4、ルカによる福音書2章1ー7節

  「キリストの誕生」



 今日は、主イエスがお生まれになった日を記念するクリスマスです。
神が私達に救い主をお与え下さったことを思い、心からお祝いしたいと思いま
す。
ルカによる福音書を書いたルカは、コロサイ人への手紙には「医者ルカ」と記さ
れており、医者であったようです。
彼はまた、歴史家でもありました。
彼は、ルカによる福音書と使徒行伝を書きますが、その所々に、当時の歴史的事
件を差し挟んでいます。
そして彼は、イエスの誕生を記すに当たって、世界史の大きな出来事との関連で
述べています。
 1節。
  そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が皇帝アウグストから出た。
このアウグストというのは、ローマ帝国の初代の皇帝です。
イエスの誕生を記すに当たって、まずその当時の一番の権力者を持って来るので
す。
このアウグストの時、ローマは、安定しており、「ローマの平和(pax romana)
」と言われていました。
彼は多くの国々をその支配下に治めており、それらの属国から税金を徴収するた
めに、何度か人口調査を行った、ということが記録に残っています。
 ルカは、イエスが生まれたのを、ローマ皇帝が行った人口調査という歴史的出
来事と関連づけるのです。
いかにも歴史家らしい記述の仕方です。
イエスの両親の故郷は、4節にあるように、ガリラヤのナザレでした。
このナザレは、イスラエルの領地から言うと、ずっと北の方にあります。
そしてイエスの生まれたユダヤのベツレヘムは、イスラエルの領地から言うと、
ずっと南の方にあります。
人口調査の登録は、先祖の町で行わなければなりませんでした。
イエスの父ヨセフの先祖の町は、ベツレヘムでした。
そこで二人は、北のナザレから南のベツレヘムに旅をしたのです。
旅と言っても、この旅は決した楽しい旅ではありませんでした。
否むしろ、苦しくて悲惨な旅でした。
マリアは、既に臨月に近く、余り無理は出来ない状態であったでしょう。
また、ヨセフは、この旅のために仕事も休まなければならなかったでしょうし、
旅の費用も自分達で都合しなければならなかったでしょう。
二人は、出来ることならこの旅に出たくなかったでしょう。
しかし、彼らは、絶大な権力を誇ったローマ皇帝に命令に逆らうには、余りにも
無力な存在でした。
イエスは、まさに、ローマ皇帝の絶対権力に翻弄されるような形で誕生したので
す。
ローマに平和と安定をもたらした皇帝アウグストは、人々から救い主(σωτη
ρ)と呼ばれていました。
しかしルカは、そのように皇帝に翻弄されるようにして生まれたイエスこそが真
の救い主だ、と主張するのです。
11節。
  きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生まれになった。このか
  たこそ主なるキリストである。
ルカは、当時人々から救い主だと言われていた絶対権力者の皇帝アウグストでは
なく、イエスこそが救い主だ、と言います。
ルカは、ルカによる福音書と、それの続編として使徒行伝を書きました。
使徒行伝は、キリストの福音が異邦人の世界に伝えられ、ついにはローマに届い
たことを記録しています。
そして、キリストの福音はローマ世界全体に受け入れられて、多くの人に希望と
生命を与えて行くのです。
そして、キリストこそ真の救い主であることが全世界に受け入れられて行くので
す。
ルカは、そういう所までを視野に入れて、イエスの誕生をローマ皇帝の命令から
書き始めるのです。
 イエスは、当時の絶対権力者ローマ皇帝アウグストの命令に翻弄された形で生
まれましたが、実は本当の救い主は、このローマ皇帝でなく、無力な形で生まれ
たイエスである、ということをルカは言いたいのです。
 皇帝アウグストが、自分の支配した国々で人口調査を行ったということは、記
録から確かめることが出来ます。
そして、紀元前7年頃、パレスチナで人口調査が行われたことも分かっていま
す。
従って、イエスが生まれたのは、大体紀元前7年位であろうかと思われます。
当時の人口調査の主な目的は、支配した国からどれくらいの税を徴収することが
出来るか、ということを知るためでした。
 サムエル記下24章には、かつてダビデが、自分の国の人口調査を行ったため
に、神の怒りに触れた、ということが記されています。
ダビデが人口調査をしたとき、何故神は怒ったのでしょうか。
ダビデは、広大な領地を支配するようになりました。
そこで彼は、自分の力、勢力というものを知りたくなったのでしょう。
そして、自分の国からどれ位の兵を集めることが出来るかを調べたくなったので
しょう。
そして、これが信仰的態度でないと、神の怒りを買ったのでしょう。
ダビデの人口調査は、自分の力、自分の勢力の大きさを確認するためのものでし
た。
ダビデが神に信頼していた時は、自分の力を確認するとか、自分の勢力を誇る、
というようなことはなかったのです。
自分の力の小ささを知り、それゆえ常に神に頼ったのです。
 私達も、自分に力がつき、自分に自信がもてるようになると、その力がどれ位
かを確認したくなり、そしてその力を誇りたくなります。
そして、そういう時が危険なのです。
そういう気持ちになると、神に頼ろうという態度から遠くなり、信仰から遠ざか
るからです。
山上の説教に「こころの貧しい人たちはさいわいである」という有名な言葉があ
ります。
これを、共同訳聖書では、「ただ神により頼む人々は、幸いだ」と訳しました。
これは、原文からするとかなり意訳なので、訳としては問題だ、ということで、
今度の新共同訳では、また元のように「心の貧しい人々」となりました。
しかし、共同訳は、原文に忠実ではないかも知れませんが、内容をよく捉えたい
い訳だと思います。
人間は、自分に何かもてるものがあったり、誇るべきものがあったりすると、そ
れに頼ります。
しかし、それのない人は、神に頼ります。
「心の貧しい人たち」というのは、自分自身に何等誇るべきものがない人々とい
うことです。
 さて、人口調査は、国力を確認するものです。
皇帝アウグストの行ったのは、支配国の人口を調査するものでした。
それは、どれだけの人々を支配しているかということの確認と、同時にその支配
国からどれだけ税金を取ることが出来るか、ということを調べるものです。
従って、支配されているユダヤの人々にとっては、この人口調査は、何の益もな
く、むしろ屈辱と苦しみでした。
皇帝の命令ひとつで、ヨセフとマリアは、ガリラヤの町ナザレから先祖の故郷で
あるユダヤのベツレヘムに旅しなければなりませんでした。
ここには、全く無力な貧しい、そして悲惨な姿しかありません。
一方は、全世界を支配する絶対権力者、他方は全く無力な貧しい者。
しかし、全世界の救い主は、この絶対権力者から生まれたのでなく、全く無力な
貧しい者から生まれたのです。
 そして、これは神のみ子の誕生にはふさわしくないかも知れませんが、これが
神のご計画でした。
 6ー7節。
  ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、初
  子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余
  地がなかったからである。
救い主は、家畜小屋で産まれました。
家畜の糞などの悪臭の漂う所です。
7節bに「客間」とありますが、これはいわゆる「宿屋」ではありません。
普通の家の食べたり、寝たりする部屋です。
この時代のパレスチナの庶民の家は、普通、一間しかありませんでした。
真ん中にいろりのようなものがあって、その回りで家族全員が食べたり、寝たり
するのです。
 ヨセフとマリアは、恐らく親類の家に泊まっていたと思われますが、しばらく
滞在しているうちに、その部屋からは追い出され、家畜小屋に回されたのでしょ
う。
そして、そこで出産したのです。
ここには、貧しさと悲惨さしかありません。
神の子の誕生としては何とみじめな誕生でしょう。
しかし、イエスは、貧しさの中に生まれたので、私達の貧しさを知り、悲惨の中
で生まれたので私達の悲惨さを知っておられます。
苦しみの中で生まれたので、私達の苦しみを知り、私達の苦しみを共に担って下
さいます。
 11節のところで、御使は野宿していた羊飼たちに「あなたがたのために救主
がお生まれになった」と言いました。
悲惨と貧しさの中に生まれたイエスは、私達の救主です。
否、この私の救主です。
私達を真に救い得るお方は、このイエス・キリスト以外にありません。
 マリヤとヨセフは、本当に貧しかったのです。
しかし、貧しいが故に、自分には何の頼るべきものがなく、神に頼る以外にな
かったのです。
そして、マリヤもヨセフも素朴な純粋な信仰を持っていました。
 1章38節。
  そこでマリヤが言った、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身
  になりますように」。
ここには、自分の頭で考えて納得したというのでなく、頭では分からないけれど
も、すべてを主に委ねているマリヤの信仰があります。
ヨセフも、すべてを神に委ねる信仰の持ち主でした。
貧しい中に救主イエス・キリストが生まれてきた背後には、このヨセフとマリヤ
の純粋な信仰がありました。
 私達も、救い主イエスを受け入れるには、素直な信仰が必要です。
マリヤやヨセフのように、ただ神により頼む信仰必要です。
 皇帝アウグストは、その当時全世界を支配する絶対権力者でした。
命令一本で、人々をどのようにも動かすことが出来ました。
その命令によって、ヨセフとマリヤは旅をして、ベツレヘムという片田舎に行
き、その貧しい中でイエスが誕生しました。
しかし、その貧しいベツレヘムという片隅で、世界の救いの出来事が起こったの
です。
 そして、皇帝アウグストの命令も、実は神のご計画でありました。
救い主イエスが、ダビデの町ベツレヘムで生まれるというための計画でありまし
た。
また、旅先の悲惨の中で生まれたのも、私達の悲惨を救うための計画でした。
私達は、この神の遠大な救いの計画を信じたく思います。
そして、その救いの計画に私達も入れられていることを心から受け入れる者でありたい
と思います。 神は、私達を救うという計画のもとに、イエスを誕生させたのです。 イエスこそ私達の救い主です。 救い主の誕生を心から喜びたいと思います。 (1990年12月23日)