19、ルカによる福音書6章27ー36節
「黄金律」
今日の箇所も、「平地の説教」と呼ばれているものです。 マタイによる福音書では、「山上の説教」と言われているものですが、内容的に は多少違っています。 例えば、今日の27節には、「敵を愛し、憎む者に親切にせよ」とありますが、 マタイによる福音書の方では(5章44節)、「敵を愛し、迫害する者のために 祈れ」となっています。 イエスの教えたこの「敵を愛せよ」ということは、人間にとって最も難しい、否 殆ど不可能なことではないでしょうか。 このような教えは、旧約聖書にもいくらか見ることが出来ます。 例えば、出エジプト記二三章4ー5節(P.107) もし、あなたが敵の牛または、ろばの迷っているのに会う時は、必ずこれを 彼の所に連れて行って、帰さなければならない。もしあなたを憎む者のろば が、その荷物の下に倒れ伏しているのを見る時は、これを見捨てて置かない ように気をつけ、必ずその人に手を貸して、これを起こさなければならな い。 もう一つ、箴言25章21節(P.912) もしあなたのあだが飢えているならば、 パンを与えて食べさせ、 もしかわいているならば水を与えて飲ませよ。 また、ダビデがサウルに命を狙われ、逃亡していた時、エンゲデの野の洞穴でサ ウルの寝ているのを見て、一思いに殺すことも出来たが、衣の裾を切っただけで 助けたことは、ダビデが敵をも愛したということで、後々まで称賛されました。 しかし、これなどは特に例外的なもので、ダビデも告白しているように敵を愛す ることがもし出来るとするならば、それは神のみが贈り給う奇跡的な賜物という 以外にないでしょう。 先週スペインのマドリッドで中東和平会議が行われ、歴史的な会議であったけ れども、余り成果はなかったように思われます。 イスラエルの側もアラブの側も、自分の正当化と相手の非難とに終始したと思い ます。 ユダヤ教は、旧約聖書を正典としている訳ですが、「敵をも愛せよ」という教え からは程遠いと思います。 イエスの時代のユダヤ人は、「隣人」は愛するが(この場合の「隣人」は、親戚 や仲間を意味しますが)、そうでない人は愛す必要はない、と考えていたので す。 ユダヤ人にとって、サマリア人は敵でした。 律法学者は、サマリア人は隣人ではなく愛す必要はない、と考えていました。 そこで旧約聖書の「あなたの隣人を愛せよ」は、同胞に対するもので、敵である サマリア人には適用しないのだと考えていました。 しかし、イエスは、「良きサマリア人」の譬話で、そのような者も隣人だ、と教 えました。 これはイエスは、教えただけでなく、実際にそのような生き方をされました。 十字架にかけられた時、自分を十字架にかけた人々のために「神よ、彼らを赦し 給え」と祈られました。 「敵を愛せよ」というのは、私達には非常に難しいと思います。 しかし、私達には、これを行った主イエスがおられる、ということです。 また、29節のことも非常にむつかしいことではないか、と思います。 あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る 者には下着をも拒むな。 これもマタイによる福音書とは少し違っています。 マタイによる福音書では「右の頬」というように「右の」という言葉が入ってい ます。 イエスの時代には、「右の」というのに特別な意味があったようですが、ルカの 時代にはその意味が分からなくなっていたようです。 また、上着と下着は逆になっています。 すなわち、マタイによる福音書では「下着を取ろうとする者には、上着をも与え なさい」とルカによる福音書とは逆になっています。 なぜそうなったのか、またどちらのテキストの方が本来のものであるかは、よく わかりません。 とにかくここでは、「無抵抗」ということが言われていると思いますが、このよ うなことが果たして人間に可能でしょうか。 否、逆に悪をそのまま放置すれば、この世は悪人だらけになってしまうのではな いでしょうか。 ニーチェというドイツの哲学者は、このようなイエスの教えを「奴隷道徳」とし て非難しました。 このようなことを人々に押し付けるなら、社会はむしろ悪くなってしまう、と言 うのです。 しかしイエスは、決して悪人が増えることを望んでいるのでは勿論ありません。 イエスはもっと次元の高いところで考えているのです。 ペテロの第一の手紙5章9節には、「悪魔に対して抵抗しなさい」とあります。 聖書において悪に対しては放置しておいた方がよい、という考えはないと思いま す。 そうではなく、ここでイエスが言おうとしているのは、復讐ということを断ち切 ることです。 悪人に厳しい罰を課すことによって、その人の心を変え新しい人にすることが出 来るでしょうか。 日本人は仇討ちの話が好きです。 その代表的なのは、忠臣蔵ではないでしょうか。 私も、子供の頃はこの話が好きで、これの映画やテレビを良く見たものでした。 しかし、仇討ちから何か新しいものが出てくるでしょうか。 仇討ちされた方は、心を入れ替えて新しくなるかというとそうではなく、むしろ 相手に憎しみを増します。 そして逆に仇討ちをします。 私達も人に何か厭なことをされたなら、それに対して厭なことをすることでお返 しをするならば、そこにはもう出口はありません。 憎しみに憎しみで答えれば、果てることがありません。 キリストは、憎しみに愛で答えることによって、憎しみの連鎖に終止符を打った のです。 これが十字架の道です。 31節。 人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせ よ。 これは一般に黄金律Golden Ruleと言われています。 その名の通り、最も高い人間の倫理でしょう。 すべての人が、これをすることが出来れば、世の中は幸福になると思います。 これと同じような思想は、他もあります。 例えば、孔子は、論語の中で、「己の欲せざるところは、人に施すなかれ」と言 いました。 これは、儒教の教えとして、日本にも深く浸透していると思います。 親が子によく言うことは、「とにかく、人に迷惑をかけてはいけない」というこ とではないでしょうか。 ユダヤ教のタルムードにおいても、この論語の言葉と似たものがあります。 「あなたが望まぬことを、あなたの隣人に対してしてはならない。これが法のす べてである」というものです。 自分の厭な事を、人にしてはならない。 これは、重要なことであり、人間が社会生活を営んでいく時に守らなければなら ない基本的なことです。 しかし、イエスの教えた黄金律は、これと少し違います。 即ち、自分に厭なことは、他人にするな、というのは、消極的な態度です。 他人に迷惑にならないように、当たり障りのない生き方をする、ということにな ります。 これに対して、イエスの自分にして欲しいと思う事を人にもそのようにせよ、と いうのは積極的な態度です。 しかし、なかなか困難なことです。 イエスは、最後の晩餐の席で、弟子たちに「互いに愛し合いなさい」と教えら れました。 そして、それに先立って、まず、自分がたらいを出して、弟子たちの足を洗いま した。 互いに愛し合うという教えを述べられると共に、弟子たちの足を洗うという行為 において、それを実践されました。 イエスの姿勢は、人に求める前に、自らがその人になしていく、というものでし た。 もし、人に信用されたいと思うなら、まず自分がその人を信用することです。 相手を心から信用していないのに、どうして相手から信用されるでしょうか。 もし、子供に愛されたいと思うなら、まず自分が本当に子供を愛していくことで す。 尊敬されたいと思うなら、自分がまず相手の人を尊重することです。 イエスは、まさにこれを行った方です。 仕えられるより、仕えたのです。 しかし、私達は、自分中心的です。 人々からして欲しいと望んでも、中々人には出来ないものです。 私達のめんつやプライドが中々それを許さないのです。 人に仕えるよりも、人から仕えられることを望むのです。 イエスの教えた黄金律は、私達には中々難しいものです。 しかしこれは、神がまず私達に身をもって示して下さったものです。 36節。 あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。 神がまず、私達に慈悲を示して下さったのです。 私達は、まず、神の恵みを無条件に受けていることを知るべきです。 私達自信が神の頬を打っているような、あるいは神に対して上着を奪い取ろうと しているような者であるかも知れません。 しかし、神はこのような私達にも大いなる恵みを賜って下さるのです。 ヨハネの第一の手紙4章10ー11節を見てみましょう。 わたしたちが神を愛したのではなく、神が私達を愛して下さって、わたした ちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここ に愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さった のであるから、わたしたちも互いに愛し合うべきである。 この神の愛を知ったとき、律法は戒めや義務ではなく、この神の愛への応答とし て出てくるものです。 イエスが律法を成就したというのは、イエスが神の愛の大きさを最もよく知って おられた、ということになるかと思います。 彼自らその神の愛に応えて、神に忠実に従ったゆえです。 黄金律をはじめ、この平地の説教で述べられている戒めは、私達には中々困難 のことです。 しかし、私達には、それを完全に行ったイエスがおられます。 私達は、弱さの故にキリストと同じ道を歩むことは出来ません。 しかし、それを目指して歩むのです。 ピリピ人への手紙3章12節には、次のようにあります。 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うので はなく、ただ捕らえようとして追い求めているのです。 これはパウロの言葉ですが、パウロ自身も決して完全な者ではありませんでし た。 しかし、キリストに捕らえられているが故に、それを目指して歩んだのです。 私達もキリストに捕らえられた者です。 私達は、キリストと同じ完全な道は歩めない弱い存在ですが、私達にはその完全 な道を歩まれたキリストが主としてあります。 そしてこのキリストに励まされ、慰められ、導かれつつ私達のつたない歩みを続 けたちと思います。 (1991年11月3日)