を整える絶好の機会であったのに、指導権争いに終始 し、多くの犠牲者が出た。その後、ヴェスパシアヌスがローマ皇帝に任命されたので、 彼はユダヤに対する指揮を、息子ティトゥスに任せた。 70年春、ティトゥスは、エルサレムに総攻撃をかけ、夏には神殿に火がつけられ、 秋にはエルサレムが滅亡した。ティトゥスは、神殿の宝物を戦利品とし、反乱の指導 者を捕虜にして、ローマに凱旋した。この時の行進の光景がローマの凱旋門の浮彫に ある。 その後、反乱軍の一部は、マサダの要塞に立てこもった。このマサダは、周囲を絶 壁に囲まれた岩山で、かつてヘロデがここに堅固な要塞を作っていた。ローマ軍は将 軍シルヴィアの指揮のもと、二年もかかってここを落としたが、立てこもっていた九 六〇人のユダヤ人は、二人の婦人と五人の子供を残して、全員自決した。 その後、132−135年に、バル・コクバに指導された反乱が起こり(第二次ユ ダヤ戦争)、一時エルサレムを解放するが、またもやローマ軍に鎮圧された。そして これ以後ユダヤ人はエルサレムから追放され、ユダヤという名称さえ剥奪された。そ れ以後、この地方はパレスチナ(ペリシテ人の地)と呼ばれることになるのである。 (3)イエスと新しいイスラエル 二度のユダヤ戦争において、古代イスラエルの歴史は終わった。しかし、神の 民が消滅したのではない。この時代に活動したナザレのイエスによって、新しいイス ラエルが起こされたのである。 イスラエルは、シナイ山での契約(古い契約)を通して、神の民として出発した。 そして彼らは、神の意志に忠実に従うことによって、全人類の救いを目指す使命が与 えられていた。しかし彼らは、神の戒めに不忠実であり、「神を愛し、隣人を愛す」 ことから遠く、その使命を十分には果たすことができなかった。そして、その時々に 預言者が現れて、彼らの罪を指摘し、神に立ち帰るようにと勧め、そうでなければ神 の裁きは避けられない、と宣べた。そして、紀元前六世紀の初めの国家滅亡は、その ような罪に対する裁きだと理解された。 そのような中で、本来の神との正しい関係を回復するメシアの到来が預言された。 特に第二イザヤと言われている預言者は、多くの人の贖いのために苦しむしもべの預 言をなした(イザヤ書53章)。そして、キリスト教会においては、ナザレのイエス が、この預言を実現した人だと告白された。そして、このイエスを真のメシアだと信 じる群れ(新しいイスラエル)によって、イスラエルの歴史は継承されている、と言 えるであろう。