21、ルカによる福音書7章1ー10節
「これほどの信仰」
1節。 イエスはこれらの言葉をことごとく人々に聞かせてしまったのち、カペナウ ムに帰ってこられた。 「これらの言葉」というのは、前の章の20節から始まった「平地の説教」のこ とです。 イエスが平地の説教を終えて最初にしたことは、百卒長の僕の病気を癒した、と いうことです。 そしてこれは、平地の説教と無関係ではありません。 イエスはただ言葉を語るだけでなく、その言葉を実行されるのです。 平地の説教の21節の後半において、イエスは あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。 笑うようになるからである。 と言われました。 まさに、ここの百卒長にとって、自分の僕が病気になって今にも死にそうになっ ているのは、泣くほどの悲しみでした。 しかし、この僕はイエスに癒され、悲しみが喜びに代えられたのです。 カペナウムは、イエスがガリラヤ伝道をした時に滞在した町でした。 ここには、ペテロの家があり、イエスはしばしばこの家を拠点にしてガリラヤの いろいろな地方を旅しました。 このカペナウムの町は、交通の要路にもなっており、ここには税関所が設けられ ていました。 5章の所では、その税関所で働いていた取税人レビを弟子にした、という話があ りました。 また、この当時のガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスは、この重要な町に自分 の軍隊を配置していました。 そして、その軍隊の百人部隊を任されていたのが、ここに出て来る百卒長です。 この百卒長は、ユダヤ人ではなく、いわゆる異邦人でした。 2ー3節。 ところが、ある百卒長の頼みにしていた僕が、病気になって死にかかってい た。この百卒長はイエスのことを聞いて、ユダヤ人の長老たちをイエスのと ころにつかわし、自分の僕を助けにきてくださるようにと、お願いした。 この百卒長の部下の一人が病気で死にかけていた、というのです。 そして、この百卒長は、何とかして、この部下が回復してほしいと願っていたの です。 ここに、この百卒長の部下を思う深い愛情が伺われます。 彼は、この部下を自分の家族のように愛していたようです。 どんな病気かは、記されていませんので分かりませんが、「死にかかっていた」 とありますから、そうとう重い病気で、恐らく医者にも見捨てられていたのでし ょう。 この百卒長は、彼が治るようにといろいろなことを試したことでしょう。 しかし、どれもきかず、もはや施す手がなかったのかも知れません。 しかしそれでもあきらめずに助けを求めていたのです。 そんな時、イエスのことを耳にしたのです。 あるいは彼はイエスの話を直に聞いたことがあったのかも知れません。 というのは、イエスもこの同じカペナウムの町を根拠にして伝道していまし たから、この町でも話をしたり、病人を癒したりしていたからです。 そしてこの百卒長は、イエスに最後の望みをかけたのではないでしょうか。 しかし、彼は直接自分でイエスの所にたのみには行きませんでした。 どうしてでしょうか。 彼は百人部隊の隊長であった訳ですから、地位からするとかなり高い地位にあっ た訳です。 にもかかわらず、非常に謙遜な人だったようです。 彼は自分が異邦人であったために、イエスの前に出る資格がない、と思ったので す。 そこでユダヤ人の長老たちに代わって行ってもらった、というのです。 彼は、このユダヤ人の長老たちに非常に信頼されていたのです。 4ー5節。 彼らはイエスのところにきて、熱心に願って言った、「あの人はそうしてい ただくねうちがございます。わたしたちの国民を愛し、わたしたちのために 会堂を建ててくれたのです」。 「わたしたちの国民」というのは、ユダヤ民族のことです。 彼らは、神に選ばれた国民として誇りをもっていました。 その自分たちのために会堂を建ててくれた、というのです。 ユダヤ人は、宗教的な民族ですから、その礼拝の場である会堂(「シナゴグ」と 言いますが)を中心にして生活をしていました。 ユダヤ人が新しい町に住み、もしそこに会堂がなければ、彼らはまず最初に会堂 を建てたのです。 カペナウムは、ガリラヤの町で、昔からユダヤ人が大勢住んでいましたので、会 堂はあったでしょうが、恐らく老朽化したために立て直し、その時にこの百卒長 が多額の献金をしたのでしょう。 百卒長というのは、役人としてはそれほど高い地位ではありませんでしたので、 そんなに裕福な人であったとは思われません。 それでも会堂再建のために多額の献金をしたということは、この人がユダヤ教に 対してかなり熱心な信仰があったからでしょう。 ただし、彼はユダヤ教に改宗していた訳ではありませんでした。 ユダヤ教に改宗するというのは、ただ聖書の信仰をもつというだけではだめだっ たのです。 ユダヤ教に改宗するというのは、現在でもそうですが、生活習慣もユダヤ人と同 じくする、ということです。 ですから、異邦人がユダヤ教に改宗するのは、並大抵ではなかったのです。 そしてそれは、現在でもそうです。 例えば、日本人でもかつてユダヤ教に改宗した人がいましたが、その人は割礼を 受けユダヤ人と同じ律法の定めに従ったのです。 こういうことはユダヤ人以外には中々困難です。 パウロは、異邦人伝道をするとき、いちはやくこのことに気がつき、救いに入れ られるのは、律法の行いによるのでなく、イエス・キリストを信じる信仰による ということを主張しました。 そのことによって、キリスト教は、世界宗教として発展したのです。 さて、異邦人も聖書の神を信じて、会堂で礼拝することは出来ました。 この百卒長は、恐らくそのような人だったのでしょう。 そしてユダヤ人の長老たちに篤い信頼を得ていたということは、単に会堂を建て たというだけでなく、ユダヤ人よりも信心深く、また日ごろの生活態度も非常に 立派だったのでしょう。 それゆえにこそ、ユダヤ人の長老たちは、彼を尊敬し、彼の願いを快く聞いてイ エスの所の頼みに来たのでしょう。 私達は軍隊に対しては余りいいイメージはもちません。 まして、その隊長ということになると、傲慢で横暴で、とても信仰とはほど遠い 、というイメージをもちます。 ところが、聖書に出て来る百卒長は、これは偶然かも知れませんが、しばしばと ても信仰深いのです。 例えば、ルカによる福音書23章47節によりますと、イエスが十字架上で死ん だ時、そこにいた百卒長は、「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言っ た、というのです。 また、使徒行伝10章には、コルネリオという非常に信心深い百卒長の話が出て きます。 さて、この百卒長に敬意を払っていたのは、ユダヤ人の長老たちだけでなく、 イエスもこの人に対しては非常に感心された、ということです。 それは、この人の信仰に対してでした。 6ー8節。 そこで、イエスは彼らと連れ立ってお出掛けになった。ところが、その家か らほど遠くないあたりまでこられたとき、百卒長は友だちを送ってイエスに 言わせた、「主よ、どうぞ、御足労くださいませにょうに。わたしの屋根の 下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。それですから、 自分でお迎えにあがるねうちさえないと思っていたのです。ただ、お言葉を 下さい。そして、わたしの僕をなおしてください。わたしも権威の下に服し ている者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と 言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせ よ』と言えば、してくれるのです」。 これに対してイエスは、「これほどの信仰は、イスラエルの中でも見たことがな い」と言って感心されました。 百卒長というのは、百人の部隊の隊長でした。 すなわち、自分の部下に百人いたのです。 軍隊の制度は、いつの時代でも、上官の命令には絶対服従です。 彼はこれをイエスの言葉に比べたのです。 イエスが、「これほどの信仰」と言って感心したのは、この百卒長のイエスに対 する絶対的な信頼に対してでした。 彼は、ここで、イエスにわざわざ家まで来ていただくには及ばない、と言いま した。 これはイエスに対する遠慮というものではありません。 自分は異邦人なので、イエスを自分の家に入れる資格がない、と思ったのです。 当時のユダヤ人の一般的な考えは、異邦人は汚れた民であるから、例えばユダヤ 人が異邦人の家に入ったなら、汚れる、と考えたのでした。 そこで、百卒長は、イエスが自分の家に入ってもし汚れでもしたら大変と思 い、「来るには及ばない」と言ったのです。 しかし、自分の部下の病気を癒してもらいたい、という願いは非常に強くありま した。 そこで彼は、例え遠くからでもイエスの言葉を頂くことが出来たら、それで自分 の部下の病気は治る、と確信したのです。 そして、その確信は、イエスに対する絶対的な信頼でした。 軍隊において、自分が命令することは、部下が絶対にその通り行うように、イエ スが言葉を発すれば、それは必ず成る、という確信でした。 信仰というのは、イエスの事をどれほど信じられるか、ということです。 そういう意味では、この百卒長は、イエスのことを100%信じていた、という ことが出来ます。 そしてすべてをイエスに委ねることが出来たのです。 その信仰にたいしてイエスは、「これほどの信仰」と言われたのです。 私達もイエスのことを100%信じる信仰をもちたいと思います。 (1992年1月12日)