2、ルカによる福音書1章39ー56節
「マリアの信仰」
先週、エルサレムの祭司ザカリヤが、聖所の中で香をたく当番に当たったとこ ろ、その中で天使ガブリエルが現れ、妻エリサベツに男の子が与えられることを 告げられた、ということを学びました。 そして、この天使の言葉は実現し、エリサベツは老年ながら子を身ごもりまし た。 このエリサベツは、マリアの親戚に当たりましたので、マリアはお祝いを言うた めにエリサベツの住んでいたエルサレムの近くの町に行きました。 すると、逆にマリアの方が祝福されました。 42ー45節。 あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。主 の母上がわたしのところにきてくださるとは、なんという光栄でしょう。ご らんなさい。あなたのあいさつの声がわたしの耳にはいったとき、子供が胎 内で喜びおどりました。主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女 は、なんとさいわいなことでしょう。 ここでエリサベツは、何よりも、マリアの信仰をほめている。 45節で、「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女」と言われてい ます。 これとは対照的に、エリサベツの夫ザカリヤは、20節の所で「時が来れば成就 するわたしの言葉を信じなかった」といわれています。 聖書では、神のみ言葉を信じる、ということが重要なこととして主張されていま す。 さて、これに対して、マリアは、主をほめたたえる歌を歌います。 46節から55節の括弧の中は、「マリアの賛歌」と言われています。 これは、マリアの神に対する信仰の告白だと言うことが出来るでしょう。 最も、この歌が実際にマリアによって初めて歌われたかどうかは、分かりませ ん。 むしろ当時の教会で歌われていた讃美歌であったようです。 46節の最初の言葉「わが魂は主をあがめ」は、ラテン語でMagnificat anima mea Dominum と言いますが、この最初の語をとって、マグニフィカートと言われ ています。 「たたえる」という意味です。 これは、神をほめたたえる賛歌として、教会では古くから歌われています。 そして、このような賛歌は、旧約聖書からの伝統です。 サムエル記上2章に、ハンナという人が子供を与えられた時捧げた賛歌がありま すが、これによく似ています。 このマグニフィカートには、イエスの誕生のことは、直接には言われていませ ん。 49節前半に、 力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。 とあります。 従って、この賛歌は、神が大きな業を行った時に、ほめたたえる歌として歌われ ていたもののようです。 詩篇などにもこれと似たものがありますが、そこでは出エジプトの出来事が思い 起こされています。 しかし、私達にとって、最も大きな出来事は、「救い主の誕生」という事であ りましょう。 この救い主が私達に与えられたことを思い、私達もマリアと共に、主をあがめた いと思います。 49節に、神は私達に「大きな事をして下さった」と言われていますが、この 「大きな事」は、人間にはしばしば「大きな事」とは映りません。 ヨハネによる福音書の記者も、1章11節で、イエスがこの世に来られたことに ついて、 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった と言っています。 ルカによる福音書2章10節で、羊飼いたちに現れた天使は、 恐れるな、見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝え る と言っていますが、この「大きな喜び」を喜ぶことの出来たのは、わずかの羊飼 と、当方から来た博士たちだけでした。 多くの人たちは、この「大きな喜び」を認めることが出来なかったのです。 この神の与えた「大きな事」は、しかし人間の目には中々「大きな事」とは映 らないのです。 マリアは、1章38節で、 わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように と言いましたが、主の与えた「大きな事」を認めるには、信仰が必要でありま す。 48節前半。 この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。 イエスの誕生には、卑しいとか、小さいとか、低いとか、貧しい、ということが 言われ、おおよそ「救い主の誕生」にふさわしくないような気がします。 とても人間の目には、「大きな事」とは映りません。 48節の「卑しい女」というのは、社会的に地位が低かった、ということを意味 しています。 ヨセフにしても、マリアにしても、ガリラヤの片田舎の貧しい人々でした。 誰に注目される、ということもありませんでした。 そして、この卑しい貧しい女に心をかけて下さったというところに、神のなす大 きな業があります。 そして、この卑しい貧しい女の胎内に宿っているイエスも、低く貧しい方でし た。 それはただ、卑しい者を顧み、人間の低さを顧みたもうたお方に留どまるのでな く、むしろ自ら人となって人間の卑しさ、低さを引き受け、恥辱に満ちた十字架 の死を遂げたもうた救い主であります。 ピリピ人への手紙2章にある「キリスト賛歌」も、このマリアの賛歌と同様に古 代の教会で歌われていたものです。 その6ー8節には次のようにあります。(P.309) キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事 とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿 になられた。 いと高き神のみ子が、このような最も卑しい人間の運命を負って、ご自身を逆転 させたもうたのです。 このキリストにおける神の逆転こそが、人間を価値の逆転へと導くのです。 そして、このキリストが、終わりの時に、人間を正しく裁きの下に置かれる、 ということが言われています。 私達は、この言葉を厳粛に聞かなければなりません。 51ー53節。 主はみ腕をもって力をふるい、 心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、 権力ある者を王座から引きおろし、 卑しい者を引き上げ、 飢えている者を良いもので飽かせ、 富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。 これは、終末時における神の秩序であり、これは信仰の目でもってしか見ること が出来ません。 51節に「主はみ腕をもって力をふるい」とありますが、これは神が大きな事 をなすときにつかわれる表現です。 旧約聖書においては、出エジプトの出来事にこれがよく使われます。 この世においては、「心の思いおごり高ぶる者」は栄えています。 しかし、キリストの支配する時には、そのような者は追い散らされる、と言われ ています。 私達は、マリアが「私は主のはしためです」と言って言葉を心して聞かなければ なりません。 何よりも神のみ子が、自ら低くして、卑しい、貧しい所に生まれ給うたことを考 えなければなりません。 そして、私達もおごり高ぶるのではく、自分の貧しさ、小ささに気付かなければ なりません。 52節に「権力ある者を王座から引きおろし」とあります。 私達は、王座にのぼるほどの権力をもってはいませんが、権力を得たいという傾 向はあります。 他の人より力をもちたい、他の人を支配したい、という気持ちはあるのではない でしょうか。 何よりも、主イエスがこの権力欲を全くもっていなかったことを思わなければな りません。 マルコによる福音書10章42ー45節。(P.69) あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、そ の民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しか し、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがた の間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしら になりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。人の子がきた のも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがな いとして、自分の命を与えるためである。 次に53節後半に「富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます」とありま す。 私達の間で飢えている人は、恐らくいないでしょう。 むしろ、飽食日本と言われている国において、私達は毎日ごちそうを食べている のではないでしょうか。 しかし、今も食べる者がなくて、毎日何万という人が飢えのために死んでいって いることを忘れてはなりません。 イエスが譬えで言っているように、豊かな農夫が自分の事しか考えず、あり余る 程の収穫物が取れたのに、貧しい人々の事を考えず、それをしまう所のことしか 考えなかったが、それに対して神は「自分のために宝を積んで神に対して富まな い者は、不幸である」と言いました。 自分の事しか考えない、富んでいる者に、主は「空腹のまま帰らせる」と言いま す。 神は最も富んでおられるのに、私達のために貧しくなられました。 コリント人への第二の手紙8章9節。 あなたがたは、私達の主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、 主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あ なたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである。 神は、私達を豊かにするために、自らは貧しくなられたのです。 これが、救い主の誕生です。 神は私達に憐れみを施すために、み子をこの世に送られたのです。 54ー55節。 主は、あわれみをお忘れにならず、 その僕イスラエルを助けてくださいました。 わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とを とこしえにあわれむと約束なさったとおりに。 神の最後の目標は、私達を裁くことではなく、私達を救うことです。 ここにアブラハムに約束した、とあります。 これは創世記12章に、神が「地のすべてのやからは、あなたによって祝福され る」と言われている約束のことです。 神の目的は、地のすべての人々が神に祝福される、ということです。 イエス・キリストの誕生は、このアブラハムに約束されたものの成就なのです。 2章10節に、「すべての民に与えられる大きな喜び」とあります。 救い主の誕生は、私達に与えられた大きな喜びです。 この大きな喜びは、本来私達にふさわしくないものです。 私達は、ややもすると思い上がり、また権力をもとめ、また飢えている者に思い やりを欠く者です。 しかし、このような私達をも主は、憐れみを忘れずに、救い主を与えて下さった のです。 私達に求められているのは、マリアが信じたように、「救い主の誕生」がとり もなおさず、私達に与えられたということを信じることです。 そしてそれを心から喜び、感謝を捧げることです。 私達も、マリアのように、主の言葉が必ず成就する、という信仰を持ちたいと思 います。 (1990年12月9日)