13、ルカによる福音書5章17ー26節

  「中風の人をいやす」



 17節。
  ある日のこと、イエスが教えておられると、ガリラヤやユダヤの方々の村か
  ら、またエルサレムからきたパリサイ人や律法学者たちが、そこにすわって
  いた。主の力が働いて、イエスは人々をいやされた。
イエスは、最初の頃、ガリラヤ湖の周辺で精力的に伝道されました。
そして、彼の周りには常に大勢の人々が押し寄せました。
ここで、ユダヤやエルサレムからも人々が来た、と記されています。
エルサレムからガリラヤまでは相当遠く、直線距離で200キロもありますか
ら、イエスの評判は、またたくまに非常に遠くまで伝えられた、ということにな
ります。
しかもここには、パリサイ人や律法学者までやってきた、とあります。
これは当時の事情から考えますと、大変なことであったと思います。
と言いますのは、当時パリサイ人や律法学者は、宗教的な指導者であり、むしろ
彼らが教える立場にあったからです。
イエスの評判がすごかったにしても、彼は一介のガリラヤの田舎者でした。
ですから、東北の田舎の青年の話を東京の一流大学の教授がわざわざ聞きに行く
ようなものです。
「主の力が働いて」とありますように、イエスには神の特別な力が働いていたの
でした。
 18節。
  その時、ある人々が、ひとりの中風をわずらっている人を床にのせたまま連
  れてきて、家の中に運び入れ、イエスの前に置こうとした。
ここの「家」は、だれの家か記されてはいませんが、マルコによる福音書の記事
を見ますと、カペナウムの家とありますから、恐らくシモン・ペテロの家ではな
かったかと思われます。
ここに、ひとりの中風をわずらっている人が運ばれて来ました。
床に寝かされたまま運ばれたとありますから、この人は病気のために寝たきりで
あったのでしょう。
それゆえ、イエスの評判を聞いても、自分の力でイエスの所まで行くことが出来
なかったのです。
一方では、健康な人は、何百キロ離れたエルサレムからでも来ることが出来たの
に、他方には、病気のために比較的近くにいても行くことが出来ない、という現
実があります。
私達は幸い、健康に恵まれ、こうして礼拝に来ることができますが、中には病気
のため、高齢のために、礼拝に行きたくても行けない人もいる、ということを覚
えなければなりません。
この病人は、床に寝たまま運ばれて来たのですから、余程イエスの所に行きたか
ったのでしょう。
ここで、中風の人がイエスの所に行きたい、と言ったのか、あるいは家族など周
りの人がイエスの所に連れて行くことを考えたのかは、分かりません。
恐らく両方だと思います。
20節で、「イエスは彼らの信仰を見て」とありますが、これは運ばれて来た病
人と運んで来た人々の両方を指していると思います。
18節の「ある人々」は、だれかは分かりませんが、恐らく家族の者や隣近所の
人で、この病人のことをよく知り、常に心配し、世話をしてきた人々であったで
しょう。
この床に寝たまま運ばれている様子から、この病人が普段から家族や周りの人に
愛され、世話されていたことが思わされます。
 19節。
  ところが、群衆のためにどうしても運び入れる方法がなかったので、屋根に
  のぼり、瓦をはいで、病人を床ごと群衆のまん中につりおろして、イエスの
  前においた。
随分乱暴なことをしたようですが、このようなことは簡単に出来たようです。
この当時のパレスチナの家の屋根は、材木の梁と、木の枝を編んだものと、粘土
の覆いから成っていて、ごく簡単にはぐことが出来ました。
そして、一つの階段が家の外を通って、上に通じていましたので、外から簡単に
屋根に上ることが出来ました。
とは言っても、屋根をはいで病人を吊り下げるというのは、異常な行動であった
でしょう。
周りの人々は、この非常識な行動にびっくりしたことでしょう。
まして、この家の持ち主であったシモン・ペテロは、屋根が壊されたということ
で、怒りを覚えたのではないか、と思われます。
 しかし、イエスは、彼らの信仰を誉めました。
20節。
  イエスは彼らの信仰を見て、「人よ、あなたの罪はゆるされた」と言われ
  た。
ここでイエスは、これらの人々の非常識な行動を咎めません。
それどころか、彼らの信仰を誉めたのです。
そして、この病人に優しく語りかけます。
ここに、イエスのこの男に対する愛が表されています。
イエスは、床に寝たまま吊り降ろされたこの男を見て、この人がいままでいかに
苦しい思いをしてきたか、ということを思ったのでしょう。
肉体的苦痛に加えて、普段周りの人に厄介をかけているというすまない気持ち、
精神的な苦しみを持ってすごしていたことでしょう。
しかし、主イエスは、その人のそのような苦しみを知り、それに同情され、や
さしく声をかけるのです。
主イエスはまた、私達の苦しみも知っておられます。
そして、また私達にも優しく語りかけ給うのです。
 さて、イエスは次に「あなたの罪はゆるされた」と言われました。
しかし、この病人が特に大きな罪を犯していた訳ではありません。
人間は皆、罪人です。
ただこれを自覚するかどうかです。
人間は中々自分の罪を自覚しません。
特に何もかも順調に行っている時は、そうです。
突然大きな不幸に見舞われた時や、病気の時は、自分の罪というものをあるいは
自覚するということもあるでしょう。
 旧約聖書の時代、病気は、神に罪を犯した結果だと考えられていました。
しかし、本当は病人が罪人であって、健康な人は罪を犯していない、というので
はありません。
この中風の人も、自分の病気のことから、常日ごろ、自分の罪ということを考え
ていたのかも知れません。
そして、この罪が何とかして許されたら、と思っていたのではないでしょうか。
そういう時に、イエスが来られたことを聞き、家の人に是非ともイエスの近くに
行きたい、と要求したのかも知れません。
イエスは、この人の罪を赦されたいという思いを知られたのでしょう。
 聖書において、罪を認めるということは、非常に大切なことです。
人間はしばしば高慢で、自分の罪を認めたがりません。
そこで神はしばしばそのような高慢な私達に、肉体のとげを与え給うのです。
パウロも、肉体に何かの持病で悩まされたようです。
そして、それを何度か取り除いて欲しいと願ったのですが、最後にはそれが実は
神の恵みだ、ということを悟ったのです。
星野富弘という人も同じようなことを言っています。
彼は、体操の教師をしていたときに宙返りに失敗して、首の骨を折り、下半身麻
痺の体になってしまいました。
しかし彼は、病床でこんなことを言っています。
もし、怪我をしなかったなら、神の愛を知ることもなく、一生傲慢な気持ちで送
ったであろう、と。
病気というのは、決して罪の結果ではありません。
それは私達に自分の罪を自覚させてくれるものです。
病気がなければ、罪を自覚せず、私達は高慢になっているかも知れません。
病気や災難を通して、私達は自分の罪に気づかされるのです。
そして聖書において、罪を自覚することが大切なことです。
ですから病気がその罪に気付かせるとするならば、むしろ恵みと言えるでしょ
う。
 そして、私達が自分の罪に気付いて、悔い改めるなら、神はそれを必ず赦して
下さるのです。
そして、この罪の赦しということが、神より私達に与えられている最も大きな恵
みなのです。
詩篇に次のような言葉があります。
  主は心の砕けた者に近く、
  たましいの悔いくずおれた者を救われる。(34:18)
このように、神は、私達の悔い改めの心、砕けた魂というものを大切にして下さ
るのです。
 今日の所で、中風の人が悔い改めた、という記事はありませんが、この人がこ
んな無理をしてまでイエスの近くに来たという所に、この人の罪を悔い改める思
いをイエスは見られたのです。
 イエスは、この罪の赦しをただ口先だけでするのではなく、権威をもって宣言
されたのです。
そして、この宣言を私達も受けているのです。
この言葉をイエスは、十字架の上から語られているのです。
すなわち、ただ口先だけで宣言するのではなく、私達の罪を実際にご自分の身に
負って、語られるのです。
 ところが、律法学者とパリサイ人たちは、このイエスの罪の赦しの宣言に異議
を唱えた、というのです。
21節。
  すると律法学者とパリサイ人たちとは、「神を汚すことを言うこの人は、い
  ったい、何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」
  と言って論じはじめた。
しかし、この律法学者たちの言っていることは、全く正しいのです。
確かに人間には、罪を許す権威はないのです。
どんな偉い人であっても、人間の罪を許すことの出来る人は一人もいません。
まして、中世のように「免罪符」を買うことによって、人の罪が許されるもので
はありません。
しかしイエスは、神の子であるゆえに、人の罪を赦す権威があるのです。
そして、私達は、この人の罪を赦す真の権威者によって罪の赦しの宣言を受けて
いる訳ですから、これほど確かなことはないのです。
24ー25節。
  しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威を持っていることが、あなたがたに
  わかるために」と彼らに対して言い、中風の者にむかって、「あなたに命じ
  る。起きよ、床を取り上げて家に帰れ」と言われた。すると病人は即座にみ
  んなの前で起きあがり、寝ていた床を取りあげて、神をあがめながら家に帰
  って行った。
イエスは、罪の赦しの宣言をしただけでなく、この病人に癒しをもなし給うたの
です。
救いは、人間の全領域に及びます。
ここでイエスは、先程の優しい言葉とは打って変わって、非常にきつい調子で「
起きよ」と命じました。
「起きる」というのは、自立を意味しています。
今まで、この人は寝たきりの病気のため、自分の事も自分で出来ずに、人にして
もらっていました。
長い間にそういう癖がついていたでしょう。
そしてそこには、何でもすべて自分のことは周りの人がしてくれるものだ、とい
う甘えがあったでしょう。
しかし、今からは自立して、自分のことは自分でしなさい、という命令です。
他の所でもそうですが、イエスは、病人を癒した時は、殆どの場合、「行きなさ
い」とか「帰りなさい」と言って、突き放しています。
ここでも「家に帰れ」と言っています。
家に帰って、自分に出来ることをせよ、というのです。
今まで何でも家の人に助けてもらっていたが、これからは自分のことは自分でせ
よ、ということです。
今までは、人々の愛を受けるだけであったが、これからは人々を愛せよ、という
ことです。
そして、そうすることが生きがいなのです。
それが喜びをもって生きることなのです。
イエスは、ただ病気を癒すだけでなく、その人が本当に喜びをもって生きること
を願われるのです。
イエスの救いは、人間の全領域にわたるものです。
 私達の生活もそうです。
私達は、日曜に礼拝に招かれ、キリストの恵みに与ります
おして、キリストは私達にも「家に帰れ」と言われます。
私達は、キリストのみもとで与えられた恵みを携えて、家に帰り、その恵みを他
の人にも与え、それぞれの務めを果たし、喜びをもって1週間を過ごすのです。
しかし、そのように喜びをもって、生きがいをもって、この世の歩みを歩むこと
が出来るのは、私達が「罪を赦す権威」のある方から、罪を赦されているからな
のです。
これが根本です。
私達は、キリストから罪を赦された者であることを覚え、喜びに満たされた歩み
を送るものでありたいと思います。

(1991年6月23日)