15、ルカによる福音書5章33ー39節
「時を見分ける」
33節。 また彼らはイエスに言った、「ヨハネの弟子たちは、しばしば断食をし、ま た祈りをしており、パリサイ人の弟子たちもそうしているのに、あなたの弟 子たちは食べたり飲んだりしています」。 これは前の話の続きです。 前の27節以下の所では、取税人のレビがイエスの招きに従って、弟子になり、 その時に盛大な宴会を催した、という記事でした。 ところが、それを見ていたパリサイ人や律法学者たちは、イエスやその弟子たち を非難したというのです。 すなわち、イエスの弟子たちは、断食もしないで、食べたり飲んだりばかりして いる、と。 ここで彼らは、断食の問題をイエスにぶつけています。 ユダヤ教においては、断食は非常に重んじられていました。 特に大贖罪日であるユダヤ暦の7月10日には、国中の人が断食をしました。 そのほかにも、エルサレムが破壊された日を記念する断食が年4回ありました。 また、パリサイ人たちは、この断食には特に熱心で、週に2回も断食をしていま した。 しかしこれは、多分に徳を積むこととして行われ、その行為そのものが誇りとさ れていましたので、しばしば偽善的なものとなりました。 例えば、山上の説教でイエスは、「断食をする時には、陰気な顔つきをするな」 と言っていますが、パリサイ人たちはしばしばいかにも人に断食をしているとい うことを見せようとして、自分の顔をわざと見苦しくしていた、というのです。 イエスは、しかし断食そのものを無意味なものとして否定したのではありませ ん。 イエスご自身が、悪魔の試みを受けられる時、40日間断食をしたと言われてい ます。 時と場合によっては、イエスも断食をされ、また人々にも断食をするように言っ ています。 断食は、昔から、いろいろな宗教において重んじられています。 人間の最も大きな欲望である食欲を断つということで、精神的な修練になるから でしょう。 仏陀も、山の中に入って断食をして修行をしたと言われています。 その伝統を受け継いで、仏教のそうも時々苛酷な断食をします。 また、マホメットも断食を重んじ、イスラム教では断食は信者に対する一つの戒 律になっています。 すなわち、ラマダーンとうイスラム暦の第9月は断食の月であり、イスラム教徒 は、夜明けから日没まで一切の飲食を断つのです。 キリスト教においても、特に受難週などには、断食をするという習慣もありま す。 旧約聖書においては、特に災難が起こった時などに、よく断食が行われまし た。 例えば、肉親の死に直面した時とか、敵が攻めて来た時とか、疫病がはやった時 とか、天変地異が起こった時などです。 それは、悲しい気持ちを表すことでもあり、またこの悲しみを取り去って下さ い、という祈りでもありました。 そして、そのような災難が取り去られて、喜ばしい状態になった時は、食べたり 飲んだりしたのです。 ですから、食べたり飲んだりするのは、喜ばしい状態なのです。 今日のテキストで、イエスと弟子たちが食べたり飲んだりしているのは、まさ に喜ばしい状態にあったからです。 しかし、パリサイ人たちは、その喜ばしい時を見分けることが出来なかったので す。 彼らは悲しむべき時に断食をして、神の前にへりくだって赦しを乞う、というの ではなく、断食が彼らの徳を積む行為だと思っていたのです。 むしろ自分たちの誇りのために断食を行っていたのです。 ここにヨハネの弟子たち、というのも出てきます。 このヨハネは、もちろんバプテスマのヨハネです。 ヨハネは、ヨルダン川で悔い改めのバプテスマを授け、多くの弟子たちが出来 て、初期キリスト教の時代にもその集団が活動をしていたようです。 彼らの生活は非常に禁欲的で、断食もしばしば行っていたようです。 しかし、聖書の理解によりますと、バプテスマのヨハネは、キリストの到来の道 備えをするものであり、キリストの到来によって、既に新しい時に変わっている のです。 ヨハネのグループは、その時を見分けることが出来ず、依然として古い時の断食 を行っていたのでした。 さて、パリサイ人たちの非難に対して、イエスは次のように答えられました。 34節。 するとイエスは言われた、「あなたがたは、花婿が一緒にいるのに、婚礼の 客に断食をさせることができるであろうか。 ここで花婿と言われているのは、キリストを表しています。 婚礼の客は、イエスの弟子たちです。 イエスは、今は結婚式の時、喜ばしい時なのだ、と言うのです。 それは、イエスがこの世に送られたことによって、人間に真の福音がもたらされ たからです。 そして、その福音を受け入れて取税人レビがイエスに従ったのです。 レビが盛大な宴会を催したのは、その喜びの現れなのです。 それをイエスは、婚礼の席に譬えているのです。 私達が結婚式に招かれても不機嫌にして、出された御馳走に手をつけなかったと したら、その場をまきまえない、失礼な態度になってしまいます。 パリサイ人の態度はまさにそのようだ、とイエスはいいます。 イエスの到来、それは喜びの時なのです。 そしてイエスは、罪人がその喜びの福音を受け入れた時は、非常に喜ぶのです。 イエスは、ルカによる福音書15章のところで、いなくなった一匹の羊が見付か った譬話をし、「罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔い改めを必要としない9 9人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう」といわ れました。 また、その次の放蕩息子の譬話では、いなくなった放蕩息子が帰って来た時、そ の父親は嬉しさの余り、肥えた子牛をほふって祝宴を催した、とあります。 聖書において、しばしば食事の席が喜びの時を表します。 先程言いました旧約聖書において、肉親の死とか何か悲しむべきことに遭遇した 時は断食をしましたが、それが取り除かれ悲しみが喜びに変えられた時には食べ たり飲んだりしたのです。 預言者は、終末の時の祝福された状況をしばしば祝宴として描写しています。 イザヤ書25章6節。(P.974) 万軍の主はこの山で、すべての民のために肥えたものをもって祝宴を設け、 久しくたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。すなわち髄の多い肥 えたものと、よく澄んだ長くたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられ る。 そして、私達の聖餐式は、一つには十字架上のキリストの肉と血を記念するもの ですが、また終末の時に主によって設けられる祝宴の先取りでもあるのです。 イエスは、譬話しでしばしば祝宴のことを言っています。 盛大な祝宴を催したのに、招待された人がいろいろな理由をつけて断った話しも あります。 このような祝宴は、やはり、終末の時に設けられる祝宴が暗示されているので す。 さて、今日のところでイエスは、今は婚礼の席のように喜ばしい時であるので 断食する必要はないが、しかし時によってはそうでない、ということを言いま す。 35節。 しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう。 この「花婿が奪い去られる日」というのは、イエスの十字架の死を暗示していま す。 福音書において、ここがイエスの受難を予告している最初の記事です。 イエスが十字架にかけられた日、弟子たちが断食をしたかどうかは記されていま せんが、恐らくその悲しみの余り食事どころではなかったでしょう。 しかし、イエスが復活された後、イエスは弟子たちと共に食事をされた、とあり ます。 これはやはり喜ばしい出来事であるからです。 イエスは、ここで、パリサイ人たちの出した断食の問題について、一概に断食を 否定しているのではなく、時を見分けることが大切である、ということを言って いるのです。 その時に応じた行動というものがあります。 その場合、今の時がどういう時であるかということを見分けることが大切です。 パリサイ人たちは、イエスによって新しい時が到来したことを見分けることが出 来ず、依然として古い秩序に固執していたのです。 それだけでなく、古い秩序からはみ出たイエスを非難し、また憎み、最後はとう とう十字架にかけてしまったのです。 時を見分けることが出来ないということは、時に恐ろしい結果を招きます。 時を見分けることが出来ないために全くちぐなぐなことをしてしまうからです。 36節。 それからイエスはまた一つの譬を語られた、「だれも、新しい着物から布ぎ れを切り取って、古い着物につぎを当てるものはない。もしそんなことをし たら、新しい着物を裂くことになるし、新しいのから取った布ぎれも古いの に合わないであろう。 古い着物のつぎを当てるのにわざわざ新しい着物を切り取るということはだれも しません。 こんなことはだれが考えても常識です。 しかし、時を見分けるのは、中々難しいものです。 これは、一般の世間の常識から判断するのではないからです。 これは現実を眺めているだけでは分からないのです。 神の側から知らされるのです。 従って、わたしたちは、神のみ声に耳を澄まして聴く、ということが大切です。 今はどういう時でしょうか。 食べたり飲んだりする時でしょうか。 それとも断食すべき時なのでしょうか。 それともそれとは別の時なのでしょうか。 さやかには分かりません。 しかし、この時代にも神は私達に働きかけておられるのです。 神は私達に語りかけておられるのです。 その語りかけと逆行するようなことのないようにしたいと思います。 そのためには常に聖書のみ言葉に耳を傾けていく必要があります。 今世界は、一つの新しい時代に入っていると思います。 すなわち、戦後の冷戦は終わり、大戦争の危機が過ぎた、ということです。 大国同志が覇権を争うのでなく、皆が協力して地球全体のことを考え合っていく ということです。 このような時代に、一国が軍事力を増強したり、一国の利益だけを考えるという ことは時を見分けることが出来ないのです。 キリストの到来以来、世は終末に向かって、すなわち救いの完成される時に向 かって歩んでいます。 キリスト再臨に向かって、その備えをなす、というのが、今の時ではないでしょ うか。 断食の時でもないけれども、手放しで喜ぶ時でもありません。 終末の喜びの時に向かって、その備えをなす時です。 私達は、常に聖書のみ言葉に耳を傾けて、今の時を見分ける者とされたいと思い ます。 (1991年8月18日)