9、ルカによる福音書4章1ー13節
「荒野の試み」
今はレント(受難節)の期間です。 今年のレントは、2月13日の「灰の水曜日」から始まり、3月31日の復活日 までの40日で、聖日は除きます。 これは、キリスト復活への準備と、特にキリストの受難を覚える期間です。 40日という期間は、キリストの荒野の試みに先立つ40日の断食に基づいてい ます。 3章21節に、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受ける記事があり、その後イ エスの公生涯が始まりますが、その公生涯の始めに、この悪魔の試みにあわれま した。 イエスは、最後は苦しみを受けて十字架にかけられますが、その出発から既に受 難が始まっていた、ということが言えます。 40という数は、旧約聖書においてもしばしば用いられています。 例えば、イスラエルの民がエジプトから脱出した後に、荒野で40年さまよっ た、と言われています。 イエスもここで、「荒野を40日のあいだ御霊にひきまわされた」と言われてい ます。 この両者には関連があると思います。 すなわち、イスラエルの民が約束の地カナンでの歩みを始める前に、厳しい自然 条件の荒野で40年放浪しなければならなかったようで、公生涯の歩みをなすに 当たってイエスは荒野で40日の断食をした後に悪魔の試みに会われたので す。 しかし、イスラエルの民も荒野では常に神の導きがありました。 水がなく、人々が皆喉が渇いた時、モーセが杖で岩を打つと、水が与えられまし た。 また、食べ物がなく、人々が飢えた時、神は天からマナを降らせたり、うずらを 飛んで来させたりして、人々を養いました。 イエスの荒野の試みも、「御霊にひきまわされた」とあります。 すなわち、イエスの荒野の試みは、聖霊の導きによってなされたもの、というこ とです。 もっと言えば、聖書において試みを受けるということは、神に愛されているから なのです。 イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けた時、天から声がありました。 3章22節。 聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り、そして天から声がした、 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。 またヘブル人への手紙の著者も「主は愛する者を訓練し、受け入れるすべての子 を、むち打たれるのである」と言っています。 試みを受けるということは、神が私達を愛して下さっている証拠だとも言えま す。 聖書で偉大な人物と言われている人は、軒並み試練を受けています。 アブラハムは、たった一人与えられたイサクを捧げるようにという試練を受けま した。 ヨセフは、兄弟たちによって、エジプトに売られる、という試練を受けました。 またヨブは、すべての財産すべての子供を失うという試練にあいました。 しかし神は、その愛する者を試練に放置するのでなく、常に助けの手を差し延べ られました。 パウロは次のように言っています。 コリント人への第一の手紙10章13節(267ページ)。 あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あ なたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりが、試練と 同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。 そしてその試練の目的は、それを通して、私達が駄目になることではなく、神と の交わりがより深められるためなのです。 私達にも試練が与えられるとすれば、それは神が私達を愛し、また神との交わり が深められるためなのです。 そしてまた、私達には、イエスから「主の祈り」が与えられています。 すなわち、「我らを試みに会わせず、悪より救い出し給え」という祈りです。 さてここで、イエスは、悪魔の試みにあわれた、とあります。 悪魔は聞くに耐えないいやらしい声と醜い姿においてではなく、かえって美しく 甘いささやきと魅惑的な姿をとって私達に近付いてきます。 そして、私達の一番の弱点をよく知っています。 創世記3章の堕罪の物語りは、そのことを見事に表現しています。 その所で、蛇は、「園の中央の木の実を食べると、神のように善悪を知ることが 出来る」と言って誘惑したのです。 神のようになる、というのは、人間の根本にある欲求です。 イエスに対する三つの誘惑も、結局はそれなのです。 人間は人間にとどまらずに、何物かになりたいという欲求があります。 しかし、聖書によれば、人間はあくまで人間であって、神とは厳然と区別される のです。 そしてイエスは、神の子でありながら、神のみ心に忠実に従い、徹底的に人間に とどまり給うたのです。 最初の人間アダムとエバは、蛇の誘惑に負け、己を神の位置に置こうとし、その ために神に忠実に従うことが出来なかったのです。 そして、それが罪です。 悪魔とは何か、というのは、聖書においてもそうはっきりしている訳ではあり ません。 ヨブ記には、サタンが出てきますが、他にはそれほどはっきりした形では出てき ません。 むしろ聖書以外のユダヤ教の文献に出てきます。 ルカによる福音書のここでも、実体的なものというよりも、何か象徴的なものの ように思えます。 先程の堕罪物語りでもそうであったように、誘惑は人間の心の中に潜んでいる欲 求に起因しているようです。 そして、この欲求が個人によって、そればかりが集団全体によっても、もはや制 御出来ない超人格的な力となる場合があります。 そしてそれが悪魔という表現になるのです。 さて、イエスはここにおいて三つの試みを受けます。 この三つの試みは、人間の持つ最も深い欲求です。 第一は、パンの問題です。 3ー4節。 そこで悪魔が言った、「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンに なれと命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけ で生きるものではない』と書いてある」。 イエスは、40日間の断食で非常なる空腹になっておられました。 このような時に一番大事なのは、パンだろう、と悪魔は言うのです。 それに対してイエスは「そうではない」と言うのです。 イエスはここで、パンはどうでもいい、と言っているのではありません。 イエスは、ある時には、自分についてきた多くの群衆が空腹なのをご覧になっ て、5つのパンを2匹の魚で養いました。 この時イエスは、「人はパンだけで生きるものではない」などとは言いませんで した。 イエスの教えた大切な「主の祈り」においても、「我らの日用の糧を今日も与え 給え」という祈願があります。 従って、イエスはパンを求めてはならない、などとは言っていないのです。 「パンだけで」と言っています。 すなわち、パンを最優先するのではなく、もっと大事なものがある、ということ を言っているのです。 イエスの引用したのは、申命記8章3節のみ言葉ですが、これには続いて「人は 主の口から出るすべての言葉によって生きる」という言葉があります。 人間にとってパンも大事であるが、もっと大事なのは神の言葉である、というこ とです。 イエスは「山上の説教」では、「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれ ばこれらのもの(パンなど)は、すべて添えて与えられるであろう。」と言って います。 パンというのは、ただパンだけでなく、私達の日常の必需品と言ってもいいでし ょう。 あるいは、経済と言ってもいいでしょう。 私達の社会では、経済が最も大切だ、という風潮があります。 これは何も資本主義社会だけでなく、共産主義社会でもそうです。 ソ連は経済が破綻し、市場経済を導入せざるを得なくなりました。 しかし、経済を最優先することからいろんな弊害が起こりました。 公害の問題、環境破壊の問題、そして何よりも精神の荒廃という現象が起こって します。 そして、神の創造された真の人間の姿から遠ざかっています。 そしてそれはつきつめれば、パンを最優先する考えから来ています。 そうではなく、人間は神によって創造された者であるので、まず神のみ言葉に聞 くということを最優先しなければ、実は真の人間からは遠ざかるのです。 そして悪魔がイエスに試みたのは、パンを最優先させることによって、イエスを 神から遠ざけようとしたのです。 しかし、イエスはその誘惑を退けました。 第二の試みは、支配欲の問題です。 5ー8節に記されていますが、悪魔は、もし自分にひざまずく(礼拝する)なら ば、世界のすべての国々を与えよう、と言うのです。 人は皆、他を押さえつけてその上に立とう、自分のグループを、いや、もし出来 れば全世界を支配し、これを足元に置こうとする願望をもっています。 しかしこれは、究極的には自分を神とすることです。 その意味で、悪魔を礼拝することになるのです。 イエスの答えは、申命記6章13節からの引用ですが、これは十戒の第一戒のこ とです。 すなわち、「あなたは私の他に何物をも神としてはならない」ということです。 これは聖書の最も根本的な信仰と言うことが出来るでしょう。 今から52年ほど前、日本基督教会大会議長・富田満牧師が、海を渡って朝鮮の 教会に神社参拝を勧めに行きました。 天皇礼拝は国民の儀礼であって、聖書に反しないと。 その時、朝鮮のチュギチョル(朱基徹)牧師が立ち上がって言いました。 「神社参拝は明らかに第一戒を破っているのに、どうして罪にならないと言われ るのですか」、と。 1944年2月、チュ牧師は4年にわたる獄中生活の後、日本の警察の拷問の果 てに殉教の死を遂げました。 「ただ神にのみ仕えよ」と言われたイエスも同じ道を選んだことでしょう。 第三の試みは、奇跡、超人的な力への欲求です。 これは9ー12節に記されていますが、悪魔はイエスを高い神殿の頂上に立たせ て、「ここから飛び下りてごらんなさい。あなたが神の子であるなら御使いが助 けてくれるでしょう」と言いました。 それにたいしてイエスは、「主なるあなたの神を試みてはならない」と言いまし たが、これは申命記6章16節の引用です。 これはマッサという所での出来事が背景にあります。 イスラエルは荒野をさまよった時に、飲む水がなくて苦しみました。 その時、イスラエルは、神は必ず自分達を助けて、水を与えて下さるはずだ、と 思ったのですが、すぐには与えられなかったので、つぶやきました。 その時のことです。 ここには、自分達は神に選ばれた者だから、神は必ずこうしてくれるはずだ、と いう考えがあります。 すなわち、神の行為を人間の側で規定するのです。 教会は、神に選ばれた群れだから、必ず神がこう助けてくれるはずだ、と。 あるいは、自分は熱心な信仰の持ち主だから、神は必ずこういう風に行動するは ずだ、と。 それは、いくら熱心な信仰から出たとは言え、人間の考えを神に押し付ける結果 になります。 そうなれば、それは偶像礼拝となってしまいます。 神を自分の意志に従わせようとするのです。 そうではなくて、従わなければならないのは、私達の側です。 ここでイエスは、悪魔の言葉を退けて、神の意志に忠実に従いました。 そして同じ試みは、十字架上においてもなされました。 そこに居合わせたある人が「お前が神の子であるなら、十字架から降りてこい」 と言いました。 しかしイエスは、人々の考えを神に押し付けるのでなく、神の意志に忠実に従っ たのです。 このようにイエスは、人間の根本的な欲求に迫る悪魔の巧みな三つの試みに打 ち勝ち、自分の欲求を第一とするのでなく、神のみを神とし、神の意志に忠実に 従いました。 私達は、弱い存在です。 このような悪魔の試みには、すぐに負けてしまうかも知れません。 しかし、私達にそのような力がないかも知れませんが、私達にはその悪魔の試み に打ち勝ったイエスが「共にいる」と言われています。 私達は常に、自分の力に頼るのでなく、主キリストに頼るものでありたい、と思 います。 (1991年3月3日)