1、ルカによる福音書1章8ー23節
「み言葉の成就」
今日の箇所は、洗礼者ヨハネの誕生が予告される記事である。 8ー9節。「・・・」 洗礼者ヨハネの父は、ザカリヤという祭司であった。 そして、その妻は5節にあるように、アロン系の祭司の娘で、エリサベツとい う人であった。 アロン家というのは、祭司の中でも最も由緒ある家柄であった。 二人とも、祭司の家に生まれ、小さい時から神に仕え、敬虔な信仰を持ってい たようである。 6節。「・・・」 5節にザカリヤはアビヤの組であった、と記されている。 この当時、神殿に仕える祭司は非常に多く、2万人以上いた、と言われている。 ダビデ王は祭司を24の組に分けたが、アビヤの組というのは、その8番目の 組であった。 各組は1週間ずつの当番制で神殿の奉仕をしていたので、24の組があったと いうことは、年2回その当番が回って来ることになる。そして、その当番の時 に、神殿の奥に入って香をたくというのが、最も名誉ある仕事であった。 そしてそれは、非常に多くの祭司がいたので、くじで決めたのである。 聖書によく、くじで決めるということがあるが、このくじは神の意志だと考え られていた。 さて、最も名誉ある神殿の奥に入って香をたくという仕事は、くじの結果ザ カリヤに当たった。 その時、天使ガブリエルが彼の前に現れた。 突然のことに、ザカリヤは「おじ惑い、恐怖の念に襲われた」とある。 13節。「・・・」 この恐怖の念に襲われているザカリヤに、天使はまず、「恐れるな」と言う。 ガブリエルがマリヤに受胎告知をした時も、同じように「恐れるな」と言って いる。 30節。「・・・」 さて、ザカリヤは、何故恐怖の念に襲われたのであろうか。 「主の使いを見て」とある。 人間は聖なる者に出会うと恐れを感じるのである。 ルドルフ・オットーという人が『聖なるもの』という本を書き、この教会のか つての牧師・山谷省吾先生がそれを訳されて岩波書店から出された。 この本の中で、オットーは、聖なるものに接すると人間は恐れの感情を抱く、 ということを言っている。 人間は、普段は自分の汚れに気がつかないが、余りにも聖なるものに出会う と、それに気付き、恐れるのである。 預言者イザヤが召命を受けた時もそうであった。 イザヤの召命の記事は、イザヤ書6章に記されているが、彼は神殿にいた時、 突然神の栄光に接した。 その時、彼は自分の罪を非常に深く感じさせられたのである。 その時、彼は次のように言った。 「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者 で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる 王を見たのだから」、と。 私達は普段、汚れたものの間に住んでいるので、自分の罪や汚れに気付かない。 ちょうど、黒い物の上に汚れがついても目立たないのと同じである。しかし、 真っ白の物の上に汚れがつくと非常に目立つ。 それと同じように、私達ももし聖なる神の前に出るならば、自分の汚れには っきりと気づかされるのである。 その時、私達はきっと恐怖の念に襲われるであろう。 ここでザカリヤは、ちょうどそのようであった。 しかし、ここでそういう恐れの念に襲われたザカリヤに、み使いは「恐れる な」と優しく呼び掛けるのである。 そして、彼の祈りが聞かれて、男の子が生まれる、そしてその子の名前をヨハ ネと名付けるように、と言う。 ヨハネというのは、「神は恵み深い」という意味である。 そして、その子は特別な子となるであろう、と言う。 15ー16節。「・・・」 ここに、「ぶどう酒や強い酒を一切飲まず」とある。 これは、旧約聖書に出て来るナジル人の誓いである。 旧約聖書には、神に身を捧げたナジル人というのがいた。 サムソンやサムエルがそうである。 彼らは、生まれる前に、既に母親がナジル人にすると、神に誓いをして生まれ てきた子である。 エリサベツの場合、生まれて来た子をナジル人にするという誓願は記されてい ないが、あるいはあったのかも知れない。 このナジル人の特徴は、髪の毛を切らないということと、ぶどう酒などを飲ま ないということであった。 サムソンは髪の毛を切らなかった。 そしてその髪の毛に怪力の秘密があったことは有名である。 「ぶどう酒や強い酒を飲まない」というのは、酒を飲むと酔っ払うから、とい うよりは、農耕文化の拒否なのである。 ぶどう酒は勿論ぶどうから作り、強い酒というのは、麦やりんごなどから作っ たもので、いずれも農耕文化の所産である。 ナジル人が、何故農耕文化を拒否したかと言うと、イスラエルがカナンの偶像 礼拝によって罪を犯したのは、バアルなど農耕文化の神々を崇拝したからである。 彼らは、この農耕文化が唯一の神ヤハウェから背かせるものだ、と考えたのである。 そこで、ナジル人は、敢えて農耕文化の所産を拒否して、純粋な信仰を守ろう としたのである。 洗礼者ヨハネは、大きくなって、荒野に住み、「らくだの毛ごろもを身にまと い、腰に皮の帯をしめ、いなごと野密とを食物としていた」と言われている が、これはすべて農耕文化の拒否である。 ナジル人は、純粋な神信仰を守るために、このような禁欲的な生活を送ったの である。 そして、今ザカリヤの子として生まれてこようとしているヨハネは、そのよう なナジル人として、純粋な神信仰を求める者である、というのである。 純粋な神信仰を求める者は、まず悔い改めを求める。 16節。「・・・」 「神に立ち帰らせる」というのは、旧約の預言者が常に求めたものである。 「帰る」というのは、本来の所に戻る、ということである。 放蕩息子が、放蕩ざんまいした揚げ句に父の家に戻って来た、父の家が本来の 自分の所だと気付いて戻って来たのである。 人間は本来神に忠実に従うべきものとして造られた。 しかし、いつしか人間は本来の家から離れてしまい、自分勝手に歩いてきた。 そして本来の家がどこかもう忘れてしまったのである。 預言者は、このような人達に、本来の家である神に立ち帰るようにと、叫び続 けてきたのである。 そして、そのようにして、キリストの到来に備えてきたのである。そして、最 後にエリヤのような預言者が再び現れて、キリスト到来の最後の備えをする、 と信じられていた。 そして、この最後の備えをするエリヤのような預言者が今ザカリヤに与えられ る、とみ使いは言うのである。 17節。「・・・」 ヨハネは、キリストの到来を最終的に備える預言者として生まれる、というの である。 しかし、ザカリヤは、このみ使いの言葉を信じなかったのである。 18節。「・・・」 ザカリヤは、信仰深い敬虔な人であった。 しかし彼は高齢のアブラハムに子が与えられたという旧約聖書の出来事を忘れ ていたようである。 そういうザカリヤに、天使ガブリエルは、20節で、「時が来れば神のみ言葉 は成就する」ということを言う。 この信仰こそ、旧約聖書から新約聖書を貫いている根本的な信仰である。 旧約では、言葉というのは、と言うが、これが複数になると出来事という意味 になる。 即ち、ここには主が言葉を発すると、それは必ず出来事となる、という信仰が ある。 天地創造の物語りは、このことを端的に示している。 神は「光りあれ」と言った。 するとそれは出来事となり、光があった。 ヨハネによる福音書の冒頭は、「初めに言葉があった」というものである。 そして、1:14を見ると、「そして言葉は肉体となり、私達のうちに宿っ た」とある。 即ち、ここでは神の言葉はイエス・キリストというお方において成就したこと を言っている。 天使ガブリエルが時が来れば、成就するわたしの言葉問いうのは、キリスト の到来を備える預言者ヨハネがザカリヤに生まれる、ということである。 そしてこのことは、五百年も前からイスラエルにおいては待ち望まれていた。 それが余り遅いので、待望と同時に諦めの気持ちをもっている人たちもいた。 しかし、天使ガブリエルは言う。 「時が来れば神のみ言葉は、成就する」と。 私達もこの信仰を堅く持つものでありたい。 聖書は神の言葉である。 人間が自分の考えによって書いたものではない。 人間が書いたものなら、当てにならない場合もある。 しかし、聖書は、神のみ言葉である。 神の言葉は、人間の言葉とは違う。 そして、神の言葉は必ず成就する。 そして、それはイエス・キリストにおいて成就したのである。 そしてルカはそのことを冒頭に言っている。 1;1A。「・・・」 神がアブラハムに与えた約束は、神は人間を祝福する、ということであった。 そして旧約聖書の言っている言葉は、神は人間を救うということである。 そしてそれは、救い主イエス・キリストにおいて成就した。 新約聖書は、そのイエス・キリストによって、私達一人ひとりが救いに入れら れ、大いなる希望に生かされることを言っている言葉である。 私達の歩みは、「神のみ言葉は、必ず成就する」、という信仰を持って、歩む 歩みでありたい。 (1988年12月11日)