14、ルカによる福音書5章27ー32節
「罪人を招くため」
イエスの活動において、特筆すべきものは、弟子たちを選んだ、ということで す。 イエスの弟子は、皆で12人であり、そのリストは、6章14ー16節に記され ています。 これらの弟子たちのうち、そのイエスによる召命の記事が記されている者もあり ますが、半数以上はその記事がなく、どのようにして選ばれたのかは分かりませ ん。 しかし、これらの人は皆、イエスのガリラヤ伝道の時に選ばれたものと思われま す。 前の5章の1節以下の所では、シモン・ペテロの召命について比較的詳しく記さ れていました。 今日の箇所は、レビという人の召命の記事です。 ところが、先程の弟子のリストにレビという人はいません。 ですから、彼は、イエスの弟子となった人ではあったが、いわゆる12弟子では なかったかも知れません。 あるいは、同じ記事を伝えているマタイによる福音書9章9節では、マタイとな っていますので、あるいはこのレビはマタイのことであったかも知れません。 さて、このレビは取税人だったと記されています。 ここは恐らくガリラヤ湖畔のカペナウムの町であったと思われます。 カペナウムの町は、交通の要路になっていましたので、ローマの支配者はここに 税関所を設けて、そこを通過する商人の品物に税をかけていました。 この税関所は、町の一番人のよく通る所に建てられていたと思われます。 そして、この税関所に、レビが座っていました。 イエスは、ガリラヤ伝道の拠点をこのカペナウムのペテロの家に置いていたよう ですので、恐らくこのレビの座っていた収税所を何度となく通っていたことでし ょう。 レビも当時評判になっていたイエスの一行を見たことがあったでしょうが、関心 をもったとか、話を聞くために後をついて行った、ということは一度もなかった ようです。 彼の関心は、専ら当時の取税人から考えて、金儲けのことだったでしょう。 神の話しなどには、関心がなかったでしょう。 さて、取税人というのは、当時のユダヤの社会では、とても嫌われた存在でし た。 当時のユダヤは、ローマ帝国の支配下にあり、支配者はその属国に対していろい ろな税金をかけていました。 そして、その支配者の手先になって、同胞から税金を取り立てていたのが取税人 でした。 それだけでなく、彼らは貧しい者から不正な取り立てをして、私腹を肥やしてい たのです。 バプテスマのヨハネの所に来た取税人に対して、ヨハネは、ルカによる福音書3 章13節において、「きまっているもの以上に取り立ててはいけない」と言って いますが、当時の取税人のほとんどは、不正な取り立てをして儲けていたので す。 征服されているユダヤ人は、貧しかったけれども、神の民としての誇りだけは失 っていませんでした。 ところが、取税人は、そういう心の誇りよりも、金を儲けることに一生懸命だっ たのです。 ですから、イエスの評判を聞いていても何の関心もなく、まして話を聞きに行 こうなどとは全く考えず、また目の前をイエスが通っても、レビは彼に何の関心 もしめさなかったのです。 しかし、そのレビにイエスの方から目を留められたのです。 私達に対しても、常に神の側から働きかけて下さるのです。 私達も、常日ごろ、自分のことに追われて、神に対してはしばしば無関心なので はないでしょうか。 しかしそういう私達に神の側から働きかけて下さいます。 ヨハネの第一の手紙4章10節には次のようにあります。(P.380) わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わ たしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになっ た。ここに愛がある。 働きかけは、常に神の側から起こるのです。 しかし私達は、その神の働き掛けに答えていかなければならない、と思います。 さて、イエスは、このレビに目を留めて、「わたしに従ってきなさい」と言い ました。 これは、イエスが弟子を召命する時の言葉です。 イエスは、ここで当時ユダヤの人々に嫌われていたレビを弟子に選んだのです。 そういう人を選んで果たしてイエスの活動のプラスになるのでしょうか。 イエスは、このレビだけでなく、ご自分の弟子を選ぶ時、自分の信奉者の中から は選んでいません。 これは私達の思いからすると実に不思議なことです。 5章の最初の方がシモン・ペテロの召命に記事でしたが、ペテロもイエスの信奉 者ではありませんでした。 多くの人がイエスの言葉を聞こうとして集まって来た時、彼は網を洗っていたの でした。 そしてイエスは、ペテロの船から岸にいる群衆に話をされましたが、ペテロがそ の話に熱心に聞いていた訳でもありません。 しかしイエスは、イエスの話を熱心に聞いていた群衆の中からご自分の弟子を選 んだのではなくて、いわばイエスの話には無関心であったペテロを弟子に選んだ のでした。 また、その後の記事で、中風をわずらっていた人はある人達に床に寝たまま運ば れて、が、家の屋根をはいでイエスの所に連れて来られました。 床に寝たままイエスの所に、しかも屋根をはいでまで、イエスの所にやって来た というのですから、その熱心さは驚くほどです。 しかし、イエスは、この人に対しては、レビのようには「わたしに従って来なさ い」とは言わずに、「家に帰れ」と命じています。 ここに神の選びの不思議さがあります。 神は私達を、人間的な尺度からは選んでいないのです。 人間的な尺度からだと、あるいは私達は選ばれていなかったかも知れません。 さて、イエスに呼び掛けられたレビはどうしたでしょうか。 28節。 すると、彼はいっさいを捨てて立ちあがり、イエスに従ってきた。 これまた、実に不思議なことです。 彼は今まで、いわば金の亡者として生きてきました。 その彼が一切を捨ててイエスに従った、というのです。 これは奇跡としか言いようがありません。 イエスの言葉には、創造的な力があります。 ここでレビは、イエスとの出会いによって、今までの価値観を180度転換させ られたのです。 彼の今までの頼りは、お金だけでした。 人からどう思われようと、嫌われようが、憎まれようが、金のためにはあらゆる 不正なことをしてきました。 そういう行き方から、おのずと他の人は信用できない、人の言葉を素直に聞かな い、という生き方になっていたと思われます。 しかしその彼が、イエスの言葉に素直に従ったのです。 しかも今まで唯一の頼りと思っていた財産を捨てて。 ただしここで彼が全財産を捨てたというのではなさそうです。 29節を見ますと、盛大な宴会を催した、とありますから、お金がないと、その ようなことは出来ないでしょう。 「いっさいを捨てた」というのは、今までの価値観を根本的に改めた、というこ とでしょう。 今まで彼は、財産はすべて自分のためでした。 自分のために財産を築き、自分のためにそれを使い、他人のためにはビタ1文も だしませんでした。 その彼が、自分の財産を他人のために惜し気もなくつかったのです。 すなわち、イエスのために盛大な宴会を催し、そこに大勢の人を招いた、という のです。 「共に食卓についた」とあります。 レビは、今までの「自分のために」という在り方から、イエスとの出会いを通し て「共に」という在り方に変えられたのです。 私達も多かれすくなかれ、自己中心的であります。 しかし、イエスとの出会いによって、神の恵みに触れることによって、その自己 中心が変えられて、「共に」ということになります。 旧約聖書においては、収穫物は、その土地の所有者が独り占めするのではなく、 収穫物に与ることの出来ない多くの人と「共に」祝うべきである、ということが 言われています。 申命記16章13ー14節。(P.270) 打ち場と、酒ぶねから取り入れをしたとき、七日のあいだ仮庵の祭を行わな ければならない。その祭の時には、あなたはむすこ、娘、しもべ、はしため および町の内におるレビびと、寄留の他国人、孤児、寡婦と共に喜び楽しま なければならない。 ここに言われているレビびと、外国人、孤児、寡婦などは、自分の土地を持って おらず、従って、収穫物には預かれない人たちでした。 しかし、地の実りは、農民の力によるのでなく、神の与えた恵みであるから、土 地を持たない人とも共にそれを分かち合う、というのです。 そして、「共に喜び合う」というのです。 このレビの家での大宴会も喜びが満ち溢れていたことでしょう。 ところがそれをひややかに見ていた人たちがいたのです。 ところが、パリサイ人やその律法学者たちが、イエスの弟子たちに対してつ ぶやいて言った、「どうしてあなたがたは、取税人や罪人などと飲食を共に するのか」。 ユダヤ人は、食事を大切にしました。 それは単に食欲を満たすというより、宗教的な儀式でもありました。 従って、食事にはいろいろな規定がありました。 これは、神聖なもので、汚れは排除しなければなりませんでした。 汚れた食物は、食べてはなりませんでした。 それと同時に、汚れた者とされていた人達と一緒に食事をするとその人も汚れる のでした。 そして、ここにある取税人とか罪人は、汚れた人とされていました。 このような汚れた人達とイエスは食事を共にした、ということをパリサイ人たち は問題にしたのでした。 「どうして」というのは、驚きと不可解さを表しています。 当時の考え方からは、はなはだ非常識であったこのような行動を、神のことを教 えている教師がどうしてしたのか、全く分からなかったのです。 そして、それを非難しているのです。 しかし、イエスは答えられました。 31ー32節。 イエスは答えて言われた、「健康な人には医者はいらない。いるのは病人で ある。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改め させるためである」。 「健康な人には医者はいらない」というのは、痛烈な皮肉です。 イエスが来たのは、罪人を招くためだ、と言います。 ここでの罪人は、その前の「取税人や罪人」の罪人よりはもう少し広い意味で す。 パリサイ人たちが言っていた罪人は、律法の規定を具体的に破った人でした。 それゆえ、彼らは自分たちは罪人などではない、と自負していました。 しかし果たして彼らは義人であったのでしょうか。 詩篇14篇の記者は、「義人はいない。一人もいない」と言っています。 私達人間は、すべて神の目から見れば、罪人です。 先週ローマ人への手紙1章において学んだように、私達は例外なく本来神の怒り のもとにある存在なのです。 ただその罪を自覚するかどうかだけなのです。 しかし、主イエスは、その私達罪人を招くためにこの世に来て下さったのです。 そして私達は、功のないままに、この主イエスの招きに招かれているのです。 イエスに無関心だったレビにイエスの方から出会われたように、イエスはこの罪 人なる私達にも出会い、招いて下さっているのです。 私達は、この招きに素直に答える者でありたいと思います。 (1991年7月14日)