10、ルカによる福音書4章16ー24節
「ナザレでのイエス」
16節。 それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはい り、聖書を朗読しようとして立たれた。 前の所で、イエスは大体30歳の時にバプテスマのヨハネから洗礼を受け、その 後荒野で40日にわたって悪魔の試みを受けられた、ということを学びました。 そして、その後、再び、ご自分の郷里であるナザレに戻られたのです。 「お育ちになった」とありますように、イエスは、このガリラヤの田舎町ナザレ で約30年間過ごされたのです。 ですから、町中の人々は皆イエスのことを小さい時からよく知っていたのです。 そしてイエスは、安息日に会堂に入っていきました。 「いつものように」とあるように、イエスは小さい時から、安息日には会堂に行 って礼拝することを習慣にしていたと思われます。 ここにイエスの両親マリアとヨセフの信仰が表されています。 さてここで、イエスは聖書を朗読するために立たれた、とあります。 イエスは聖書を教える専門家(ラビ)ではありませんでした。 貧しい家に育ち聖書を専門的に勉強する機会もなかったでしょう。 しかしイエスは、小さい時から聖書に関心があり、色々な機会を捕らえては聖書 の勉強をしていたと思われます。 その一つの例は、2章の所に出てきた話しです。 すなわち、イエスが12歳の時、両親に連れられてエルサレムに巡礼しました が、皆が帰った後も、エルサレムに残って、聖書の教師たち(ラビ)から教えを 受けていた、というのです。 恐らくイエスは、このような経験を数多く積んで(いわゆる独学して)相当聖書 についての知識をもっていたと思われます。 当時のユダヤ教の礼拝においては、聖書朗読は重要な要素でしたが、それは必ず しも専門のラビだけが読んだのでなく、ある程度聖書に通じている人は、その時 に応じて指名されて自由に読んだ、ということです。 そして当時の習慣としては、まずユダヤ教で一番重要視されていた律法(モーセ 五書)の中から読まれ、次に預言書の中から読まれました。 ですから、イエスは2番目に指名されたのでしょう。 聖書は、羊皮紙に書かれ巻物になっていました。 イザヤ書はイザヤ書で一つの巻物になっていたのですが、この時イエスに手渡さ れたのは、イザヤ書でした。 そして、ある所を開いて朗読さらました。 18ー19節。 主の御霊がわたしに宿っている。 貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、 わたしを聖別してくださったからである。 主はわたしをつかわして、 囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、 打ちひしがれている者に自由を得させ、 主のめぐみの年を告げ知らせるのである。 これはイザヤ書の61章1ー2節の言葉です。 すなわち、捕囚後に預言活動をした第三イザヤと呼ばれている預言者の預言で す。 そしてイエスは、21節の所で、この預言は今成就した、と言っています。 すなわち、400年以上前に預言されたこの言葉は、実はイエスの到来を意味し たものであった、というのです。 この預言の言葉の冒頭で「主の御霊がわたしに宿っている」と言われています。 これは元の預言では、第三イザヤと言われる預言者自身のことのようです。 預言者は、神に特別に選ばれて、神の霊が与えらた者です。 そして、その霊の働きによって神の言葉に従い、神の意志を行ったのです。 しかしイエスは、これを引用して、これがイエスご自身において成就したと言い ます。 これはイエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けた時に、3章の22節にある ように、「聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下った」ことを言い表し ています。 さて、第三イザヤの活動したのは、紀元前6世紀の終わり頃です。 イスラエル人は、50年間バビロニアに捕囚となっていましたが、紀元前538 年にペルシアのクロスがバビロニアを滅ぼしたため、バビロニアに捕囚となって いたイスラエル人が釈放され、故国エルサレムに帰る事が出来ました。 そしてこの第三イザヤと呼ばれる預言者も、その帰還した人々の一人でした。 人々は、懐かしいエルサレムに帰って来ましたが、神の都エルサレムは、バビロ ニア軍に徹底的に破壊されていましたので、かつての華やかさは見る陰もなく、 荒廃していました。 人々は、捕囚から釈放された時、エルサレムに帰ったらまず礼拝の場所である神 殿を再建しようと決意していました。 しかし、いざ故国に帰って見ると、余りの荒廃ぶりに、意気消沈してしまいまし た。 さらに彼らは、自分の畑を確保して、耕しましたが、余りうまくいかず、さらに 旱魃などにあって、作物が取れず、借金がかさみ、ある者は自分を奴隷として売 らなければならなくなったりもしました。 18節に「囚人」とあるのは、イザヤ書の方では「捕らわれ人」となってお り、「 打ちひしがれている者」は、イザヤ書の方では「縛られている者」です。 これは不作のために借金が払えず、獄に捕らわれている者、あるいは奴隷として 自分の身を売った者です。 また、「貧しい人々」とあり、イザヤ書の方も「貧しい者」になっています が、ヘブル語の元々の意味は「苦しむ者」です。 これは単に経済的に苦しむだけでなく、精神的に、あるいは肉体的に苦しむ者で す。 第三イザヤは、エルサレムのこのような「苦しむ者」「悲しむ者」に福音を伝 えるために使われてた預言者でした。 彼は、もうすぐ「主の恵みの年」が来る、そうすれば絶望の中にある者の「悲し み」が「喜び」に変えられることを伝えました。 ここで「主の恵みの年」と言われているのは、ヨベルの年のことです。 ヨベルの年の規定は、レビ記25章に詳しく記されています。 これは、50年目の解放の年のことで、ヨベルとは元々「角笛」の意味で、この 年の新年には、国中ラッパを吹き鳴らす、ということからこの名が付けられまし た。 ヨベルの年には、貧しさのために手離した土地が、元の所有者に戻されなければ なりませんでした。 また、貧しさのために自分自身を奴隷の身にしてしまった者も、ヨベルの年には 自由にされました。 このヨベルの年の規定は、実際の歴史においてどの程度実行されていたかは分か りません。 あるいは、理念だけであったのかも知れません。 しかし、ヨベルの年というと、「喜びの年」「解放の年」と理解され、待望され るようになったのです。 さて、イエスは、故郷ナザレの会堂で、このイザヤの預言を朗読し、その後2 1節のように言いました。 そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」 と説きはじめられた。 「主のめぐみの年」というのは、先程も言いましたように、50年目にやってく る解放の年でした。 しかしイエスは、この喜びの時は、50年目でなく、イエスのみ言葉を聞いたそ の日に成就した、と言ったのです。 第三イザヤは、エルサレムの貧しい人、苦しんでいる人がやがて「主の恵みの年 」が来るならば、慰めを得ることを説いたのですが、イエスは、その「恵みの年 」が今成就した、と言いました。 苦しめる者、悲しむ者がイエスの福音に接するならば、慰めを得、その悲しみ が喜びへと変えられるのです。 しかしそれは、イエスの言葉を信じ、イエスを心から受け入れる場合です。 ところが、ナザレの故郷の人々は、イエスの言葉をうけいれなかったのです。 22節を見ますと、彼らは「この人はヨセフの子ではないか」と言った、とあり ます。 これは少し軽蔑を含んだ言葉です。 主イエスは、故郷では歓迎されなかったのです。 しかし私達は、預言者イザヤの言葉がイエスにおいて成就したと信じる者で す。 主イエスこそ、貧しい人、苦しむ人、悲しむ人の真の解放者です。 私達を本当に救うのは、主イエスをおいて他にありません。 イエスがイザヤ書61章を引用しているのは、「主の恵みの年を告げ知らせる」 で終わっていますが、イザヤ書の方を見ますと、「主の恵みの年と、われわれの 神の報復の日とを告げる」となっています。 イエスは、イザヤ書の引用において、「神の報復の日」という句を除いていま す。 これは恐らく意図的に除いたと思われます。 神は正しいお方であって、罪を犯した者を見過ごしにはされません。 バビロニア捕囚も、イスラエルの人たちが歴史において神に対して罪を犯したそ の報復だと考えられていました。 バビロニア捕囚から釈放されて、故国エルサレムに帰還を許されましたが、そこ で再び待ちの再建に苦しみ、また経済的にも苦しみましたが、これも不信仰に対 する神の報復だと解釈されました。 しかしイエスは、この神の報復ということをもはや言いません。 イザヤ書にあった「神の報復の日」という句を除いたのは、恐らくイエスの意図 であったでしょう。 それは、イエスにおいて、福音が成就したからでしょう。 しかし私達が、神の前に正しくなって、神の報復がなくなったというのではあり ません。 私達は、相変わらず、神の前に罪を犯していますが、その私達の罪を主イエスご 自身が身に負って十字架で死んで下さったからです。 私達は、罪のゆえに死に定められています。 しかし神は、このような私達を死の滅びから救うために、主イエスをこの世に送 り、このキリストの尊い血と体によって、私達を罪から解放し、新しい生命に移 してくださったのです。 これがまさに「主の恵みの年」であり、もはや「神の報復の日」は除かれたので す。 そして、イエスは、彼が宣教したその日に、この「主の恵みの年」が成就し た、と言われました。 しかし、この「主の恵みの年」が本当に私達にとって恵みの年となるには、イエ ス・キリストの福音を心から受け入れる、ということが必要です。 イエスはここで、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に」と言っていま す。 「耳にした」というのは、文字通りには「耳に入れた」という言葉です。 これは漠然と聞いた、というのでなく、それを心から受け入れる、聞いて信じ る、ということです。 主のイエスの言葉を聞き、心から信じた時に、「主の恵みの年」が成就するので す。 神は私達一人ひとりの罪を贖い、救いに入れることを計画されたのです。 私達を本当に解放し、真の喜びを与えることを計画されたのです。 そしてそのためにキリストをこの世に遣わされたのです。 従って、このキリスト以外に真の救いはありません。 私達は、この神の計画を心から受け入れ、「主の恵みの年」と告げ知らされた 者として、心から喜ぶ者となりたいと思います。 (1991年4月21日)