12、ルカによる福音書5章1ー11節

  「ペテロの召命」



 1ー2節。
  さて、群衆が神の言を聞こうとして押し寄せてきたとき、イエスはゲネサレ
  湖畔に立っておられたが、そこに二そうの小舟が寄せてあるのをごらんにな
  った。漁師たちは、、舟からおりて網を洗っていた。
ゲネサレ湖というのは、ガリラヤ湖のことです。
イエスは最初、大体ガリラヤ湖の周辺で活動されました。
前の所では、やはりガリラヤ湖畔のカペナウムで一人の悪霊につかれた人を癒し
た記事でした。
 さて、ガリラヤ湖周辺に住んでいた人々は、たいていは素朴で貧しい民衆でし
た。
この当時は、ローマ帝国の支配にあり、重税に苦しんだり、いろいろな圧迫があ
りましたが、それらは、エルサレムのような大都会よりも、周辺の貧しい町々に
その負担が重くのしかかっていました。
そのような中で、これらの群衆は、イエスの教えを聞くことに非常に熱心でし
た。
4章42節に次のようにあります。
  夜が明けると、イエスは寂しい所へ出て行かれたが、群衆が探しまわって、
  みもとに集まり、自分たちから離れて行かないようにと、引き留めた。
彼らは貧しい生活をしていましたから、本当は話を聞きに行くよりも、少しでも
仕事をしたかったでしょう。
しかしイエスの言葉には、力があり、救いがあったので、仕事を放っておいてで
もイエスの所に押し寄せたのです。
1節では彼らは「神の言を聞こうとして」とあります。
彼らは、生活が楽になることよりも、また外国の圧迫から逃れることよりも、神
の言葉を求めたのでした。
それは、イエスの言葉を聞いて、いろいろな苦しみの中にあって、神のみ言葉
が、本当の救いであり、真の喜びであるということを実感したからでしょう。
 さて、イエスは、大勢の群衆を前にしてどのようにして話をしようかと考えま
した。
イエスは、最初の頃は、よくユダヤ教の会堂で話をされました。
ご自分の郷里のナザレにおいても、彼は安息日に会堂に入って、聖書の説き明か
しをされました。
しかし、次第に大勢の群衆が後に従ってくるにつれて、会堂では狭くなったとい
うこともありますし、また会堂の管理人から次第に敬遠されていった、というこ
ともあります。
そこでしばしば、野原や山や海辺などで話をされるようになりました。
さて、ここはガリラヤ湖畔です。
そこに夜の漁を終えて、網を洗っている漁師たちがいました。
イエスは、その漁師の一人に頼んで、舟の中から人々に話をされました。
3節。
  その1そうはシモンの舟であったが、イエスはそれに乗り込み、シモンに頼
  んで岸から少しこぎ出させ、そしてすわって、舟の中から群衆にお教えにな
  った。
このシモンは、8節を見れば分かるようにペテロです。
彼は今まで一晩中漁をして働いていました。
そして、魚が取れず、がっかりしながら、網を洗っていました。
そして、相当疲れていたでしょう。
ここでイエスがどういう話をされたかは分かりませんが、恐らく神の国について
の説教だったと思われます。
しかし、一緒に舟にのっていたペテロは、イエスの話に耳を傾けてはいなかった
ようです。
そもそもペテロは、今まで、イエスの評判は聞いていたかも知れませんが、しか
しあえて仕事を放ってまでイエスについていこうとは考えていませんでした。
あるいは、イエスという人物に全く関心がなかったのかも知れません。
ここに、神の選びの不思議さがあります。
多くの群衆はイエスを求め、イエスの話を聞こうとして熱心に従って来ました。
中には遠くから、また何日もイエスの後をついて来た人もいたでしょう。
しかし、イエスの弟子に選ばれたのは、そのように熱心にイエスについて来た彼
らではなくて、イエスに全く無関心であったペテロでした。
ここに、神の選びというのは、人間の側が熱心に求めるから、というよりも、神
の側の一方的な働きかけなのです。
また、そしてそれは、人間の価値判断とは違っています。
教会なんかでもそのようなことがしばしばあります。
この人こそはと思う人が、しばらくすると教会から遠ざかったり、余り眼中にな
かった人が生涯信仰を貫いたり、ということがあります。
教会学校なんかでもあります。
この子は、きっと長く続くだろうと思っている子が、来なくなったり、この子は
そのうち来なくなるだろうと思っていた子が、ずっと続いたり、ということがあ
ります。
 ここでイエスに無関心であったペテロに、イエスの側から働きかけます。
4節。
  話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と
  言われた。
ここでイエスは、ペテロに対しては、もはや説教はしません。
「沖へこぎ出し、漁をしなさい」と言うのです。
イエスは、大工の子として育ち、また自らも大工の仕事をしていたようですか
ら、建築のことなら多少の知識はあったでしょう。
しかし、漁のことは全くの素人でした。
ペテロも、イエスの容貌を一目見て、彼が漁に関しては全くの素人だと分かった
ことでしょう。
彼は長年このガリラヤ湖で漁をして来ています。
どういう時、どういう所で魚が一番よく取れるかは、彼が一番よく知っていまし
た。
その彼が長年の経験によって、一晩中漁をしても何も取れなかったので、もう今
日は魚は取れないと諦めていたのでした。
そこにずぶの素人が、沖に出て漁をしなさい、と言うのですから、普通ならそん
な言葉に耳を貸さない所です。
しかし今ペテロは、どうしたことか、自らの意志とは関係無く、あるいは意志に
逆らったかのように「お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と答えていた
のです。
主に召された場合、自分の意志とは関係なく、あるいは自分の意志に反して従う
のです。
しな服従させられるのです。
パウロは、今までキリストを信じる者を熱心に迫害していました。
キリスト者を迫害することが彼の意志であり、使命であったのです。
ところが、復活のキリストに出会ってからは、今までの意志とは反対に、自らキ
リストを伝える者となったのです。
ここのペテロも、自らの意志に反して、イエスの言葉に従っていたのでした。
しかし、まさか、こんなに沢山の魚が取れるなどとは思っていなかったでしょ
う。
ここでペテロは、自分の経験や知識がいかに限界のある、ちっぽけなものかとい
うことを思わせられたようです。
私達は、自分の経験や知識に頼りますが、これはしかし実にあやふやなもので
す。
 8節。
  これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主
  よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。
ここでペテロのなしたのは、罪の告白でした。
そしてイエスの求めていたものは、実は、これでした。
イエスは宣教の始めに「悔い改めよ」ということを言いました。
ガリラヤ地方でイエスの後に大勢の人々がついて来て、イエスの話を熱心に聞き
ましたが、果たしてどれだけの人が自分の罪を告白し、悔い改めたでしょうか。
殆どの人は、イエスの話を感動をもって聞いただけだったのではないでしょう
か。
旧約聖書においても、詩篇や預言者は、悔い改めということを主張しています。
例えば、ダビデの詩と言われている詩篇51篇では、「神のうけられるいけにえ
は砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。」と言
っています。
また、預言者イザヤは、召命を受けた時に、次のように言っています。
6章5節。
  「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの
  者で、汚れた唇の民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王
  を見たのだから」。
ここで、ペテロも、聖なるイエスに出会って、自らの罪を認めざるを得なかった
のです。
私達も、イエスの前に出たならば、まず自らの罪を告白するでしょう。
 しかし、神は、私達が、罪の告白をしたその瞬間にそれを赦し給うのです。
10節。
  シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも、同様であった。する
  と、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間
  をとる漁師になるのだ」。
ここでイエスは、罪を告白したペテロに対して、「恐れることはない」と言って
います。
これは、罪の赦しの宣言です。
私達は、いろいろなものに恐れを抱きます。
その最大は、死に対する恐れではないでしょうか。
どんなに調子のいい人生を歩む人も、死の恐れから解放されることはありませ
ん。
そして、恐れは罪に起因しています。
最初の人間アダムとエバが、禁断の木の実を食べて罪を犯した時、恐れて身を隠
した、とあります。
また、パウロは、ローマ人への手紙6章二三節において、「罪の支払う報酬は死
である」、と言っています。
しかし、それにすぐ続けて、「しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イ
エスにおける永遠のいのちである」と言っています。
即ち、私達が罪を告白するならば、キリストによる永遠のいのちに与かり、究極
の恐れである死から解放されるのです。
 さて、ペテロは、罪の告白をし、その後イエスより罪の赦しの宣言をされ、新
たな召命を与えられるのです。
それは、「人間をとる漁師になる」ということです。
ペテロは、今まで、毎日魚を取って暮らしていました。
魚は人間の食物としてとても大事なものです。
人間の肉体を維持するためには、不可欠のものです。
しかし、ペテロはここで、人間をとる漁師に召され、ただ単に肉体を維持するだ
けではなく、人間を本当に生かす、真のいのちを宣べ伝える者として召されたの
です。
11節。
  そこで彼らは船を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。
そして、ペテロは、イエスの召しに従順に従いました。
しかも即座に従ったのです。
一旦家に帰って身辺の整理をしてからとか、2〜3日考えてから、というのでは
なく、即座です。
 さて、私達もキリストによって、キリスト者として召されています。
その働きはいろいろ違っていますが、召されている事実は変わりません。
私達は、この召しに従順に従っていきたいと思います。

(1991年6月2日)