16、ルカによる福音書6章1ー11節

  「安息日の主」



 イエスが、ガリラヤの地方で伝道をされた時、多くの民衆がイエスの言葉を聞
くために集まりましたが、イエスの言動にことごとく批判した人たちがいまし
た。
その代表がパリサイ人や律法学者でした。
前の5章のところでも、27節以下の所で、取税人レビがイエスに従い、盛大な
宴会を催した時、パリサイ人や律法学者たちは、「取税人や罪人たちと食事を共
にした」と言ってイエスたちを非難しました。
また33節以下の所では、バプテスマのヨハネの弟子たちやパリサイ人たちは断
食をしているのに、イエスの弟子たちは断食をしない、と言って非難しました。
 今日の記事は、イエスの弟子たちが、安息日に麦の穂を摘んだということで、
これまたパリサイ人がイエスを非難した、という話しです。
 1節。

  ある安息日にイエスが麦の畑の中をとおって行かれたとき、弟子たちが穂を
  つみ、手でもみながら食べていた。

ここでイエスの弟子たちは、麦畑の中を通っていた時に、実った麦の穂を摘ん
で、食べた、というのです。
余程お腹が空いていたのでしょうか。
同じ記事を伝えるマタイによる福音書の方では、「彼らは空腹であったので」と
いう言葉があります。
讃美歌121番に「食するひまも、うち忘れて」という歌詞がありますが、イエ
スのガリラヤ伝道は、かなりハードシュケジュールであったようです。
それは、ガリラヤの地方を、短い期間に出来るだけ広い地域に伝道しようとした
からです。
その先々では、先程のレビの家でのように盛大な晩餐会に与ることもあったでし
ょうが、そういうことはそうしばしばあったのではなく、多くはゆっくり食事を
する時間もなく、旅を急いだのでした。
ここでも弟子たちは、空腹のまま旅を続けていたのでした。
ちょうどその時、麦畑を通りかかり、折りよく麦の穂が実っていたのでした。
弟子たちは思わず手が出たのでしょう。
 この麦畑は、勿論、弟子たちのではなく、他人の所有のものでした。
するとそれは、盗みということになります。
しかし旧約聖書の法によると、こういうことも場合によっては許されていたので
す。
申命記23章25節には、次のようにあります。

  あなたが隣人の麦畑にはいる時、手でその穂を摘んで食べてもよい。しか
  し、あなたの隣人の麦畑にかまを入れてはならない。

すなわち、空腹をいやすために、手で穂を摘んで食べることは許されていたので
す。
ただし、空腹をいやすためでなく、かまなどを使って、刈り取った場合は、盗み
となったのです。
ここには、古代イスラエルの法において、貧しい人々や弱い立場の人々を保護し
なければならない、という考えがあります。
別の所では、土地の所有者は、収穫の時、畑の隅々まで刈り尽くしてはならな
い、四隅は貧しい人が自由に食べてもいいように、残しておかなければならな
い、という法がありました。
 さてここで、パリサイ人たちは、弟子たちが人の畑の麦の穂を摘んだこと自体
には何ら非難していません。
それは、パリサイ人たちもこの申命記の法をよく知っていたからでしょう。
2節。

  すると、あるパリサイ人たちが言った、「あなたがたはなぜ、安息日にして
  はならぬことをするのか」。

パリサイ人たちは、イエスの弟子たちが他人の麦畑の麦を摘んだこと自体ではな
く、それを安息日にしたということを非難しているのです。
 安息日は、十戒の第4戒に言われているもので、ユダヤ人たちは昔から非常に
大事にしています。
そこでは、次のように言われています。

  安息日を覚えて聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせ
  よ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはなら
  ない。

この「なんのわざ」というのは、時代によって、様々に解釈されてきました。
最初は、いわゆる労働です。
さらに、商売をすることとか、荷物を運ぶこと、火をたくことなども含まれまし
た。
火を起こすことも出来ませんので、食事の準備は安息日の前の日にしなければな
りませんでした。
そしてこれは、時代と共に、いろいろ拡大解釈がなされてきました。
安息日に歩くことの出来る距離なども決められ、イエスの時代は大体1キロ位だ
ったようです。
そしてイエスの時代には、350項目ものことが禁じられていた、と言われま
す。
そして、その解釈は、パリサイ人や律法学者の権限となっていました。
ここでパリサイ人たちは、イエスの弟子たちが麦の穂を摘んだというのを、労働
の一種と解釈し、手でもんだというのを食事の準備と解釈したのです。
かなりこじつけのようですが、このようなことはパリサイ人にまかり通っていた
のです。
 さて、イエスは、パリサイ人たちのこのような非難にどう答えたでしょうか。
3ー4節。

  そこでイエスが答えて言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たち
  とが飢えていたとき、ダビデのしたことについて、読んだことがないのか。
  すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほかだれも食べてはならぬ供えの
  パンを取って食べ、また供の者たちにも与えたではないか」。

このダビデの出来事は、サムエル記上21章1ー6節に記されていることです。
ダビデは、この時、サウルによって追われていました。
ダビデは、神によって立てられたサウルに、弓を引くことをせず、逃げてばかり
いました。
それでも、ダビデに忠実に従う家来がいました。
彼らの飢えを見るに忍びないダビデは、彼らを潜ませた上、ただ一人危険を犯し
て祭司アヒメレクのもとに食物の入手の交渉に出掛けました。
しかし、祭司の家では食事用のパンがちょうど切れており、祭司のみが食べるこ
との出来る供え物のパンしかなかったのです。
アヒメレクは、ダビデの家来たちが祭司と同じくらい清潔な生活をしているなら
ば、供え物のパンを提供する、と言いました。
ダビデは、それを堅く約束して、そのパンをもらって、家来に分け与え、飢えを
忍んだのでした。
 今日のところで、イエスは、この古い話を引き合いに出しているのです。
祭司しか食べることの出来なかった供え物のパンだが、人の命を救うために祭司
アヒメレクは、あえて規定を破った、とイエスは言うのです。
 法というのは、本来人間のため、人間を生かすためにあるものです。
しかし、その法が一人歩きして、ただ形式的になると、人間を生かすどころか殺
すものになってしまいます。
心を失った法は、しばしば冷たく、危険でもあります。
学校の規則も、本来は生徒のためのものです。
しかし、法だけを形式的に守ろうとする所から、心のない結果になり、実際に1
人の人を殺してしまった、という事件も起こりました。
人と人との間に取り決められるいろいろな規則にしてもそうです。
規則を重んじ、人を重んじないなら、それは本末転倒になります。
行政などで、しばしば規則を盾にとって、弱い者が切り捨てられる、ということ
があります。
そうではなく、本当は、人を生かすために規則があるべきなのです。
 この安息日というのも、本来は人のためにあったのです。
聖書において、安息日は、神の創造の業と関係づけられています。
すなわち、神は天と地の創造の業を6日間なし、そして7日目に休まれました。
そこで、人間も仕事を休むのだ、というのです。
ただ、6日間労働をして疲れるので休息を取る必要があると言った人間中心的な
理解ではなく、神が創造の業を完成し、それを祝福した、そしてその喜びに人は
招かれて、その日に人は神の恵み深い業を覚えて、神の祝福に与るのだ、という
ことです。
この世の労働から解放され、この世の煩いから解放され、神の恵みと祝福に与る
日、それが安息日です。
従って、安息日は、重荷となるのではなく、重荷から解放される日です。
それを、「あれをしてはいけない」「これをしてはいけない」「麦の穂をつんで
はいけない」「何キロ以上は歩いてはいけない」「食事の用意をしてはいけな
い」「火を起こしてはいけない」といろいろ細かな規定で束縛していくなら、本
来の安息日の解放という意味がなくなってしまいます。
そういういろいろなこの世の重荷、思い煩いから解放されて、神の恵みと祝福に
与る日が、本来の安息日なのです。
私達の安息日は、日曜ですが、私達は主イエスの

  すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたが
  たを休ませてあげよう

という招きの言葉に招かれて、礼拝に来ているのです。
ですから、もし礼拝が重荷となるならば、それは本来の安息日とは言えません。
 古代イスラエルには、安息日の他、安息年というのもありました。
すなわち、7年目を安息年と言ったのですが、この年には、畑も1年間何も植え
ずに休ませなければならなかったのです。
この年は畑にとっても、急用の年だったのです。
また、7年が7回巡ってくるとヨベルの年でした。
この年には、奴隷は解放されたのです。
そこで、ヨベルの年は、解放の時として、最も喜ばしい時として、人々から期待
されたのです。
 そのように、安息日というのは、本来、人間がいろいろなものに縛られている
ところから解放され、神の恵みと祝福に与る時でした。
ところが、イエスの時代の安息日は、それとは反対に、いろいろな規定で人間を
がんじがらめに縛りつけていたのです。
 イエスは、その本来の安息日を取り戻したのです。
5節。

  また彼らに言われた、「人の子は安息日の主である」。

「人の子」というのは、メシアを表す称号でした。
ここで、イエスは自らをメシアだ、と言っています。
そして、メシアなるイエスこそが安息日の主であります。
 私達にとって、安息日は、キリストの復活の記念である聖日です。
私達は、この聖日に、主の安息に招かれているのです。
すなわち、この世のいろいろな私達を縛りつけているものから解放されて、神の
恵みと祝福に与るために、礼拝へと招かれているのです。
それは、この聖日は、この世の力の支配する所ではなく、安息日の主であるキリ
ストの支配し給う所だからです。
聖日の礼拝は、決して私達の重荷ではないのです。
そうではなく、この世のいろいろな重荷から解放されて、神の恵みと祝福に与る
日なのです。
私達は、この真の解放の日である安息日に招かれていることを覚え、感謝をささ
げたいと思います。

(1991年9月1日)