20、ルカによる福音書6章46ー49節

  「堅固な土台」



 今日は、1991年最後の礼拝です。
今年一年間も神の恵みのうちに過ごすことを出来たことを感謝しつつ礼拝を献げ
たいと思います。
今日のテキストは、「平地の説教」の最後の部分です。
この「平地の説教」は、20節から始まっていました。
20節を見ると、「イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた」とあり、イエ
スはこの説教を直接には、彼の弟子たちに語っています。
しかし、その弟子たちは広く私達キリスト者も含まれている、と解釈することが
出来るでしょう。
弟子たちは、イエスの語る言葉を聞いている訳ですが、その聞き方にもいろいろ
あります。
表面的には、同じように聞いていても、左の耳から右の耳へ、聞き流している、
という聞き方もあります。
日本の諺にも、「馬耳東風」とか、「馬の耳に念仏」というのがあります。
世間の噂話ならそんな聞き方でもいいでしょう。
しかし、これを語り給うのは、我らの主イエス・キリストです。
 47節。

  わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あ
  なたがたに教えよう。

ここでイエスは、「わたしの言葉」と言っています。
イエスの言葉を聞く場合、私達は聞き流す、という訳にはいきません。
真剣に心から聞かなければなりません。
日本語でも、真剣に聞く場合は、耳へんの「聴く」という字を書きます。
「傾聴する」と言います。
この「聴く」というのは、単に耳に聞こえて来る、というのでなく、それに聴い
て従うということも含まれますので、「聴従(する)」とも言います。
イエスはここで、私達に「聴従する」ことを求めておられるのです。
 旧約聖書においても、神の言葉を心から聴かなければならない、ということが
しばしば言われています。
例えば、申命記6章4ー9節。(P.155)

  イスラエルよ聞け。われわれの神主は唯一の主である。あなたは心をつく
  し、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならな
  い。きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、努
  めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時
  も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。またあな
  たはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えと
  し、またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければなら
  ない。

これは、最初の言葉「聞け」(ヘブル語では「シェマー」)を取って、ユダヤ人
の間で「シェマー」と呼ばれていたものです。
ここでは、神の言葉を心に留める(即ち、真剣に聞く)というだけでなく、それ
を子供に教え、あらゆる機会にこれを語らなければならない、と言われていま
す。
それだけでなく、神の言葉を書いたものを、手につけたり、家の入り口にはった
りしなければならない、と言われています。
これは、時と共に形式化していきましたが、しかしこの本当の目的は、神の言葉
を聞き流すのではなく、真剣に心から聞く、ということでした。
なぜなら、イザヤ書40章8節に、

  草は枯れ、花は萎む。
  しかし、われわれの神の言葉は
  とこしえに変わることはない

とありますように、私達人間の言葉は、草が枯れ、花が萎むように、はかないも
のですが、神の言葉は永遠に変わることがないからです。
 さて、今日のテキストにおいてイエスは、神の言葉を岩にたとえています。
そして、神の言葉を真剣に聞くことを、岩の上に自分の家を建てることに譬えて
います。
48ー49節。
  
  それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪
  水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできな
  い。よく建ててあるからである。しかし聞いても行わない人は、土台なし
  で、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、
  たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである。

ただここでイエスは、「私の言葉を聞いて行え」と言って、命令しているのでは
ありません。
戒めを与えているのではありません。
先程のシェマーは、戒めでした。
「聞かなければならない」、「語らなければならない」、「書き記さなければな
らない」と言われていました。
 しかしここでイエスは、「わたしの言葉を聞いて行わなければならない」とは
言っていません。
家を建てる場合、二つの場合がある、と言っています。
即ち、岩の上に家を建てる場合と、砂の上に家を建てる場合です。
そして私達は、岩の上に家を建てることも出来るし、砂の上に家を建てることも
出来るのです。
私達にはどちらも許されているのです。
決断は、私達に委ねられているのです。
しかし、どちらの家がしっかりしているでしょうか。
そしてイエスはここで、どちらの家を建てた人の方が賢いか、と私達に尋ねてい
るのです。
そして、この譬えを聞く者は、子供でもその答えは分かります。
勿論、「岩の上に自分の家を建てた人が」賢い人です。
そして、「砂の上に自分の家を建てた人が」愚かな人です。
 家というのは、私達の人生、私達の生き方、と言ってもいいと思います。
イエスは、私達の人生、私達の生き方の土台をどこに置くか、ということを言っ
ているのです。
 私達は、人生の土台をどこに置いているでしょうか。
どこに置くかによって、私達の人生は違ってきます。
土台いかんによって、意義ある人生を送ることも出来、はかない人生になること
もあります。
そして、それは表面的には分からないのです。
否、表面的には、私達に魅力的に見えても、実ははかないものかも知れません。
ごつごつした岩よりも、奇麗な砂の方が見た目には美しい。
魅力的です。
そして、何もなければ砂の上の家の方がいいように思えます。
しかし、雨が降って「激流が押し寄せてきたら」どうでしょうか。
砂の上の家はたちまち倒れてしまうでしょう。
日本の諺にも、「砂上楼閣」というのがあります。
人生は、晴天ばかり続く訳ではありません。
雨が降ることもあれば、嵐に見舞われることもあります。
これは、人生の一つの危機を言い表しています。
そういう危機の時に私達は試みられます。
そういう時に、しっかりした土台の上に立っているか、そうでないかで、人生が
大きく違ってきます。
詩篇の記者は、「主はわが岩、わが城、私を救う者、わが神、わが寄り頼む岩、
わが盾、わが救いの角、わが高きやぐらです」と言っています。(18篇)
 私達の人生の土台は、お金や、財産や権力や地位といったものではなく、神の
み言葉です。
これこそ、何よりも堅い岩です。
例え、この世的なものが乏しくても、神の言葉を土台にするならば、意義ある人
生となるでしょう。
 マタイによる福音書16章18節のところで、ペテロはイエスから「あなたは
岩である」と言われました。(p.26)

  そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしは
  この岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはな
  い。

この岩とは何でしょうか。
カトリック教会では、これはペテロ自身だと解釈します。
しかし、プロテスタント教会では、ペテロという個人に言われたのでなく、ペテ
ロが答えた信仰告白だ、と解釈します。
その信仰告白とは、16節です。

  シモン・ペテロが答えて言った。「あなたこそ、生ける神の子キリストです
  」。

イエスこそ、生ける神の子キリストである、という信仰告白の上に、教会は立っ
ているのです。
そして、この信仰告白こそ、最も固い岩です。
私達の人生も、このイエス・キリストを土台とするなら、最も固い土台の上に
立っている、ということが出来ます。
 今日の譬でイエスは、家の作り方や設計については何も言っていません。
どういう材料を使うかとか、どんな形に作るかとか、どんな色にするか、といっ
たことは何も言っていません。
ただ家の土台をどこに置くか、ということだけです。
従って、同じ土台の上に画一的な家を建てるというのではありません。
すなわち、個人個人の性質や、考え方、状況や、生き方は違うのです。
皆が同じ危機を迎える、というのでもありません。
ある人が危機にある時、他の人はそうではない、ということもあります。
ただ、私達の土台としているものが共通なのです。
 すなわち、私達は神のみ言葉を土台にして、それぞれ別々に与えられている人
生を歩んでいるのです。
そして、礼拝を共にすることによって、共にみ言葉を聞くことによって、同じ土
台に立っているのを確認するのです。
 言うまでもなく、み言葉を聞く場は、教会です。
イエスは、「これらの言葉を聞いて行う」と言っています。
まず、神の言葉を聞くということが私達には必要です。
そしてそれは、教会以外にはありえないのです。
勿論、自分で聖書を読むということも大切ですが、人間自分からはなかなか聖書
を読まないものです。
読んでも自分勝手に解釈してしまいます。
何よりも、聖書は人間の知恵でもって読むのでなく、聖霊の導きによって読まな
ければなりません。
そして公同の主日礼拝において、聖霊に導かれつつ聖書を読み、聞くのです。
 しかし、それだけではありません。
聞き流しでは何もなりません。
イエスは、「聞いて行う者を岩の上に自分の家を建てた人」に譬えています。
私達がそれぞれ置かれている状況の中で、そのみ言葉に従った生き方が求められ
るのです。
それぞれに置かれた状況が違うので、その行いも当然違ってきます。
教会が迫害の中にあって、信者が皆一つになって権力に抵抗しなければならない
時、というのもあるでしょうが、多くの場合はそれぞれが、それぞれの置かれた
状況の中で、み言葉に従って行動するのです。
建てられる家はそれぞれ皆違うのです。
 しかし、その土台は、砂ではなく岩です。
私達は常に、神のみ言葉に心から耳を傾けつつ、「岩を土台とする」信仰を生涯
続ける者でありたいと思います。

(1991年12月29日)