11、ルカによる福音書4章31ー37節
「権威と力をもった方」
31ー32節。 それから、イエスはガリラヤの町カペナウムに下って行かれた。そして安息 日になると、人々をお教えになったが、その言葉に権威があったので、彼ら はその教えに驚いた。 さてここでイエスは、カペナウムの町に行かれた、とありますが、その前はご自 分の郷里の町ナザレで、やはり会堂で聖書の説き明かしをされましたが、受け入 れられなかった、とあります。 そこで彼は、24節のように言われました。 「よく言っておく。預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである。 そこで彼は、ナザレを後にして、同じガリラヤの町であるカペナウムにやって来 ました。 このカペナウムは、ガリラヤ湖の北西の湖畔にあり、交通の要所にあって、栄え た町でした。 この地方の発掘調査によって、会堂の跡が見付かっていますが、恐らくイエスが ここで教えられたと言われている会堂ではないかと思われます。 このカペナウムは、イエスのガリラヤ伝道の拠点の町となりました。 それは恐らく、38節に「シモンの家」が出てきますが、後にイエスの弟子とな ったこのペテロの家が拠点になったのだと思います。 さて、32節には「イエスの言葉に権威があった」とあります。 そうです。 イエスの言葉には、権威があるのです。 それは彼が神のみ言葉である聖書の言葉を語ったからです。 ただ単に聖書の言葉を語ったというのでなく、聖書の言葉が神のみ言葉だと確信 し、その言葉に命があり、永遠に変わることのない言葉だという確信、またその 言葉が必ず成就するという確信から語ったからこそ権威があったのでしょう。 イエスは、山上での説教において「よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律 法の一点、一画もすたれることはなく、ことごとく全うされるのである。」と言 っておられますが、聖書のみ言葉に対する絶対的な信頼がありました。 このカペナウムの会堂でイエスがどのような話をされたかは、記されていません ので分かりませんが、その前の17節の所では、ナザレの会堂でイザヤ書のみ言 葉を語ったとありますが、ここでもイエスは聖書のどこかのみ言葉を語ったと思 われます。のです。 そして、聖書の言葉、すなわち神のみ言葉には、権威があるのです。 私達は、聖書においてただ単にいいお話しを聞いているのではないのです。 それは、真に権威ある言葉なのです。 私達はまず、これを認め、そして確信すべきでしょう。 それは、聖書のみ言葉は、永遠に真実であり、絶対的に信頼を置くことが出来る からです。 そして、私達はしばしば浅はかであり、本当に権威のある言葉に気付かないので す。 それに反して、私達人間の言葉は、しばしば軽く、偽りがあり、はなはだ頼り になりません。 しかし、往々にして私達は、この人間の言葉に支配されます。 しばしば神のみ言葉よりも、人間の言葉を重要にします。 しかし、この人間の言葉には、本当の権威はありません。 それは永遠に変わることのない真実というものでなく、しばらくすれば消えてし まうはかないものです。 さて、安息日にイエスが話していたカペナウムの会堂に一人の汚れた霊につか れた人がいました。 33ー34節。 すると、汚れた霊につかれた人が会堂にいて、大声で叫び出した、「ああ、 ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わた したちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるか、わかってい ます。神の聖者です」。 この人が実際にどんな病気にかかっていたのかは分かりません。 この時代は、病気にかかるということは、汚れた霊の仕業だと考えられていたの です。 悪霊は、神の支配に敵対するものです。 ただし、旧約聖書においては、例えばエデンの園でアダムとエバを誘惑した蛇の ような形で、漠然とその思想はでますが、これが非常にはっきりした形で出るの は、ずっと後の時代で、恐らくペルシアの思想などの影響であろうかと思われま す。 イエスの時代のユダヤ教においては、この思想は非常に一般的であり、悪魔たち は悪の王国を形成し、その首領がサタンだと考えられていました。 悪霊は、神の支配に敵対する勢力である故に、神を最も恐れ、また人々を神から 引き離そうと常に試みるのです。 ここで、悪霊は、イエスを神から遣わされた権威ある方であることを逸速く気付 き、非常に恐れています。 「わたしたちを滅ぼしにこられたのですか」と言っています。 また悪魔は、神の本質を鋭く見抜く力があります。 イエスのことを「神の聖者」と言っています。 これはイエスの本質を正確に捉えた表現だと思います。 預言者イザヤは、神のことを言い表すのに、しばしば聖者と言いました。 それは、イザヤの体験から来ています。 イザヤが召命を受けた記事は、イザヤ書6章に記されています。 これは恐らく神殿の礼拝における体験だと思いますが、その礼拝の真っ最中に神 の姿を見るという経験をしました。 神の姿と言っても、その衣のすそを見たに過ぎないのですが。 また天から「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地 に満つ」という讃美の歌を聞いた、というのです。 その時イザヤは次のように言っています。 「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの 者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の王 を見たのだから」。 すなわち、イザヤはここで、自分の汚れ、罪というものを非常に強く感じていま す。 そしてそのために自分は死ぬばかりだ、と言っています。 これが聖なる者にふれた時の体験です。 ルードルフ・オットーという人は『聖なる者』という本を書きました。 その中で、人は聖なる者にふれた場合、自分の小ささ、汚れ、罪などを感じ、恐 れの念を抱く、というようなことが言われています。 そして、聖書において「聖」という言葉は、元々区別とか分離を意味する語でし た。 先程の、イザヤの召命の時に、天からの声で「聖なるかな」というのが聞こえた といいましたが、これは原語ではカードーシュという言葉です。 これは、分離を意味します。 神が聖なるお方とか聖者と言う場合、それは、この世のあらゆる者とは全く区別 されたお方である、ということです。 そしてこれは聖書全体を貫く信仰です。 十戒の第一の戒め、すなわち「あなたはわたしのほかに何物をも神としてはなら ない」というのも、真の神と他のあらゆる者を区別するということです。 他の世界においては、太陽や月、星、あるいは山、川、大木などが神として崇拝 されたりします。 また、いろんな動物もしばしば神になります。 また、日本の神社のように天皇やいろいろな歴史的人物が神として祭られたりし ます。 しかし、それらのものは、すべて神によって創造された被造物であって、真の創 造者なる神とは厳然と区別されなければなりません。 さて、今日のテキストで、悪霊につかれた人が、イエスのことを「神の聖者」 と言っているということは、イエスは神に属するお方である、ということを見抜 いていた、ということになります。 35節。 イエスはこれをしかって、「黙れ、この人から出て行け」と言われた。する と悪霊は彼を人なかに投げ倒し、傷は負わせずに、その人から出て行った。 イエスは、この悪霊をしかった、とあります。 悪霊は、たとえ的を得たことを言ったとしても、その目的は人を神から引き離そ うとすることです。 それゆえ神と敵対するものです。 私達が、神から離れるとか、信仰を失うのは、悪霊は支配が私達を圧倒するから です。 この悪霊の志向に対してイエスはしかるのです。 すると悪霊は、その人から出て行った、とあります。 イエスは、どんな悪霊の力にも打ち勝つことの出来るお方です。 私達の力で打ち勝つのではありません。 私達が自分の力で悪霊に立ち向かうなら、かえって足をすくわれてしまいます。 そうではなく、私達はただ主イエスに委ねるのです。 すると、イエスが悪霊と戦い私達に勝利を与えて下さるのです。 36節。 みんなの者は驚いて、互いに語り合って言った、「これは、いったい、なん という言葉だろう。権威と力とをもって汚れた例に命じられると、彼らは出 て行くのだ」。 みんなの者というのは、カペナウムの会堂で礼拝に列席していた人々のことで す。 彼らは、イエスが言葉によって悪霊を追い出した、その権威と力に驚いたので す。 ここで言われているのは、イエスは真の支配者である、ということです。 主イエスが真の権威者である、ということです。 私達にとって主イエスの他に真の権威者はいません。 現在は、権威失墜の時代だと言われます。 昔は、とび抜けて偉大な人がいて、その人に権威がありました。 いわゆるボス的な指導者です。 政治の世界だけでなく、企業においても、教育界においても、またキリスト教の 世界においてもそういう権威のあるボスがいました。 現在は、人間が小さくなったのか、そういうボス的な指導者が少なくなりまし た。 これはある面ではいいことだと思います。 ワンマンなボスによって何事も決められてしまうのでなく、民主的にみんなで決 めて行くほうがいいでしょう。 しかし、一面では権威というものがなく、何か一つの筋とか秩序とかがなくなっ てしまいました。 欠けのある者がいたずらに権威をもって横暴に振る舞うのは考えものですが、何 か確固とした権威というのは必要です。 私達にとっては、主イエスことが真の権威者です。 ピリピ人への手紙2章10ー11節のキリスト讃歌には次のようにあります。 (310ページ) それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものな ど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリス トは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。 ここに私達人間の真の在り方、この世界全体の在り方が言われています。 もし全世界がこのとうりにキリストを真の権威者と認め、これに服するならば、 真の平和が到来することでしょう。 しかしそれは中々困難でしょう。 しかし、私達は、イエス・キリストを真の権威者と認め、これに服して行きたい と思います。 (1991年5月5日)