8、ルカによる福音書3章3ー14節
「洗礼者ヨハネの活動」
福音書では(これは4つの福音書ともそうですが)、イエスの活動に先立っ て、洗礼者ヨハネの活動を伝えています。 歴史家であったルカは、その活動を世界史の事柄と関連づけています。 すなわち、その頃は、世界史的にどういう時代であったか、ということを記して います。 1ー2節。 皇帝テベリオ在位の第15年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデが ガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイツリヤ・テラコニテ地方の領主、ルサ ニヤがアビレネの領主、アンナスとカヤパとが大祭司であったとき、神の言 葉がザカリヤの子ヨハネに臨んだ。 ルカは、イエスの誕生の時も、「皇帝アウグストの人口調査の時であり、クレニ オがシリアの総督であった時」と記しています。 ローマ帝国の最初の皇帝は、アウグストであり、この皇帝の時にイエスは生まれ ましたが、次の皇帝がここで言われているテベリオです。 彼は、紀元後14ー37年まで治めました。 そしてヘロデとあるのは、イエスが生まれた時のユダヤの王であったヘロデ大王 の息子です。 ヘロデ大王は、絶大な権力をふるい、多くの地を支配していましたが、その死後 は3人の息子に領地が分割されて遺されたのです。 その一人はこのガリラヤの領主ヘロデ(アンティパス)とその兄弟ピリポです。 もう一人の兄弟はアケラオという人で、ユダヤの領主でしたが、この時代にはも う死んでいませんでした。 さて、このような時代にヨハネに「神の言葉が臨んだ」とあります。 この「神の言葉が臨んだ」というのは、旧約聖書の預言者によくある表現です。 すなわち、預言者は、自分の考えや思いを述べるのでなく、神から示された言葉 を人々に伝えるのが仕事でした。 そこで旧約聖書の預言者は、しばしば、「主なる神はこう言う」と言って、神の 言葉を伝えました。 コリント人への第一の手紙などを見ますと、初期の教会にも預言者がいた、とい うことが言われています。 これはただし、旧約の預言者のように神から直接言葉を与えられたのではなく、 神の言葉である聖書を教えた人であろうと思われます。 今の説教者のような働きをした人です。 キリストが神の言葉を成就したのですから、もはや預言者は必要なくなったので す。 それに代わって、神の言葉たる聖書が与えられているのです。 そして教会の務めは、この聖書を正しく解釈して宣べ伝える、ということです。 そしてこれは、説教という形で、世々の教会に受け継がれたのです。 ですから、教会では(特にプロテスタント教会では)説教が重んじられますが、 これは神の言葉である聖書を正しく解釈して、これを現代の状況の中で聞き直 す、ということです。 従って、説教者は、自分の考えや思想を伝えるのでなく、あくまでも聖書の意図 するところを正しく宣べ伝えなければなりません。 それは人間の力では無理なので、常に聖霊の導きを祈りつつなされなければなり ません。 聖書の意図する所を正しく捉えるために、聖書の釈義ということが重要です。 日本基督教団の教師になるための試験(教師検定試験と言いますが)があり、私 もその検定委員になっています。 3月にもその検定試験がありますが、その時にまず受験者に説教を書いてもら い、それをあらかじめ見ます。 説教を採点するということは大変難しいことですが、釈義をきちんとして、聖書 の意図する所を正しく押さえているか、ということが基準になります。 時々、聖書の意図とは余り関係なく、自分の意見や主張を述べているもの、ある いは自分の苦労した体験談を述べているものがあります。 そのようなものは、いくらいい話しであっても、説教としてはふさわしくない、 ということになります。 さて、ヨハネはどのような活動をしたでしょうか。 3節。 彼はヨルダンのほとりの全地方に行って、罪のゆるしを得させる悔い改めの バプテスマを宣べ伝えた。 この「悔い改め」も、旧約の預言者の伝統です。 この悔い改めというのは、本来の所に立ち帰る、ということです。 人間は本来神との関係に生きるように創造されました。 創世記の創造物語において「神の形」に造られた、と言われています。 この神の形(Imago Dei)が何か、ということに関しては昔からいろいろ議論が ありますが、神のみ心に従う存在ということではないかと思われます。 しかし人間は楽園において神の意志に逆らって、善悪の木の実を食べました。 また神は、モーセを通して、神の意志である戒めを与えましたが、イスラエルの 民は歴史においてこの戒めに背いてきました。 そこで預言者が遣わされ、その罪を指摘し、人々に悔い改めを宣べたのです。 神の戒めを守り、人間が創造された本来の姿に立ち帰れ、と叫んだのです。 バプテスマのヨハネは、その旧約の預言者の伝統を受け継いだものと言うことが 出来ます。 ヨハネは、バプテスマを受けようとしてやって来た人々に非常に厳しい事を言 いました。 7ー8節。 さて、ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出てきた群衆にむかっ て言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、のがれられる と、おまえたちにだれが教えたのか。だから、悔い改めにふさわしい実を結 べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。 おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を 起こすことができるのだ。 ここにアブラハムとありますが、これは言うまでもなく、創世記に記されている 人物です。 この当時のユダヤ人は、アブラハムの子孫であるということを非常なる誇りにし ていました。 アブラハムは、神によって特別に選ばれた人物であったので、ユダヤ人はその子 孫ということで、彼らは神に特別に選ばれた者だ、という誇りがありました。 いわゆる選民思想です。 彼らは「自分たちの父にはアブラハムがある」と言って、自分たちは特別な民族 なのだ、と誇っていたのです。 ついでに言いますと、イスラム教のアラブ人も、彼らの先祖はアブラハムだと言 っています。 そこで、イスラム教においても、アブラハムは非常に尊敬されているのです。 パレスチナでは、ユダヤ人とアラブ人がしばしば対立し、争っていますが、元を 正せば、両者とも同じアブラハムの子孫なのです。 アブラハムは、確かに、神の言葉に忠実に従った信仰の人でした。 しかし、その子孫だからと言うことだけで、無条件に神の恵みを特別に受けた者 だ、と言うのは間違っている、とヨハネは言うのです。 人間はしばしば、過去の遺産を誇ります。 また、自分の先祖に偉い人がいたら、それを誇ろうとします。 しかし、過去の偉い人がいても、現在のその人がどうか、ということが問題なの です。 聖書においては、その個人が重要であり、その個人が尊重されるのです。 またその個人に責任があるのです。 エゼキエルという預言者が活躍した時代に、一つの諺が流行りました。 それは、「父たちが、酢いぶどうを食べたので子供たちの歯がうく」というもの です。 これは、子供の歯が悪くなった原因は、父が酢いぶどうを食べたからだ、と言う ものです。 これは一種の因果応報の考えです。 エゼキエルの時代、ユダの国はバビロニアによって滅ぼされ、民は非常に悲惨な 運命を経験しました。 そして、人々は、このような悲劇の原因は、自分たちの先祖が罪を犯したから だ、と考えたのです。 すなわち、自分たちの悲惨を先祖の責任に転嫁したのです。 それが先程言ったような諺となったのです。 しかしエゼキエルは、そのように先祖たちの責任にしてはならない。 そうではなく、自分たちをこそ顧みるべきだ、と言い、捕囚の民に悔い改めを宣 べました。 人間は、個人個人が神の前にどうあるかが問題であって、よい事でも悪い事でも 自分のことを先祖や他人の責任にしてしまうのは間違っています。 ここでも洗礼者ヨハネは、自分たちの先祖にアブラハムがあるとして、それで もって、神に選ばれているとして、あぐらをかいていたユダヤ人を厳しく非難し ました。 そのように先祖に立派な人がいたということにあぐらをかくのでなく、現実の自 分を神の前に謙虚に顧みて悔い改めることが重要だ、と言うのです。 そのような悔い改めの説教を聞いた人々はどうしたでしょうか。 10節。 そこで群衆が彼に、「それでは、わたしたちは何をすればよいのですか」と 尋ねた。 これはみ言葉を真剣に聞いた人の正しい態度です。 み言葉を聞いてもそれに対して何の応答もなければ、それは聞き流しただけで す。 本当に聞いたならば、「何をすればよいのですか」という問いが出るはずです。 これはみ言葉を聞いた時だけでなく、いろいろな時にもそれを本当に聞いた時、 「何をすればよいのですか」という問いが出ます。 例えば、今湾岸戦争で、多くの犠牲者が出、また避難民の輸送ということが話題 になっています。 これらのニュースを毎日聞いて私達自身の力で戦争をやめさせることは出来ない でしょう。 しかし、悲惨なニュースが毎日流れて来る中で、ただ指をくわえている訳にもい かないでしょう。 私達に何か出来ないか、という問いが出て来るのではないでしょうか。 そして例えば、自衛隊機を飛ばさないために、民間機をチャーターして避難民を 輸送することがカトリック教会を中心にして進められています。 こういう所への募金などであれば、私達にも出来ます。 さて、ここでバプテスマのヨハネはそれらの問いに一様の答えをしていませ ん。 それぞれに、違った答えをしています。 すなわち「何をしたらいいのですか」という問いには、一定の決まった答えがあ るというのではありません。 ヨハネは、旅行者には、「下着と食糧を半分、持っていない人に分けてやりなさ い」と言い、取税人には「規定のもの以上に取り立ててはならない」と言い、兵 士には「脅したりだまし取ったりしてはならない」と言います。 すなわち、み言葉への応答は、決して一様ではなく、個人個人にふさわしいやり 方がある、ということです。 そして本来は、これらのことは命じられるのでなく、自発的になされるべきもの です。 ルカによる福音書19章では、ザアカイの話がありますが、ザアカイはイエスに 出会って悔い改め、イエスから命じられたのでなく、自らの意志で、「自分の財 産の半分を貧しい人に施します」と言いました。 ザアカイは、イエスに出会い、悔い改めの気持ちを持ったのですが、ただ気持ち を持っただけでなく、恐らく「それでは何をすればいいのですか」という問いを 持ったのでした。 しかしそれをイエスに問うのでなく、自分に問い、そして自分で答えを出してい るのです。 これが成人した信仰者の在り方でしょう。 人から「こうしなさい」と命じられて、しかも不承不承するのでは余り意味があ りません。 大体そういうふうにするには、喜びがありません。 しかし、ザアカイの場合は、イエスに出会い、自分の罪が赦された体験をし、そ の喜びから、自発的に自分の財産の半分を貧しい人に施すという決断になったの です。 バプテスマのヨハネの場合、まだイエスのような立場に至っていませんでした が、人々に悔い改めを宣べ伝えた、ということで、イエスの業の先駆的な働きを しました。 私達も常に神に立ち帰り、そこで「何をすればよいのですか」ということを真剣 に問うことを日々の生活の中で行っていきたいと思います。 (1991年2日17日)