6、ルカによる福音書2章22ー32節

  「シメオンの祈り」



 今日は、1990年の最後の聖日礼拝です。
今年1年を振り返って、私達に与えられた神の恵みを思い、感謝の気持ちをもっ
て礼拝を守りましょう。
 「最後良ければすべて良し」という諺があります。
今日のテキストに出て来るシメオンという人は、人生の最後の最後に幼子イエス
に出会い、これに救いを見いだし、幸せのうちに死んでいきました。
このように、人生の最後に喜びを見いだすことが出来るならば、実に幸せだと思
います。
 しかしシメオンは、たまたまこういう幸せに遭遇した、というのではありませ
ん。
25節を見ますと、
  この人は正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでい
  た。また聖霊が彼に宿っていた。
とあります。
彼は常日ごろから信仰深い人であったのであります。
その信仰の目でもって、幼子イエスを見たときに、この幼子に救いを見いだした
のです。
 マリアとヨセフが神殿にやって来た光景は、ごくありふれた光景でした。
大部分の人は、それに目もとめず、注目する、ということはなかったのです。
大部分の人は、それに目も止めず、注目するということはなかったのです。
両親が赤ちゃんを連れて神殿にやってくるというのは、ごくありふれた事であ
り、この日も他にも何組かの両親が同じようにして、神殿にやって来ていたこと
でしょう。
 神殿にやって来たというのも、特に信仰深かった、というのでなく、当時のユ
ダヤ人は子供が生まれた後は、皆神殿に詣でることになっていたのです。
 22節。
  それから、モーセの律法による彼らのきよめの期間が過ぎたとき、両親は幼
  子を連れてエルサレムへ上った。
ここで「モーセの律法によるきよめの期間」とありますが、レビ記の規定を見ま
すと、男子を出産したときは40日間、女子を出産したときは80日間、母親は
汚れている、と言われています。
イエスは、男の子であったので、40日間が汚れの期間という訳でした。
この産後の汚れの期間というのは、宗教的なものでしたが、産後はしばらく無理
をせずに静かにしている、という実際的なことからも来ているようです。
とにかく、汚れの40日間の期間が過ぎたので、ヨセフとマリアは、幼子イエス
を連れてエルサレム神殿に上ったのです。
 この宮詣での目的は二つあります。
すなわち、一つは母親の汚れを清めてもらうということと、他の一つは幼子を神
にささげる、というものです。
24節。
  また同じしゅの律法に、「山ばと1つがい、または、家ばとのひな2羽」と
  定めてあるのに従って、犠牲をささげるためであった。
これは、母親の汚れを清めてもらう時の供え物の規定です。
ところが、レビ記12章の規定を見ますと、燔祭として小羊と罪祭として家ばと
のひなか山ばとのひな、とあります。
そして、小羊を買うことの出来ない人は、ここのテキストにあるように、山ばと
か家ばとで代用することが出来たのです。
小羊1匹を求めるというのは、相当高価でした。
貧しい者は、それを買う余裕はありませんでした。
そのような貧しい者には、小羊の代わりにはとで代用することが許されていまし
た。
ヨセフとマリアの家は貧しかったので、小羊を買うことが出来ずに、はとで代用
した、ということなのでしょう。
 もう一つは、23節です。
  それは主の律法に「母の胎を初めて開く男の子はみな、主に聖別された者
  と、となえられねばならない」と書いてあるとおり、幼子を主にささげるた
  めであり、
これは初子を神に捧げるというものです。
子供は、本来神から与えられたものでありますので、神に返さなければなりませ
ん。
そして、そのしるしといて、最初の子を神に捧げたのです。
しかし、実際に子供を燔祭に捧げる訳にいきませんので、その代わりに動物を捧
げたのです。
収穫感謝の時も、収穫物の初穂を神に捧げましたが、これも一番いい初穂を捧げ
ることによって、神から与えられた収穫物の全部を神に返すという気持ちを表し
たのです。
 これらのことは、非常に形式的ではありますが、その根本にあるものは、非常
に重要なことをしめしていると思います。
すなわち、聖書の考えからすると、子供は神のものであって、親の所有物ではあ
りません。
本来は、神に返すべきものです。
それゆえに、親のエゴで子供を育てるのではなくて、神のみ旨に従って育てるべ
きものです。
 このようにして、マリアとヨセフは、律法の規定に従って、エルサレム神殿に
やって来た平凡な貧しい夫婦でした。
特に人目を引くとか、注目すべき存在というのでもありませんでした。
しかし年老いたシメオンの目には、この貧しい身なりの幼子が救い主である、と
写ったのです。
信仰の目をもつというこは、他の人には気付かないごくありふれたことの中に神
の働きを見ることが出来るのです。
信仰の目をもつ人は、普通の人が何とも思わないことの中に神のみ旨を悟るので
す。
 この当時のユダヤ人の多くは、メシアの出現を待望していたのです。
一方では、政治的メシアが待望されていました。
すなわち、ユダヤをローマの支配から救い、地上の王国を実現する強力な王で
す。
イエスに対しても、このような政治的メシアとして期待した者も多くありまし
た。
しかし、他の一方では、政治的な解放者でなく、精神的な救いをもたらす、メシ
アも待望されていました。
シメオンは、「イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた」とあります。
これはただユダヤをローマから解放して独立を勝ち取る、というのではありませ
ん。
傷つき、苦しみにあっている者を本当に救うものです。
第二イザヤは、捕囚の苦しみにあっているイスラエルの民に慰めの福音を伝えま
した。
イザヤ書40:1に「慰めよ、わが民を慰めよ」とあります。
これは、イスラエルを本当に慰めるキリストの預言です。
シメオンは、苦しみにあっている自分たちを本当に根本的に救うメシアを待ち望
んでいたのです。
シメオンは相当の高齢であったと思われます。
37節に女預言者アンナは、84歳であったと記されていますが、シメオンは恐
らくもっと高齢であったでしょう。
そして、このイスラエルの真の慰め主の出現をもう50年以上も待ち続けていた
のです。
しかし、このメシアに実際に会うことが出来るという希望を堅くもっていまし
た。
26節。
  そして主のつかわす救い主に会うまでは死ぬことはないと、聖霊の示しを受
  けていた。
 そしてついにとうとう待ち望んでいたイエスに会うことが出来たのです。
このときの老人の感激はいかばかりであったでしょうか。
宮に現れたのは、貧しい身なりの若い夫婦と、粗末な衣を着せられた赤ん坊でし
た。
また、捧げられている犠牲も、貧しい人の捧げるはとでした。
しかし、聖霊の導きを受けていたこの老人は、この幼子が、待ち望んでいた本当
の慰め主だということが分かったのです。
そこで彼は29ー32節の讃歌を歌いました。
この讃歌は、ラテン語では、Nunc dimitis(今こそ汝は去り行かせ給う)という
語で始まっているので、Nunc dimitisと言われています。
この讃歌は、古代教会では、臨終のときに歌われた、と言われています。
待ちに待ったものがついにやって来た。
救いを確信しつつ死ぬことが出来る、ということです。
シメオンは、幼子イエスに「救いを見た」と言っています。
本当の慰め主イエスに出会って、救いを見たのです。
シメオンは若い時から、この真の慰め主を待ち望んでいたのです。
そして、長い人生において、いろいろなことがあり、これが本物のメシアかと何
度も思わされ、また何度も失望してきたでありましょう。
しかしながら、人生の最後の最後に、ついに「救いを見た」のです。
 私達も、イエス・キリストに「救いを見た」という確信をもちたい。
シメオンは、人生の最後の最後に、この救い主に出会うことが出来ましたが、私
達には既に主のイエスが与えられています。
私達は、長い人生の間に、いろんなことに遭遇し、いろんなものに救いを求めた
こともあるかも知れません。
しかし、真の救いは、このイエス・キリストをおいてほかにありません。
本当の慰め主は、イエス・キリストのみであります。
パウロは、コリント人への第二の手紙1:4で次のように言っています。
(P.278)。
  神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わ
  たしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中
  にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。
何故キリストが真の慰め主なのでしょうか。
それは、キリストが最も深い苦しみを経験されたからです。
ヘブル人への手紙の記者は、次のように言っています。
2:18。(P.345)
  主のご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助
  けることができるのである。
そして、その苦難は、実は私達のためであったのです。
シメオンも、幼子イエスに「救いを見た」と言っていますが、この幼子に既に苦
難を見ています。
34節。
  するとシメオンは彼らを祝し、そして母マリアに言った、「ごらんなさい、
  この幼子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするた
  めに、また反対を受けるしるしとして、定められています。」
イエスは、ただ上から苦しむ者に同情する、というのでなく、苦しむ者と共に苦
しみ、悲しむ者と共に悲しみました。
否、苦しむ者の苦しみを身代わりになって引き受けられました。
それゆえ、真の慰め主であります。
私達は、このキリスト以外に真の慰め主をもちません。
 1年の終わりの礼拝において、このシメオンの讃歌を学ぶことは意味のあるこ
とです。
先週クリスマスをお祝いしましたが、私達に最大の贈り物としてイエス・キリス
トが与えられたのです。
私達も、このキリストにはっきりと「救いを見たい」と思います。
1年を終わるに当たって、イエス・キリストに「救いを確信」し、祝福のうち
に1年を終えたい。

(1990年12月30日)