7、ルカによる福音書2章41ー51節
「父の家にいる」
イエスの少年時代の記事を記しているのは、聖書においてはルカによる福音書 だけです。 マルコによる福音書とヨハネによる福音書は、イエスがもう大人になって、バプ テスマのヨハネから洗礼を受ける所(公生涯と言いますが)からはじまっていま す。 また、マタイによる福音書には誕生物語りはありますが、そこから大人になり 洗礼を受ける所に飛んでいます。 もっとも、新約聖書の外典にはイエスの少年時代の記事を記したものがありま す。 例えば、「トマスによるイエスの幼時物語」というのがありますが、ここではイ エスが5歳から12歳までの間に行った数々の奇跡が記されています。 例えば、5歳のイエスが、泥をこねて12羽の雀を作り、それらを飛ばしたなど という話しです。 しかしそのようなただ奇跡を伝えるだけの話は、私達の信仰とか救いには余り関 係がなく、そのために正典には入れられなかったのでしょう。 ルカが伝えているこのイエスの12歳の時の話は、私達の信仰にとってより重要 なことが記されています。 41ー42節 さて、イエスの両親は、過越の祭には毎年エルサレムへ上っていた。イエス が12歳になった時も、慣例に従って祭りのために上京した。 ユダヤ教の規定によりますと、成人したユダヤ人は年3回の大祭には、エルサレ ムに巡礼することになっていました。 そのうちで最も重要とされたのは、過越の祭でした。 そして、ユダヤ人の成人式は13歳ですから、13歳になるとこのような宗教的 義務が課せられたのです。 イエスは、この時まだ12歳でしたから、そういう祭りに参加する義務はなかっ たのですが、イエスの両親は、敬虔な人であり、子供が小さい時から宗教的な雰 囲気に慣れさそうとして、恐らくそれ以前からもエルサレムの巡礼には連れて来 ていたと思われます。 そしてこれは、一種の宗教教育、信仰の教育です。 伝道の書に「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」というみ言葉があり ますが、恐らくマリヤもヨセフも、イエスに小さい時から宗教的な教育をしたと 思われます。 子供の時の宗教教育というのはとても大切だと思います。 小さい時から、両親に連れられて礼拝に来ていますと、おのずと信仰的な子に育 ちます。 純粋は子供の時に、造り主なる神の信仰を伝えることは、その人の一生を形成し ます。 その意味で、教会学校の業は、非常に大切だと思います。 43ー45節。 ところが、祭りが終わって帰るとき、少年イエスはエルサレムに居残ってお られたが、両親はそれに気付かなかった。そして道連れの中にいると思いこ んで、1日路を行ってしまい、それから、親族や知人の中を捜しはじめた が、見付からないので、捜しまわりながらエルサレムへ引き返した。 巡礼の旅は、その町の人が一緒に行くのが習慣でした。 それは、途中盗賊などの災難から身を守るのにも都合が良かったからです。 イエスはナザレの町の人でしたので、恐らくナザレの人が皆一緒に旅をしたので しょう。 マリヤやヨセフも、イエスがてっきりその群れの中にいるものだと思っていたの でした。 しかし、1日旅をしてやっとイエスのいないことに気がついたのです。 随分のんびりしているようですが、同じ町の人が大勢で旅をする場合、このよう なことは珍しくはなかったでしょう。 そして、イエスを捜して歩いているうちに、エルサレムまで戻って来た、という のです。 最初はすぐ見付かるだろうと思っていたでしょうが、中々見付からないので、恐 らく両親は次第に心配になったでしょう。 46節。 そして三日の後に、イエスが宮の中で教師たちの真ん中にすわって、彼らの 話を聞いたり質問したりしておられるのを見付けた。 ちょうど祭りの巡礼の時でしたから、エルサレムには、各地から巡礼に来た大勢 の人でごった返していたでしょう。 そういう所で人を捜すのは大変でしたでしょう。 三日間捜し回ってやっと見付けたということは、まさか神殿にはいないだろう、 と思って神殿は後回しにされたのでしょう。 しかしイエスは、そのまさかの神殿にいたのです。 そして、イエスは、ユダヤ教の律法を教えるラビたちの間で話を聞いたり、質問 したりしていたというのです。 ただし、ここでイエスがラビたちに教えていたというのではありません。 よく宗教画などで、あたかも少年イエスが先生になって、皆に教えているような 印象を受けますが、決してそうではありません。 「彼らの話を聞いたり、質問したり」とありますから、むしろイエスの方が律法 のことを教えてもらっていたのでしょう。 確かにイエスは、賢くて向学心旺盛な少年であったようです。 イエスの両親は、貧しかったので、イエスには特別な教育を受ける機会はなかっ たでしょう。 ユダヤ人の一番大切にしていた律法についても専門的に教えてもらう機会はな かったでしょう。 そこで、このエルサレムに来た機会を捉えて、ユダヤ教のラビたちに色々律法の ことを教わり、また質問をしたのです。 そして三日間も神殿にいた、ということは、イエスの向学心、熱心が思い浮かば れます。 そしてそういう受け答えに、12歳にしてはとてもしっかりしている、というこ とで周りの人達が驚いた、というのです。 イエスは、大人になって伝道活動を始めてからは、しばしば律法学者やパリサイ 人と論争をしました。 そして、そのような時の彼の律法についての知識は、このようなエルサレム巡礼 の時にラビたちに教えてもらったものが基礎となっていたのでしょう。 48節。 両親はこれを見て驚き、そして母が彼に言った、「どうしてこんな事をして くれたのです。ごらんなさい、お父さまもわたしも心配して、あなたを捜し ていたのです」。 ここには、いなくなった子供を心配して一生懸命捜していた親の気持ちがよく現 れています。 私達も、我子がもし同じように迷子になり、一生懸命捜した後に、見付かった 時、恐らく同じような言葉を吐くでしょう。 「どうしてこんな事をしてくれたのです」という言葉には、怒りも込められてい ます。 しかし、それは普通の母親の態度でしょう。 逆に言えば、それほど我子のことを心配していた、ということになるでしょう。 これに対してイエスは、どう答えられたでしょうか。 49節。 するとイエスは言われた、「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自 分の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」。 この言葉は、福音書において、イエスが語られた最初の言葉です。 もちろん、イエスはそれ以前にもいろいろ語られていましたが、福音書に書き留 められたものとしては、これが最初の言葉です。 そして、この発言は、非常に重要な発言です。 母親は、いなくなった我子を一生懸命捜した、そのことにしか関心がありませ ん。 しかしイエスは、人間存在の根本を言っているのです。 すなわち、「わたしは父の家にいる」ということです。 イエスのおられた所は神殿でした。 そして神殿は、神の家と考えられていました。 そういう意味で、「父の家にいる」というのは、神殿にいる、ということなので しょうか。 そうではなく、むしろ、わたしの存在は父(神)のものだ、ということです。 マリヤは、そうではなく、イエスは自分の子である、と強く思っているのです。 ですから、自分の意に沿わないことをしたイエスに非常に腹を立てたのです。 それはしかし母親としては当然のことでしょう。 肉的な考えではそうです。 しかしイエスの言っているのは、もっと根本的なことです。 肉的なことではなく、霊的なことです。 子供は決して親の所有物ではありません。 子供は、根本的には、神のものです。 それを親は預かっているだけです。 従って、神のみ旨に従って育てるべきであって、決して親の思いや期待を押し付 けるのではありません。 また、子供というのは、親の期待通りではありません。 しかし親は、往々にして、子供を自分の所有物と考えがちです。 そのために、親の期待を子供に押し付けたり、また期待通りにいかなかったら、 腹を立てたり、ということがあります。 それが高じると、幼児虐待などということも行われるのです。 自分の子供に保険金をかけて殺すというようなことは論外としても、子供を親の 思い通りにしたい、という親は多いと思います。 しかし、子供は必ずしも親の期待には沿わないし、親の思い通りにもならないも のです。 それでもそれが神によってその子に与えられた素質なのです。 親は、自分の期待を子供に押し付けるのではなく、その子の神から与えられた素 質を大切にし、それを育てる責任があるのです。 私達の存在そのものは、神のものなのです。 それをイエスは、「わたしは自分の父の家にいる」と言っているのです。 そして、イエスの生涯は、その父のみ旨に従順に従う生涯でした。 十字架の死に至るまで。 それでは、私達は肉親の親はどうでもいいのでしょうか。 決してそうではありません。 51節。 それからイエスは両親と一緒にナザレに下って行き、彼らにお仕えになっ た。母はこれらの事をみな心に留めていた。 イエスは親から離れ、エルサレムに留どまり続けたのではありませんでした。 また、親に反逆したのでもありません。 再び肉親の親と行動を共にし、さらに郷里において彼らに仕えた、とあります。 イエスの家は、貧しい暮らしでした。 イエスには、少なくとも男の兄弟が4人おり、女の姉妹が2人いました。 そしてイエスは長男でしたから、早くから家計を助けるために父の大工の仕事を 手伝っていたようです。 そのような家族の世話を一生懸命して、彼らに仕えたのです。 そのような肉親の親に仕えるということと、私達の存在そのものが父なる神のも のであるということとは、別ではありません。 イエスはここでは、根本的には、私達の存在が父なる神のものである、というこ とを言っているのです。 私達は、肉体的には親から生まれてきましたが、私達の生命そのものを与えて下 さったのは、父なる神です。 従って、私達の生も神のためのものです。 イエスは、「私は自分の父の家にいる」と言われましたが、私達もまたそうで す。 私達は、神のみ心に従った歩みをしたいと思います。 (1991年1月27日)