23、ルカによる福音書7章36ー50節

  「罪をゆるす方」



 36節。

  あるパリサイ人がイエスに、食事を共にしたいと申し出たので、そのパリサ
  イ人の家にはいって食卓に着かれた。

一人のパリサイ人が、イエスを食事に招待した、というのです。
食事に招待するというのは、この地方にとって、その人に対する深い尊敬と感謝
の気持ちからでした。
そしてそういう時には、大変な御馳走を出すのが普通でした。
パリサイ人がイエスをこのような食事に招待するというのは、奇異に思うかも知
れません。
なにしろ聖書の記事においては、パリサイ人は、常にイエスと対立していた、と
いう印象を持つからです。
しかし、中にはイエスを尊敬していたパリサイ人もいたのです。
ヨハネによる福音書3章には、ニコデモという非常に謙遜なパリサイ人の指導者
の話が出てきます。
彼もイエスを尊敬し、ある夜ひそかにイエスに教えを乞いに来ました。
また、後にキリスト教の伝道者となったパウロも、最初はパリサイ人でした。
 さて、この人(40節ではシモンと言われていますが)がどういうことでイエ
スを尊敬したのか分かりませんが、恐らくイエスの説教を聞き、あるいはイエス
が病人を癒したことを聞いたのでしょう。
イエスは、パリサイ人をも含めてすべての人に神の福音を語ろうとしたのです
が、しばしばパリサイ人の側がイエスに敵対心をもっていったのです。
それは、自分たちが律法の指導者である、という自負心からでした。
 さて、その食事の席に、一人の女の人が入ってきました。
ルカによる福音書には、女性がよく登場します。
次の8章の3節の所でも、イエスに従った女性として3人の人の名前が挙げられ
ています。
また、イエスが十字架にかけられた時、それを最後まで見守った人として、やは
り3人の女性の名が挙げられています。
当時の男性中心の社会においては、ルカがこのように女性の名を記すというの
は、異例かも知れません。
37節。

  するとそのとき、その町で罪の女であったものが、パリサイ人の家で食卓に
  着いておられることを聞いて、香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、
  なきながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬ
  らし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。

一人の女がイエスの足に香油を塗ったという話しですが、似たような話は、マタ
イによる福音書にもマルコによる福音書にもヨハネによる福音書にもあります。
とても印象的な事件であったと思われます。
ただ、他の福音書では、イエスが十字架にかかるその週に、ベタニアという所で
行われ、イエスはこの女の行為が自分の葬りの用意であるとされました。
マルコによる福音書14章8節(P.76)。

  この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注い
  で、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。

 さて、今日の所で、この女性は、「罪の女」と言われています。
これは娼婦のことです。
当時娼婦は、ユダヤ人の世界からは、罪人として嫌われ、差別されていました。
この女は、泣きながらイエスの所に来た、とあります。
なぜ泣いていたのでしょうか。
その理由は記されていません。
しかしこの涙は悲しみの涙ではなく、喜びの涙であったに違いありません。
そして、香油を塗ったというのは、感謝の気持ちの現れなのです。
では一体、この女は何を喜び、何に感謝したのでしょうか。
恐らく彼女は、この以前にイエスから罪のゆるしの宣言を受けたのでしょう。
彼女は、罪の女として、ユダヤ人の社会では受け入れられず、嫌われ、差別され
ていました。
その彼女に「あなたの罪はゆるされた」とイエスは語ったのです。
その喜びは、いかに大きかったことでしょう。
そしてその喜びの気持ちを表すために高価な香油をおしげもなくイエスの足にぬ
ったのです。
 どうして彼女が娼婦になったのかは分かりません。
しかしこの当時の社会から考えて、恐らく自分の意志からではないでしょう。
何かそのようにならざるを得ない理由なり状況なりがあったのでしょう。
現在日本では、従軍慰安婦のことが問題になっています。
しかしその実態ははっきり分からないようです。
それは彼女たちの所在がなかなか分からず、また分かったとしても中々証言が得
られないからです。
多くの人は戦争の犠牲者になって死にました。
しかし、たとえ生きていたとしても、女の操が尊ばれていた朝鮮の故郷の村には
帰らなかったそうです。
どこか分からないところで、しかも屈辱と罪の意識の中に暮らしていたようで
す。
それゆえたとえ所在が分かっても、彼女たちはなかなか過去を語りたがらないそ
うです。
こういう人たちは対してだれも責めることは出来ませんが、しかし世間の目は冷
たいのが実情です。
 ここの「罪の女」は、多分このような形で娼婦になったのではないでしょう
が、自分の意志ではなく、そういう結果にならざるを得なかった何らかの(恐ら
く非常に気の毒な)事情があったのでしょう。
しかし理由はどうであれ、このような人に対する世間の目は冷たいものです。
まして、この当時のユダヤ人の社会では、このような人は汚れた人として公然と
差別されていたのです。
こういう人に触れるだけで、あるいは話をするだけで、汚れると考えられたので
す。
しかしイエスは、そういう女に罪の赦しの宣言をされたのです。
この女性の喜びは、私達の想像を絶するものがあったでしょう。
そこで感謝の気持ちを込めて、非常に高価な香油を惜し気もなくイエスに注いだ
のです。
 さて、この女性の態度に、パリサイ人は冷ややかでした。
39節。

  イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で言った「もしこの人が預
  言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはず
  だ。それは罪の女なのだから」。

このパリサイ人は、確かにイエスのことは尊敬していました。
それだからこそ、イエスを食事に招待したのでした。
ここで彼は、イエスのことを預言者であると思っていた、ということが言われて
います。
それはきっと、イエスが病人を癒したりしていたからでしょう。
そして彼は、預言者とあろう者が、罪の女も見破れないのか、と心に思ったので
す。
しかしさずがに、それを直にイエスに言うほど、礼を失するようなことはありま
せん。
社会的にも皆から認められていた人らしく、節度はわきまえていたのです。
しかしイエスには、このパリサイ人の心が分かったのです。
 一方このパリサイ人は、人の心が分からなかったのです。
いな分かろうとしなかったのです。
この女がどういう気持ちでイエスに香油を注いだのか、どうして泣いたのか、と
いったこの女の心を見ずに、この女は罪の女である、という先入観からしか物事
を見ないのです。
そして罪の女であるというレッテルを貼り、差別するのです。
私達もややもすると、人と接する時、その人の心を見ないで、表面的に見て、あ
るいは先入観でもって判断して、この人はこうだというレッテルを貼ることがよ
くあります。
先程の従軍慰安婦が戦後も自分の故郷の村に帰らなかったというのは、村の人が
自分を「汚れた女だ」とレッテルを貼ることを恐れたからでした。
しかし、イエスは、私達に対して、そのようなレッテル貼りはしません。
ですから、当時ユダヤ人の社会では受け入れられていなかった取税人や罪人など
とも何のこだわりもなく交わったのでした。
 そして、イエスは、このパリサイ人に対しても、頭ごなしに「お前は間違って
いる」と非難したり、あるいは追及したりということはしません。
そうではなく、やさしく譬話を語って、自分で悟らせようとされるのです。
イエスは、どういう人に対しても、その人その人の人格を尊重されます。
41ー42節。

  イエスが言われた、「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは
  五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。ところが、返すことが
  できなかったので、彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで、ど
  ちらが彼を多く愛するだろうか」。

こんな譬話しなら誰でも理解することが出来ます。
このパリサイ人も「多くゆるしてもらったほうだと思います」と答えています。
すなわち、私達は、どれだけ神からゆるしてもらっているか、ということを思う
ことによって、神への愛、神への信仰が決まるということです。
M・ルターは、「大胆に罪を犯せ」ということを言いました。
これは非常に誤解を招く言葉ですが、彼は実際に罪を犯すことを勧めているので
は勿論ありません。
これは私達がどれだけ多くのものを神から許されているか、ということなので
す。
罪に対して赦しがある訳ですが、その罪が大きいほど赦しも大きいということに
なります。
そこで大きな赦しを得るために「大胆に罪を犯せ」と言ったのですが、これは私
達がいかに大きな赦しを神から得ているかを認識せよ、ということなのです。
48節においてイエスは、この女に対して、

  あなたの罪はゆるされた

と宣言しています。
この罪の赦しの宣言は、ただイエスだけがすることの出来るものです。
パリサイ人は、イエスに預言者のくせに罪の女を見抜くことが出来ないのか、と
心に思いましたが、イエスには預言者以上のこと、すなわち罪の赦しの宣言をす
ることが出来るのです。
「あなたの罪はゆるされた」という言葉は、また私達にたいしても言われている
宣言なのです。
しかもこの宣言は、私達の側には何の条件もないのです。
先程の譬えにおいても、五百デナリ借りた人も、五十デナリ借りた人も、返すこ
とが出来なかった、とありました。
しかし一方的に許されたのです。
すなわち、神の前に大きな罪も、小さな罪の、私達自らの力でそれを解決するこ
とは出来ないのです。
共に、神に無条件に許されているのです。
この罪の女にしても、彼女が高価な香油をイエスに塗ったから罪が許されたので
はありません。
確かに、この行為の後にイエスは、この女に「あなたの罪はゆるされた」と言っ
ていますが、これはその前に既に一度言われたことなのです。
そして、その喜びと感謝の表明として、彼女は香油をイエスに塗ったのです。
決して香油を塗ったことが、罪の赦しの条件ではないのです。
 そして、これは私達とて同じことです。
私達も既にイエスから「汝の罪赦されたり」という宣言を受けているのです。
私達が何かをなしたから許されたというのではありません。
そしてそれは、五百デナリ許されているのか、五十デナリなのか、はそれぞれの
認識で違うでしょう。
しかし、多くのものを許されているということは皆同じです。
ですから、私達も香油をイエスに献げなければならないと思います。

(1992年2月2日)